日本臨済宗の実質的な総本山である妙心寺の御開山である関山慧玄国師は、死について問われた時、「慧玄が会裏に生死なし」と答えたと伝えられている。我々が普段語っている「死」は他人の死について語っているのであって、決して自分の死についてではない。自分の死について語ろうとしても、それはどうしても他人の死から連想した死のイメージでしかないのである。
一応、自分の死を矛盾なく定義することはできる。例えば「感覚がすべてなくなり、なにも認識できない状態」というふうに。しかし、それには直観が伴わない、いわば空疎な概念である。どんなに頑張ってみても、「感覚がすべてなくなり、なにも認識できない状態」を想像することは私達にはできない。
「それは感覚のない世界だから、暗黒と静寂の世界ではないか」と言う人がいるかもしれない。しかし、すでに「暗黒」と「無音」ということを自分の感覚で想像しているのである。なにも認識できないのなら、それは暗黒でも静寂でもないはずである。
しかし、哲学や宗教の中で、人々はさんざん死について語ってきたのではなかったか? 一体、それはなにについて語られてきたのだろうか?ということになる。おそらく、それは分からない。人は死について語るとき、自分が何について語っているかを知らないで語っているのである。
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