クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

吉井の里山周回(1)牛伏山 H-19-12-7

2007-12-08 13:49:12 | 高崎・甘楽・藤岡方面
今冬の里山第一弾は「牛伏山岳会」さんの本拠・牛伏山と「まちすい」整備の
八束山へ、wassyさんにも敬意を表して。
小春日和の中を吉井ドリームセンター駐車場へ。早くも満車に近いほど、入場者が
集まっている。一寸気兼ねしつつの支度もそこそこに出発(10.41)。
車道を横切って木段を登って取敢えず小公園を経て少し吉井側に戻って北登山口。


ダラダラ登りで西南に向い竹薮を抜けると、やがて林道(八束沢線)を横断。
林道を右に下れば八束口橋に出られる筈。
直進して平坦道を南に向うと間も無く変則四つ角(11.08)。


右は今日の見晴台コース、左は「ろう梅の里」コース、何れ稜線で合流する。
杉林の道は少々荒れ気味ではあるが、かえって登山道らしくて満足。
急登を過ぎ明るい場所に出るとそこが見晴し台直下。西の展望抜群(11.22)。
ここからは格別の急登をジグザグで登っていくが、右手に八束山。
「へ」の字の山容だが今日の予定コースは傾斜の厳しい東コースなのだ。


漸く見晴し台の広場に着。その名の通り西と北は素晴らしいがその他は
雑木が邪魔(11.36-11.49)。牛伏山は遥かな彼方で山塊が違うほど西寄り。


荒船山方面


妙義方面の積りだが写真ではゴチャゴチャで判別できない。


榛名山塊が雄大な裾野を広げるがこのボロデジカメでは遠過ぎ。


休憩後、再び歩き出すと僅かで牛伏山頂からの下り専用道路に
降り立つ(11.53)。正式名は八束・一郷線。


さて、本当の見晴台コースは林道を横断してこのコンクリート防災壁に
付けられた段を使って尾根を辿るのだが、


今日は省エネを図るため林道を0.6k登って「ろう梅の里コース」に
合流する積りでせっせと林道歩き。
やかて、ろう梅コースとの合流


直ぐ先の登山道に入りなおして急登に挑む(12.02)。


落ち葉混じりの乾ききったザラ場で木の根や雑木が頼りの厳しい登り。
牛伏との間の大きな沢を左に見ながら稜線の西端に向かっている。
何とか稜線に着くと道標、右からの道がさっきパスした見晴し台コースの
延長稜線。牛伏はこの丁字路を東に向かう(12.28)。


ほんの少しで小動物園だが、見たところ動物がいる気配はない。
更に進むと三角点(12.41)


石造りの頂上標識


これはどうしたのか後向きで


待望の牛伏山岳会標識前で前回と同じポーズの本日の爺イ。


天守閣の手前の東屋の日溜りで昼食・休憩、居合わせた歴史好きの御仁と
話し込んでしまう。
この牛伏山は一郷山城跡と言われる。歴史を辿れば1438年の「永亨の乱」の後、
上杉憲実が平井城を作った時に西の守りとして新堀(多比良)と共に一郷山城を
築城したと言われている山城。それから120年後の1563年、武田信玄の
甘楽攻略の時に落城して廃城。現在、観光用に建てられている模擬天守閣の
ような物はこの時代には存在しなかった。戦国初期に造られ中期に廃城だから。
天守閣という言葉自体は明治以降の呼称だが、その始まりは定説では
1579年の安土城と言う事になっている。勿論、それ以前にも太田道灌の
四層居城や岐阜城もあるが。
秀吉の大阪城や伏見城の絢爛たる天守閣が現れてから諸国の大名が建設を
競って広まったものらしい。
ここの模擬天守閣は観光用であり「展望台」と表現しているが一般から
見ると天守閣、五層以上が天守閣とは言うがそんな事は知られていない。
従って見物客が一郷山城時代に天守閣があったと誤解するし、歴史への冒涜で
あるとさえ言い切る手厳しい非難があるのを関係者はご存知なのだろうか?

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