禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

死に向かって生きる

2017-03-01 06:07:14 | 公案

「死に向かって生きる」なんて言うとハイデガーみたいですが、昨日聴いた南直哉さんの講演のタイトルです。南さんはご存知の方も多いと思います。青森県の恐山の院代(副住職)をなさっている、いまや曹洞宗きっての論客です。講演の出だしをちょっと復元してみます。一つ一つの言葉は覚えていないので、大体の感じです。

こんな演題で人が集まるのかと思ってましたが、たくさん見えておられますねぇ。(聴衆の顔を見渡して) なるほど、お迎えの近い方が多いようですねぇ。( どっと笑う )   あの男は ( 死んだらどうなるかを ) きっと知っているに違いない、と思ってきたのでしょうね。きっと私が恐山の院代なんかやっているからでしょうね。なにせ、あの霊場、「れ・い・じ・ょ・う」の恐山ですよ。そこの役員かなんかをやっているぐらいだから、あの男が知らないはずがないと思うのでしょうね。しかし、( ここで声のトーンを一段と上げる ) そんなことぁ、分かるわけがない! 

‥‥‥‥ (  中略 ) ‥‥‥‥

死んだら、どっかへ行くわけですけど、たいてい門番みたいなのがいて、生きてる間に何をやったかチェックされますな。いわゆる閻魔帳ってやつです。それで、あんたはこっち、あんたはあっちと振り分けられるわけです。でも、( ここでトーン上がる ) し・ん・ぱ・い なぁいです。どっちへ行っても大したことありませんっ! 天国なんて、あなた、なんか雲の上でふわふわと、そんなの (トーン上がる )  お・も・し・ろ・いわけがないっ! えっ、地獄が怖い? 大丈夫っ! 苦しいのはすぐ慣れます。私は永平寺で地獄を20年間経験しましたっ。針の山、大したことありません。全然大丈夫、ちょっと痛いだけです。そういうのは慣れてくるんです。経験した私が保証します。

とまぁこんな感じです。下手な噺家よりよっぽど面白いです。90分間で30回は笑かしてもらいました。もしかしたら笑い過ぎて、せっかくためになること言ってくれたのに、肝心なことを聞き漏らしたかもしれません。

講演は横浜駅構内のルミネであったので、臨港パークを散歩して桜木町から電車で帰りました。

フルーツ・ツリー ( 臨港パーク 横浜 )

コメント (5)
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