禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

日本的精神と日本的霊性

2015-08-29 06:54:41 | 哲学

最近、育鵬社の教科書というのが話題になっている。特に問題視されている、中学校の公民に掲載された曽野綾子氏のコラムを取り上げたいと思います。

≪ 大学生の時、アメリカに留学していた先生がすっかりアメリカ風になって帰国されて、その先生とドアの前で一緒になったんですね。

先生がどうぞ!っておっしゃるの、レディファーストですね。私たちは男性優先と育っていますから、「いえいえどうぞ」と言ったんだけれど、「いえいえ、どうぞ」と譲らないの、私は気が短いものだから、「では」と言って先に廊下に出ちゃった。

 そうしたらイギリス人のお年寄りのシスターが見ていたらしく、すごく叱られた。

彼女らが言ったのは "To be international be national" ということでした。人は一つの国家にきっちり帰属しないと『人間』にならないし、他国を理解することもできないんです。‥‥ ≫

ドアの前でいつまでもどうぞどうぞと譲り合っていたららちが明かないし、それほど美しい光景だとも思わない。「では」と言って先に廊下に出た曽野さんの行為は、むしろ潔くてなんら批判されるべきではない。こんなことくらいで「すごく叱る」シスターのいる大学に高い授業料を払って通うことはないと私は考える。ドアをどちらが先に通るかなどということはその国によって違うが、同じ国でも時代によって容易に変わりうる。エチケットや風習にはある程度根拠があるが絶対ではない。見る角度によっていろいろ変容するものである。

それに、「人は一つの国家にきっちり帰属しないと『人間』にならないし、他国を理解することもできないんです。」という言葉は余りといえばあまりも不用意な思いつきとしか言いようがない。お釈迦様は一般に「インド人」だと言われているが「インド」という国に帰属していたわけではない。現代の地図の上で言うならばお釈迦様はネパール出身ということになるが、そもそも国民国家の概念そのものがもっと後の時代に生まれたものである。こともあろうに、釈尊を「人間になれない」などとは不敬に過ぎるというものである。釈尊は特定の国家などにおさまりきれない、だからこそ偉大なのである。

「日本的霊性」という鈴木大拙による名著がある。非常に難解な本であるが、これは当時日本にはびこっていた「日本的精神」への批判である。「よき日本人であれ」というのは耳触りが良いが、どうでもよいことを日本人の根っこであると勘違いしていると、抽象的な精神主義に陥るのである。大拙居士はそのことに危機感を持っていたに違いない。だから、日本人は日本精神に拠るべきではない、日本的霊性に目覚めなければならないと論じたのだ。

日本的霊性とはなにか? 親鸞と道元が到達したものがそれであると大拙は言う。親鸞は越後に流され、そこで土とともに生きる人々と生活を共にする。土着の人々の悲しみ苦しみに寄り添う、その具体的な生活のなかで日本的霊性に目覚めるのである。禅もまた日々の暮らしの中で自分を見つめる実践的な宗教である。いずれも精神主義に見る抽象性や思い込みとは無縁のものだ。

大拙のいう「霊性」の概念ははなはだ難解であるが、親鸞と道元が同じものであるのならば、当然それは釈尊が到達したものも同じもののはずである。それはやはり「インド的霊性」というべきだろう。それが中国にわたって「中国的霊性」となる。それが禅である。大拙は「禅は結局中国には根づかなかった」と述べているが、私は禅はもともと「中国的」であると考えている。それが日本に渡れば「日本的霊性」になるのではなかろうか。つまり「霊性」は普遍的なのである。人間の根っこは普遍的なものであるべきで、薄っぺらな精神主義は拒否したい。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする