先日テレビで、「ぶっちゃけ寺」という番組を見た。現役のお坊さんが出演するというバラエティ番組で、その日のテーマは「仏教の心を歌う日本の名曲」ということだった。当然のことだが、歌謡曲はどこか心の琴線に触れるものがあるからはやり歌になるわけで、心の問題を扱う宗教に理屈を付けて関係づけることはそれほど難しくない。こういう試みを通じて仏教を親しみやすいものにするのもいいかもしれない。
しかし、少し気になる点があったので2点ほどあげておきたい。
まず最初に気になったのが、中島みゆきの「時代」である。この曲は文句なしに名曲だが、それについてのお坊さんのコメントが引っ掛かったのである。
〽 まわるまわるよ 時代はまわる
〽 喜び悲しみ繰り返し
〽 今日は別れた恋人たちも
〽 生まれかわって めぐりあうよ
この歌をあげたお坊さんが言うには、この歌は仏教の「輪廻」を表現しているというのである。確かに、六道輪廻は仏教の教説として語られるが、釈尊自身は死後のことについて語ることはなかったということは僧職なら覚えておくべきだと思う。
仏教では方便的な説明もある程度は許されているので、長い年月を経た今となっては、仏教内部で矛盾した教説もままある。「輪廻」という概念もその一つである。我々の経験は死後の世界には及ばない。経験の到達しえないことに言及すれば、それは想像でしかない。単なる想像を真実であるかのように言うのは仏教の精神に反してはいないだろうか。かつては六道輪廻も方便として有意義であったかもしれないが、到底近代精神と相いれる説ではない。
釈尊は経験の到達しえない領域の事柄については「無記」として、言及を避けたのである。このことは重く受け止めるべきだと考える。
一般に日本の歌はウェットであると言われる。自己陶酔型の歌詞が多いからだろう。演歌などはほとんど煩悩がテーマであると言っても過言ではない。たいていはネガティブな感情に浸って、自己憐憫におぼれているような歌である。つまり、煩悩のただなかにいて、なおかつそこに執着する。これは「執着を断つべし」という釈尊の教えに真っ向から対立する、そんな歌が実に多い。そんな中で、「スーダラ節」のようにつきぬけた明るさのある歌があるのも面白い。浄土真宗のお坊さんはこの歌を仏教の心を示す歌として挙げていた。
〽 分かっちゃいるけどやめられねぇ
確かに、分かってはいてもやめられないのが人間である。どんなにまっすぐ生きようとしても厳しい現実に折れてしまったり、甘い誘惑に取り込まれてしまうのが人間である。そういう弱い人間に対する親鸞のまなざしはとても優しい。親鸞の教えは寛容で、「分かっていてもやめられない人間」にとって大きな救いである。
しかし、親鸞の教えは寛容であっても、親鸞の信仰への姿勢はとても厳しい。その厳しさ故に、「分かっているけどやめられない」という人間の弱さに絶望しているのだ。だからこそ阿弥陀如来に助けられるしかない、という他力信仰に行き着くのである。
「分かっちゃいるけどやめられねぇ」と大声で歌っているだけでは、そこにみほとけの教えはないどころか、「本願ぼこり」的な居直りのにおいもする。そうなると親鸞の教えと真逆にもなる危険もある。テレビに出てくるお坊さんには、もう少し丁寧な説明をしていただきたいと思った次第である。
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