禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

語りえぬものについては沈黙すべし

2017-08-04 08:45:15 | 哲学

「語りえぬものについては沈黙すべし」というのは、ウィトゲンシュタインという哲学者の言葉で、「論理哲学論考」という論文を締めくくる言葉です。この「論考」はまるで箴言を書き連ねたような体裁で、哲学論文としては一風変わったものとなっています。それが少し格好良くて、特に「語りえぬものに‥‥」は引用されることが多いようです。

 普通は「語りえぬもの」については語ることさえできないのだから、「沈黙すべし」とは奇妙なもの言いです。ウィトゲンシュタインは、「哲学上の問題は言語の論理に対する誤解から生じている」と考えていたようです。つまり、本来なら語りえないはずのものが語られていると考えていたようです。

ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」とは、論理と倫理についてだと言われています。 

論理について語れないというのは、例えば論理規則に矛盾率というのがあります。「Aである」ということと「Aではない」ということを同時に受け入れることはできないという規則です。この矛盾率がなぜただしいかということを私たちは論じることが出来ません。もし、この矛盾率を否定しようとしても、矛盾率を使わなくてはそれもかなわないはずです。私たちはものごとの判断に論理を使いますが論理そのものを語ることはできないのです。 

倫理についてはどうでしょう。われわれは様々な価値感に基づいて判断をしながら生きているわけですが、その価値観というものは行動する領域より高次なものでなくてはならないわけです。すると倫理というものはその最高次のものですから、すでにその根拠を問える領域は我々を超越しているため、それを論じることが出来ないのです。 

「人間は何のために生きるのか?」という問いに対し、われわれはその答えがどのような形で与えられるでしょうか。このような問いは、文学的か宗教的にとらえるしか答えようがありません。「生きる」に<私>のすべての意味が込められているため、それをとらえきれないからです。人生の意味を捉えるには人生を超越している必要があります。人生のただなかにいながら、その意味を問うことはできない。われわれは生きるためになにかを問うのであって、生きることそのものを問うことなどできないのです。 

つまり、「語りえぬもの‥」には、本来は語りえないはずなのに無意味なことを語っている、という意味が込められています。若いウィトゲンシュタインは、この「論考」を書き終えた時点で、哲学上の問題はすべて解決したと宣言したのです。

横浜 日本大通り

コメント (1)
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