この問題の難しさは、位置というものの絶対的な基準がないことにもあるが、心というものがなにを指すのかがそもそも明確でないことにある。位置というのは物の世界におけることであり、物と心の関わりというものが明確でないかぎり位置も示せないはずである。。だとすれば、心がどこにあるかを特定できると考える方がむしろおかしいような気がしてくる。
思うに、たいていの人は目の後ろの方、つまり脳でものを考えているように感じているのではないだろうか、実は私もそのように感じていた。しかし、そのように感じるのは、精神の中に占める視覚の比重が大きいからではないかと思う。もし、眼が膝頭についていたら、膝裏で考えているように感じるということもあったのではないだろうかと私は思うのである。
虚心坦懐に反省してみると、パソコンに向かっている時は文字が語りかけてくる。私の思考はディスプレイ上で展開されている。手を伸ばしてものを掴もうとするとき、掴もうと意志しているのは私の手である感じがする。他人と怒鳴りあいをしている時、怒っているのは私の口ではないだろうか。
「私が悲しい時、世界が悲しんでいる。」という言葉を誰が言っていたのかが思い出せないが、言い得て妙だと思う。私が悲しいとは、世界が悲しみの相貌を帯びていることだろう。実は、心はそのような広がりをもっている。