禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

われらはみなテセウスの船

2018-10-01 10:24:27 | 哲学

テセウスというのはギリシャ神話に出てくるアテナイの王様の名である。テセウスがクレタ島のミノタウロスという化け物を退治し凱旋した時の船を、アテナイでは英雄の武勇伝の記念として長い間保存していた。それは木造船であるから、だんだん朽ちてくる。駄目になった部品を取り換えているうちに、元の材料で作られた部分はすべてなくなってしまった。そうすると、現存する船を果たして「テセウスの船」と呼ぶべきだろうか?

考えてみれば、われわれ人間もテセウスの船とあまり違わない。筋肉は約二カ月、骨は3年周期で細胞が入れ替わっているらしい。心臓の筋肉や脳神経の細胞は入れ替わらないらしいが、原子や分子レベルでは新陳代謝している。要するに、どの人間も10年前と現在を比べてみればほぼ別人といってよい。

無常の世界では、すべてのものは一寸たりとも立ち止まることなく変化している。それだけで独立して存在している個物というものは(厳密に見れば)存在しないのである。個物だけではない、例えば「人間」という一般的な概念(哲学用語では「普遍者」という)についても考えてみよう。「人間」という概念は観念上のものであるから、それは不変のまま固定されて存在し得ると思いがちであるが、そうは簡単に行かない。もともと人間は地球上には存在しなかった、それは進化の過程で偶然生まれたに過ぎない。つまり、人間は人間以外のものから生まれたことになる。親は人間以外で子は人間という境界がなくてはならないことになる。しかも一人では繁殖できないのだから、過渡的に人間と人間以外の交雑もあるという状況の中で、どのようにして人間と人間以外を区別できるというのかが疑問である。つまり、人間の本質というものを客観的に確定できる基準というものは存在しないということにならざるをえない。

結局、個物も普遍者も存在しないということであれば、前回記事で述べたように「すべての存在者は存在しない。」ということになる。「何もない」というような、決して神秘的なことを言おうとしているわけではない。無常観、空観を通して世界を見れば、このような哲学的表現になるのである。

( 横浜 山手 ) 

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