(その2の続き)
俳句は禅と関連があるものと見なされているが、それはどういうことか少し考えてみよう。そもそも17文字という極端に短い詩が芸術として成立していることが驚きである。 俳句は元々連歌という複数人が掛け合いで歌を連ねていくいわば言葉遊びから派生したものである。連歌の最初の発句の17文字の芸術性を高めたのが松尾芭蕉である。
古池やかわず飛び込む水の音
上掲の芭蕉の句は、古池とかわずという道具立てだけで、最後の「水の音」で読者を「ポッチャーン」に導いている。言葉というものは通常は情報を伝達するものだと考えられている。しかし17文字では大した情報が表現できるものではない。俳句では、「さびしい」とか「悲しい」というような詠み手の印象を表現するような言葉は使用されないのが普通である。あくまで写実が基本である。詠み手による主観的説明はしない。基本的には状況描写だけである。ごく単純な情景描写によって読者を「ポッチャーン」にフォーカスさせているのである。この「ポッチャーン」は直観による原事実である。それはいかなる意味においても情報などではない。一言でもそこに説明的な言葉があれば、それは詠み手の解釈に陥ってしまう。すぐれた俳句は私達を解釈・偏見なしの本当の世界に引き戻す、私達はその本当の世界に立ち還る。その気づきに感動するのである。
菜の花や月は東に日は西に
これは与謝蕪村の有名な一句である。これは蕪村が六甲山地を訪れた際に読まれたものだそうだが、そういう情報を読み取ることはできない。山地に囲まれたところなのかはたまた広大な平原のただ中で詠まれたものなのか、人によって想い描く情景は全く違うかもしれない。しかしそんなことには関係なく、この句が優れたものだと誰にでも分かる。お日様が西に沈もうとしている。月が東の方から昇ってくる。なんと雄大な光景ではないか。その圧倒的な天空に直面している。それが解釈を絶した本物の世界に気付く時でもある。
俳句の中に雑なものは何もない。いかなる偏見もまじえる事なく素朴に世界を見つめる。その辺が禅と共通するのだと思う。
わび(侘び)・さび(寂び)について辞書的な意味を調べると、わびは「貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識」、またさびは「閑寂さのなかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさ」というような意味らしい。要するに、華やかさや雑多さとは対極にある美意識というような意味のようだ。よけいな修飾や説明を拒否する俳句とわび・さびは相性が良いようだ。よけいな分析や解釈を拒否する禅的現象学ももまた同様である。
(その4に続く)