禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教はリアルな世界を追及する

2016-08-25 11:30:32 | 哲学

以前、「お釈迦さまは実存主義者」という記事をアップしたが、言い足りなかったことを改めて補いたいと思う。釈尊の哲学は常に、リアルなものつまり現実に存在するものを対象としていた。実は「無常」も「空」もそこのところから生じてくるのである。

「無常」や「空」がリアルであるとは、逆説的に聞こえるかもしれないが、実に当たり前の道理なのだ。例えば現に存在するものの例として、目の前の文鎮について考えてみよう。鉄製の文鎮は堅牢でずっと同じ形を保っているように見えるが、何年もするとところどころさびてきて、やがてはボロボロになってしまうはずだ。そのボロボロになったものはもはや文鎮とは呼ばれない。では、文鎮とボロボロになった『文鎮でないもの』の境界はどこにあるのだろう? もし、文鎮の本質というものがあるならば、その境界が明晰に示されるのでなければならないはずだ。

きれいな文鎮がボロボロになってしまうことを「無常」と言い、文鎮の本質というものが実在しないことを「空」というのである。禅の師家が文鎮を指さして、「私はこれを文鎮と呼ぶが、君はこれをなんと呼ぶ?」と問うのは、その辺の消息を見極めよということである。

  『リアルな世界には固定的なものは一切存在しない。』

これが仏教の根本理念である。このことは、プラトン以来、「真・善・美」という不変の価値を追及してきた西洋思想と大きく相違する。大雑把に言って、西洋哲学はアイデアルな対象を追及し、仏教哲学はリアルな世界を追及してきたと言っていいだろう。

では、仏教的には「真・善・美」は存在しないのか? という疑問がわくのは当然だと思う。この辺は徹底していて、「真・善・美」といえども究極的なものとしては存在しない、あくまで縁起の中で生じる「仮」のものでしかない、というのが仏教の視点である。

プラトンは「善のイデア」といういわば究極の「善」そのものが存在すると考えたようである。それは絶対にして永遠不滅のものであるから、人間がこの世に出現する前からあり、人類が滅びたのちも残る、と考えられる。

ここでひとつ、ライオンが進化して人間以上の知性を獲得したと仮定してみよう。彼らは言葉をしゃべり、進んだ科学技術や文明をものにしたとしたら、はたして善悪を解することが出来るだろうか? もし究極的な「善」が存在するのであれば、彼らもそれを理解する筈だが、そのようなことはあるまい。ライオンが文明を築き上げたとしたら、彼らなりのルールや人間社会における倫理に相当するものも生まれるだろう。
しかし、それが人間の言う「善」と重なり合うことはおそらくない。人間とライオンでは生活様式が大きく違うからだ。「善悪」などと言ってみても、しょせんそれは人間のご都合に過ぎない。究極とか絶対はあり得ないのである。

(関連記事)

 「お釈迦さまは実存主義者」

 「無常とは世界の無根拠性に気づくこと」

 

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