三月末程度の気温と聞いて爺イもゴソゴソと冬篭もりから這い出して
冬場の定番になっている手軽な吉井の山にハイキング。本日の目標は
朝日岳の北峰(甘引城址・甘楽町)を経て多胡美人と称される朝日岳南峰
(高崎吉井町)を訪ねる。
最近、八束山と同様に地元の有志によって登山道が整備されたとの
噂を聞いたのでそれを実感するためだ。
吉井の街中を過ぎて県道71号線を南下して神戸(ゴウド)バス停を右折、甘楽との
境界にこの道標。「草喰八丁河原線」とあって管轄は甘楽町らしい。
途中で入り口を確認してから去年使った登山口、ここが峠の頂点で路傍駐車に
安全。入り口の看板は変わっていなくて「小幡羊太夫宗勝・甘引城」。
つまり、この城址を伝説の通りに羊太夫の城として大事にしたいのだろう。
羊太夫とは藤原宗勝、711年小幡羊太夫宗勝と名乗る。八束村に居住せしが
望楼として天引村に城山を築き、物見の先守とし、その勢い盛んになりけるに
讒言により官軍に攻めこまれ、城山を捨てて敗走、八束の城にて防戦すーー
との伝承であり多胡の碑の「羊」とも絡めている。
ここは戦国の城郭であることはその遺構から確認されているのに、築城時期・
盛衰がハッキリしない不思議な城址。それほど、重要ではなかったからとは
思われるがその事が、羊大夫と結びついて「羊大夫の居城」という伝説を
生んで地元では暖かくそれを受け入れているのだ。
駐車場所から180m程神戸寄りに戻ったところにさっき確認しておいた新道標。
生憎、写真が拙く文字がはっきりしないが甘引城址北登山口。
テープ箇所から中に入ると斜面を右(西)斜めに登っていく。このまま行けば
上部からの道と何れは合流する感じ。
蛇行で左に旋回するところで早くも右から来る去年の道と合流。前面には
城址の一郭を思わせる土手が現れ東に回る。
設置されたロープに縋って斜面を楽に登る。
着いた所は「虎口受け」とも思われる広場の東端。そのまま少し西に進む。
西側に回りきらないうちにリボンで登り口に誘導される。
一寸崖を上がると今度は東に反転するルート。道跡やリボンが多数で安心。
こんな崖を這い登り
岩帯に差し掛かるが歩行スペースは十分あるので全く問題なし。
左手の樹間から目指す城址が見えたが一旦は西にある小ピークを経てから
反時計回りに回り込むらしい。
これが途中の小ピークだが高低差は僅か。
綺麗な尾根道に落し物がぶら下がって風に揺られてのどかな風景。
既に完全に城址の遺構に入っているらしく幾つもの段状な所を通過するが
特に難しい処にはロープが設置されている。
ロープの結びは本格的、やはり道標を設置した団体の方々が責任を持って
やっているのが良く判り、登山者には有りがたい事だ。
尾根の切返し地点に人工物と思われる石だが付近に類似なものは無かった。
暫くは平坦尾根が続く。
高みから下るところに土橋と見られる構造物。城址らしくて雰囲気は良い。
又、段が見える。この辺は段と平地の繰り返し。
踏み跡とリボンの誘導でジグザグ道を楽々と進む。
二段の構えがはっきり。
一段目の上は腰曲輪風の半月形、前方は本丸の台地。
漸くこの標識のところから本丸の小さな平地に到着(11.23)
現存する手製の標識はこれ一枚。
朝日岳に築かれたこの山城は正確な築城年代は判明していないが、戦国時代は
山内上杉氏に仕えていた甘尾若狭守の居城である。勿論、伝説の羊太夫の居城で
あったとも伝わる。
甘尾氏は小幡氏の一族であり、天引城も国峰城の支城のひとつであったが、
小幡氏は関東管領の上杉氏に属しており、甘尾氏もそれに従い天引城に拠って、
上杉氏の居城である平井城西側の防衛線を形成していたのだろう。
ところが関東管領の上杉氏が越後に逃げ永禄4年に長野業政が病没すると
西上州は武田の侵入を易々と許すほど弱体化する。小幡氏が武田を頼り
奪われた国峰城を奪還すると永禄6年頃、上杉の諸城は箕輪・倉賀野などを
除くと悉く武田に降った。近藤義雄氏の「箕輪城と長野氏」でも甘尾氏の
武田への降りを永禄6年としている。
*「上野志」より引用
東部の白倉氏、甘尾氏も小幡一族、天引城は国峰城の外防線としての61個の
砦の一つ。
*「上野国志」より引用
箕輪城記に天引城ありきと云、並びに信玄の為に屠られる
*「上野国郡村史・天引城址、村人能く遺事を説く者なし」 忘れ去られた
城址と言う事か?
爺イの古物もG氏作と思われる名刺判も見当たらないが新規の立派なものが
付けば手製の役割は終わったのだから良しとしよう。
今は見られないかっての標識。
新標識や三角点前で本日の爺イ。
一寸だけ休んでここから南へ180mほど離れた朝日岳南峰に向かう。
この城址からは二段の曲輪と大きな堀切があるので少々慎重。
ロープを頼って漸く降りた堀切りから見上げる。
堀切りからの脱出はロープが無いので左から迂回して尾根復帰。
僅かな登りを進むと前方に朝日岳南峰が見えてくる。
頂上手前にはかっては分かり難かった東コース分岐に明瞭な道標。
東コースで上って来る登山者に対しては丁字路に南・北朝日岳の道標。
かってここで牛伏山岳会の会長さんと出会って一緒に東コースを下ったのを
思い出す。もう暫くお会いしていないがご健勝の事と思う。
岩テラスの南峰着。生き残っている標識は一枚のみだかこの南峰が城址の
三角点と同じ448mとは違和感がある。地形図を見れば極めて明瞭に
南峰の方が等高線が一本(10m差で一本)多いのが分かる筈なのだが。
上の写真で左にぶら下がっているのが昔からあった標識の成れの果て。
これは2005年頃の爺イの写真だが昔のには標高は記載されていなかった。
同じく見当たらないG氏の名刺版のかつての姿。
ここは城址と違って展望がやや良好。南には結氷した人造ダム湖。
東の眼下に見える集落は三本辻の様子から吉井・落合地区らしい。
同じ方向にはアンテナの明瞭な牛伏山490.5m、その手前に八束山453mの西峰。
簡単に軽食を詰め込んでから吉井町の正午のチャイムを契機に10年来の
友人に会うために西コースを辿り尾根を西に下る。
人が殆ど通過しないので藪になっているが暫くでこんな岩帯に出会うので
北側の細い踏み跡を辿って際どく通過。
古い友人とはこの岩だ。10年ほど前、甘楽町・田口からの西コースを
開拓したとき辿りついた稜線で迎えてくれたヤツ。
爺イから見るとこんな顔に見えるから懐かしい。南峰から約100m西。
ここからは樹間から牛伏山の南にある小梨山が見えた。この西コースは
極め付きの崖の連続なので握力・腕力・脚力の全てが衰えた爺イには
もう下りも無理なので引き返す。
この西コースをスイスイと通過してしまう達人が居られる。富岡在住の「七黒爺」を
名乗る人。但し、二万歩を越える爺イの三日分ぐらいを一日で走破する方だ。
南峰への登り返しを経て城址に向かう。ここから歩くと稜線上の突起に過ぎない
山も離れてみると立派な独立峰風。
さて、城址からこの道標に従うことにした。登山口とは書いては無いが
兎に角、折角のリボンが付けられたのだからそれを辿って見る(12.36)。
東の腰曲輪への降りは物凄い斜度、おまけに曲輪から掘り切りまでも同様。
とても立っては進めず腰を落として靴底で滑り降りる。
振り返ってホッとする。
堀切の土手を越えるとこれは又、綺麗な植林地。
僅かの距離でリボンで右下に下りる。このコース取りは爺イの従来ルート
と同じなので勝手なルートが認知されたようで思わずニヤリ。
御馴染みの作業小屋や野生大形動物捕獲檻を通過。
左手の尾根上には何の工事に使ったのか?器材の残骸が相変わらず錆びた
まま放置されていた。
やがて尾根が人工的に断ち切られているので下に見えてきた作業道跡に
降りる。目の前に見慣れないマーク、意味不明。
いや、城址のスタート道標に7-7とあったからその続きだな。
振り返って降りてきた稜線。
従来は又、稜線に登るのだが今日はリボンが左下に見えるのでそっちに行く。
誘導された道は傾斜地に付けられ左の切れ落ちた極めて危ない踏み跡。
どうやら降りに苦労するこの前面の急なザラ場の降りを避けるようなので
我慢で進む。
だが、リボン通りに歩いて着いた所は急斜面の中間どころでガックリ。
立っていられないザラ場を再び靴底滑りで冷や汗をかく。
下りきって振り返り。何の事は無い斜面の西端にちゃんと砂礫を払った
道が付けられていた。折角の配慮に気づかずに申し訳ない。
さて、目印の大岩。爺イルートはこれを右に抜けて稜線を降り、石宮を
経て料亭・やじま裏に出るか? 大岩手前の薄い作業道跡を辿って
甘楽境に出るかだがリボンは大岩の左を抜けている。これは新規なので
早速、稜線の急降にかかる。
直ぐに作業小屋らしきものの残骸、配電盤も付いているので唯の
小屋でもなさそう。
この降りもザラ場でたびたび腰を落として滑り降り。降り切って振り返り。
又、このマーク。番号が変わっているのでもっとあったらしいが下ばかり
注視していたので見逃したらしい。
やがてリボンは墓地の右を抜けるように付いていた。
そして集落が見えてきた。幸いにして幾らか神戸バス停よりは駐車場所に
寄っている感じでホッと一息。
車道への出口にはこんな道標。表示が中間道となっていて普通の登山口とは
やや違う。
車道から見ると入り口はこんな形で表示が無ければここから城址への
道が始まるとは全く想像も出来ない。
約700m、車道の登りをこなして峠頂点の車に帰着は14.00。
折角だからそのまま田口に直進して朝日岳西コース入り口を見に行ったら
かっての標識は無く、殆ど土に帰ろうとしているこれが残骸らしい。
下の写真は健在の頃の姿。
全ての予定終了で今日も無事で自宅着。次の暖気が待ち遠しい。
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冬場の定番になっている手軽な吉井の山にハイキング。本日の目標は
朝日岳の北峰(甘引城址・甘楽町)を経て多胡美人と称される朝日岳南峰
(高崎吉井町)を訪ねる。
最近、八束山と同様に地元の有志によって登山道が整備されたとの
噂を聞いたのでそれを実感するためだ。
吉井の街中を過ぎて県道71号線を南下して神戸(ゴウド)バス停を右折、甘楽との
境界にこの道標。「草喰八丁河原線」とあって管轄は甘楽町らしい。
途中で入り口を確認してから去年使った登山口、ここが峠の頂点で路傍駐車に
安全。入り口の看板は変わっていなくて「小幡羊太夫宗勝・甘引城」。
つまり、この城址を伝説の通りに羊太夫の城として大事にしたいのだろう。
羊太夫とは藤原宗勝、711年小幡羊太夫宗勝と名乗る。八束村に居住せしが
望楼として天引村に城山を築き、物見の先守とし、その勢い盛んになりけるに
讒言により官軍に攻めこまれ、城山を捨てて敗走、八束の城にて防戦すーー
との伝承であり多胡の碑の「羊」とも絡めている。
ここは戦国の城郭であることはその遺構から確認されているのに、築城時期・
盛衰がハッキリしない不思議な城址。それほど、重要ではなかったからとは
思われるがその事が、羊大夫と結びついて「羊大夫の居城」という伝説を
生んで地元では暖かくそれを受け入れているのだ。
駐車場所から180m程神戸寄りに戻ったところにさっき確認しておいた新道標。
生憎、写真が拙く文字がはっきりしないが甘引城址北登山口。
テープ箇所から中に入ると斜面を右(西)斜めに登っていく。このまま行けば
上部からの道と何れは合流する感じ。
蛇行で左に旋回するところで早くも右から来る去年の道と合流。前面には
城址の一郭を思わせる土手が現れ東に回る。
設置されたロープに縋って斜面を楽に登る。
着いた所は「虎口受け」とも思われる広場の東端。そのまま少し西に進む。
西側に回りきらないうちにリボンで登り口に誘導される。
一寸崖を上がると今度は東に反転するルート。道跡やリボンが多数で安心。
こんな崖を這い登り
岩帯に差し掛かるが歩行スペースは十分あるので全く問題なし。
左手の樹間から目指す城址が見えたが一旦は西にある小ピークを経てから
反時計回りに回り込むらしい。
これが途中の小ピークだが高低差は僅か。
綺麗な尾根道に落し物がぶら下がって風に揺られてのどかな風景。
既に完全に城址の遺構に入っているらしく幾つもの段状な所を通過するが
特に難しい処にはロープが設置されている。
ロープの結びは本格的、やはり道標を設置した団体の方々が責任を持って
やっているのが良く判り、登山者には有りがたい事だ。
尾根の切返し地点に人工物と思われる石だが付近に類似なものは無かった。
暫くは平坦尾根が続く。
高みから下るところに土橋と見られる構造物。城址らしくて雰囲気は良い。
又、段が見える。この辺は段と平地の繰り返し。
踏み跡とリボンの誘導でジグザグ道を楽々と進む。
二段の構えがはっきり。
一段目の上は腰曲輪風の半月形、前方は本丸の台地。
漸くこの標識のところから本丸の小さな平地に到着(11.23)
現存する手製の標識はこれ一枚。
朝日岳に築かれたこの山城は正確な築城年代は判明していないが、戦国時代は
山内上杉氏に仕えていた甘尾若狭守の居城である。勿論、伝説の羊太夫の居城で
あったとも伝わる。
甘尾氏は小幡氏の一族であり、天引城も国峰城の支城のひとつであったが、
小幡氏は関東管領の上杉氏に属しており、甘尾氏もそれに従い天引城に拠って、
上杉氏の居城である平井城西側の防衛線を形成していたのだろう。
ところが関東管領の上杉氏が越後に逃げ永禄4年に長野業政が病没すると
西上州は武田の侵入を易々と許すほど弱体化する。小幡氏が武田を頼り
奪われた国峰城を奪還すると永禄6年頃、上杉の諸城は箕輪・倉賀野などを
除くと悉く武田に降った。近藤義雄氏の「箕輪城と長野氏」でも甘尾氏の
武田への降りを永禄6年としている。
*「上野志」より引用
東部の白倉氏、甘尾氏も小幡一族、天引城は国峰城の外防線としての61個の
砦の一つ。
*「上野国志」より引用
箕輪城記に天引城ありきと云、並びに信玄の為に屠られる
*「上野国郡村史・天引城址、村人能く遺事を説く者なし」 忘れ去られた
城址と言う事か?
爺イの古物もG氏作と思われる名刺判も見当たらないが新規の立派なものが
付けば手製の役割は終わったのだから良しとしよう。
今は見られないかっての標識。
新標識や三角点前で本日の爺イ。
一寸だけ休んでここから南へ180mほど離れた朝日岳南峰に向かう。
この城址からは二段の曲輪と大きな堀切があるので少々慎重。
ロープを頼って漸く降りた堀切りから見上げる。
堀切りからの脱出はロープが無いので左から迂回して尾根復帰。
僅かな登りを進むと前方に朝日岳南峰が見えてくる。
頂上手前にはかっては分かり難かった東コース分岐に明瞭な道標。
東コースで上って来る登山者に対しては丁字路に南・北朝日岳の道標。
かってここで牛伏山岳会の会長さんと出会って一緒に東コースを下ったのを
思い出す。もう暫くお会いしていないがご健勝の事と思う。
岩テラスの南峰着。生き残っている標識は一枚のみだかこの南峰が城址の
三角点と同じ448mとは違和感がある。地形図を見れば極めて明瞭に
南峰の方が等高線が一本(10m差で一本)多いのが分かる筈なのだが。
上の写真で左にぶら下がっているのが昔からあった標識の成れの果て。
これは2005年頃の爺イの写真だが昔のには標高は記載されていなかった。
同じく見当たらないG氏の名刺版のかつての姿。
ここは城址と違って展望がやや良好。南には結氷した人造ダム湖。
東の眼下に見える集落は三本辻の様子から吉井・落合地区らしい。
同じ方向にはアンテナの明瞭な牛伏山490.5m、その手前に八束山453mの西峰。
簡単に軽食を詰め込んでから吉井町の正午のチャイムを契機に10年来の
友人に会うために西コースを辿り尾根を西に下る。
人が殆ど通過しないので藪になっているが暫くでこんな岩帯に出会うので
北側の細い踏み跡を辿って際どく通過。
古い友人とはこの岩だ。10年ほど前、甘楽町・田口からの西コースを
開拓したとき辿りついた稜線で迎えてくれたヤツ。
爺イから見るとこんな顔に見えるから懐かしい。南峰から約100m西。
ここからは樹間から牛伏山の南にある小梨山が見えた。この西コースは
極め付きの崖の連続なので握力・腕力・脚力の全てが衰えた爺イには
もう下りも無理なので引き返す。
この西コースをスイスイと通過してしまう達人が居られる。富岡在住の「七黒爺」を
名乗る人。但し、二万歩を越える爺イの三日分ぐらいを一日で走破する方だ。
南峰への登り返しを経て城址に向かう。ここから歩くと稜線上の突起に過ぎない
山も離れてみると立派な独立峰風。
さて、城址からこの道標に従うことにした。登山口とは書いては無いが
兎に角、折角のリボンが付けられたのだからそれを辿って見る(12.36)。
東の腰曲輪への降りは物凄い斜度、おまけに曲輪から掘り切りまでも同様。
とても立っては進めず腰を落として靴底で滑り降りる。
振り返ってホッとする。
堀切の土手を越えるとこれは又、綺麗な植林地。
僅かの距離でリボンで右下に下りる。このコース取りは爺イの従来ルート
と同じなので勝手なルートが認知されたようで思わずニヤリ。
御馴染みの作業小屋や野生大形動物捕獲檻を通過。
左手の尾根上には何の工事に使ったのか?器材の残骸が相変わらず錆びた
まま放置されていた。
やがて尾根が人工的に断ち切られているので下に見えてきた作業道跡に
降りる。目の前に見慣れないマーク、意味不明。
いや、城址のスタート道標に7-7とあったからその続きだな。
振り返って降りてきた稜線。
従来は又、稜線に登るのだが今日はリボンが左下に見えるのでそっちに行く。
誘導された道は傾斜地に付けられ左の切れ落ちた極めて危ない踏み跡。
どうやら降りに苦労するこの前面の急なザラ場の降りを避けるようなので
我慢で進む。
だが、リボン通りに歩いて着いた所は急斜面の中間どころでガックリ。
立っていられないザラ場を再び靴底滑りで冷や汗をかく。
下りきって振り返り。何の事は無い斜面の西端にちゃんと砂礫を払った
道が付けられていた。折角の配慮に気づかずに申し訳ない。
さて、目印の大岩。爺イルートはこれを右に抜けて稜線を降り、石宮を
経て料亭・やじま裏に出るか? 大岩手前の薄い作業道跡を辿って
甘楽境に出るかだがリボンは大岩の左を抜けている。これは新規なので
早速、稜線の急降にかかる。
直ぐに作業小屋らしきものの残骸、配電盤も付いているので唯の
小屋でもなさそう。
この降りもザラ場でたびたび腰を落として滑り降り。降り切って振り返り。
又、このマーク。番号が変わっているのでもっとあったらしいが下ばかり
注視していたので見逃したらしい。
やがてリボンは墓地の右を抜けるように付いていた。
そして集落が見えてきた。幸いにして幾らか神戸バス停よりは駐車場所に
寄っている感じでホッと一息。
車道への出口にはこんな道標。表示が中間道となっていて普通の登山口とは
やや違う。
車道から見ると入り口はこんな形で表示が無ければここから城址への
道が始まるとは全く想像も出来ない。
約700m、車道の登りをこなして峠頂点の車に帰着は14.00。
折角だからそのまま田口に直進して朝日岳西コース入り口を見に行ったら
かっての標識は無く、殆ど土に帰ろうとしているこれが残骸らしい。
下の写真は健在の頃の姿。
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