本日のタイトルは、小林秀雄の「当麻」の中の有名な一節であります。ここで言う「花」は世阿弥の言う芸の花であります。小林は世阿弥の「花」について論ずる美学者たちを皮肉って、美は解釈を拒絶すると言うているのであります。が、この「花」を植物の花と解釈してみても、哲学的に意義のある言葉であると思います。
① 「ローマの休日」におけるへプバーンは息をのむほど美しい。
② 夕日を背にした富士山さんは荘厳なまでに美しい。
② 夕日を背にした富士山さんは荘厳なまでに美しい。
当然ですが、ヘプバーンと富士山は全然似ていません。まったく別のものでありながら、私たちはおなじく「美しい」と表現するのです。よくよく反省してみれば、「美しい」ものは実に多様であります。青い空に浮かんだ白い雲も美しいし、透き通った水も美しい。目に見えるものだけではありません。ショパンの調べはとても美しい。親子の情愛も美しいと言えます。美しさは実に多様であります。いや、バリエーションがありすぎると言えるかもしれません。我々にとって好ましいものは何でも「美しい」と言えそうな気がします。美味しいものを食べた時、私たちは「うまい」と言います。「美しい」とは言いませんが、しかしもともとの日本語の「うまし」は美しいという意味でした。美味い=美しいと考えてもそう不都合ではなさそうです。アメリカ人なら美味しいものを食べた時、「びゅーてぃほー」と言いそうな気がします。このように考えてみると、「美」という概念が極めて多義的なものであることがわかります。
あらためて、一本の美しいバラの花について、その美しさについて考えてみましょう。「バラの花が赤い。」という時、一般に「赤色」がそのバラの属性として宿っていると考えられます。同様に、「バラの花が美しい。」という時、「美しさ」がそのバラの属性であると私たちは思うわけです。しかし、よくよく考えてみれば、バラの「赤さ」と「美しさ」には決定的な違いがあります。
私たちは「赤いバラ」から「赤」を抽出することができますが、「美しさ」は抽出することができないからです。赤いバラの花の「赤さ」以外の属性はすべてそのままにして、例えば全く同じ形状・質感でありながら白いバラを想像することはできます。しかし、他の属性をそのままにしたままで「美しくない」バラを想像することができるでしょうか? この花と切り離された「美しさ」を私たちはイメージすることができないのです。 「ローマの休日」のオードリー・ヘプバーンの姿形をそのままにして、美しくないヘプバーンを想像することはできません。
もともと、美しさなどという属性はないと考えるべきでしょう。「バラの花は美しい」、「オードリー・ヘプバーンは美しい」、ただそれだけのことであります。
それが、「美しい花がある。花の美しさといふ様なものはない。」ということではないかと思います。