クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

小幡さくら祭り  R-5 - 4- 2

2023-04-04 07:37:03 | 高崎・甘楽・藤岡方面
2019年以来、四年ぶりに開催となった小幡桜祭りの
武者行列。久し振りなので人出も多いと思って早目の
出発。例年、交通規制が厳しいので帰宅ルート・時間の事に
配慮して会場からやや離れた「甘楽道の駅」に駐車。
中心街の桜は意外にも葉桜の気配はなく絶好の
満開だが風に乗って花吹雪が舞っているので最盛期は
少し過ぎた模様。花吹雪の中、馬上の武者姿は絵になる筈。
想像通り早目の時間でも観客は多く続々と出陣式の
行われる庭園に集まって来る。準備室から出てくる
行列参加の鎧姿が何時もより数段大掛かりで豪華。
かって流行った手作り甲冑はごく少数派。休止期間に
凝った鎧姿に練り上げたか? 満を侍して出陣の雰囲気。
今年はコースが変更になり楽山園ー小幡八幡の必勝祈願ー
織田家七代の墓での戦勝報告ーお祭り広場への帰還と言う
長丁場、付いて歩いたら2万歩を越えていた。尤も
撮影の為に行ったり来たりで動いていたせいもあるが
とんだ強行軍だったが知己の進行役・武藤さんや箕輪城
まつりで戦闘場面を盛り上げる格闘集団・式の須藤さん、
群馬甲冑愛好会の松本さんにも会えて爺イの元気姿を
見せられた。

小幡さくら祭り(BGMはミュンヘン放送管弦楽団の軍隊行進曲)


小幡武者行列の様子(BGMはミュンヘン放送管弦楽団のトルコ行進曲)


(蛇足)
戦国時代、この地は国峰城に拠り長野氏などの関東管領派から
離れて武田の被官になった小幡氏の支配地、だが武田氏の
滅亡後、小幡氏は北条氏に属したのが裏目に出て1590年の
小田原征伐で上杉景勝や北陸勢に攻められ城主の小田原詰め
の留守を守って奮戦するも衆寡敵さず国峯城は無念にも
落城し廃城。小田原に詰めていた城主・信貞は敗戦後に
旧友の真田昌幸を頼り信濃に亡命、52歳で病死する。

小田原戦の後、徳川家康が関東に入部すると、その家臣
奥平信昌が三河国亀山から転封し1590年から1601年までの
11年間は、小幡領2万石として領主となり、国峯城の
枝城であった宮崎城(現富岡市)に入った。
奥平信昌は甘楽郡奥平郷(現高崎吉井町)出身で、徳川家康に
属して長篠の戦で武功をあげ、家康の長女亀姫を夫人とした男。
ところが1600年の関ヶ原合戦の功によって美濃国加納へ
十万石で再び転封となり、宮崎城は廃城となってしまう。

1601年から1602年の1年間は、奥平信昌の四男で徳川家康の
養子となった松平忠明が領主、1602年から1615年の大坂夏の
陣までの13年間は、水野忠清が小幡1万石を領した。
但し、この間の1610年から1615年までの5年間は、箕輪城
12万石の領主井伊直政の二男直孝が、福島に陣屋を築き
甘楽郡東部の地1万石を支配し、ここに織田が使った
福島陣屋が既に発祥していた。

肝心の織田信雄、明智との決戦後の清洲会議で兄・信忠亡き
後の織田家の後継者になろうとするものの、結局、織田家
当主は三法師に攫われたが信長の遺領配分で、尾張・伊賀・
南伊勢約100万石を相続した。信雄と称したのはこの時である、
その後、小田原攻めの後、家康旧領への転封を拒否して改易・
流罪の憂目に遭うが家康の斡旋で秀吉に出仕、更に 関ヶ原の
時その曖昧な態度から西軍寄りと見なされて家康によって
再度の改易をされて今度は大阪冬の陣まで淀殿支配の豊臣に
出仕するが、夏の陣直前に大阪城より逃亡。戦後に
大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が与えられ、1616年に
信雄の子信良が福島の陣屋に入り、織田氏による小幡支配が
漸く開始されたのであるが信雄本人は貴人気取りで京が好き、
当初は小幡で過ごしたものの後は京都で実質隠居だった。

息子信良は小幡藩を創設して八代・信邦が明和事件に連座
して1767年に出羽に転封されるまで小幡は織田支配の城下町。
但し、当初の陣屋は「福島」で三代・信昌の1642年に小幡に
陣屋が移されている。
従って「歴代小幡藩主」という場合は創設者の信雄四男・
信良を初代として転封された8代の信邦までの7人を云う
のであり、一方で「織田家七代の墓」と言う場合は信雄を
初代として七代藩主信富までの7人である。
従って小幡は1615年に織田氏の所領となり、以来
約152年にわたって治められた事になる。逆説的に
言えば152年間しか治めていない。

信雄→信良→信昌→信久→信就→信右→信富→信邦

明和事件が起こった翌年1767年に信邦は蟄居となり、
弟信浮は養子として認められ、出羽高畠2万石に移封と
なった。織田家移封の後、1767年に小幡2万石に封ぜられた
のは、奥平家とも縁続きの松平忠恒である。3代忠恵は、
50年にわたり藩主や幕府の奏者番・若年寄の要職を勤めた
功績により1850年に「城主格」を拝命し、以後小幡陣屋は
「小幡城」と呼ばれた。そして 4代忠恕は、小幡藩最後の
藩主で1869年版籍奉還するまで続いたーーーー
これが小幡の概略歴史だから楽山園に関しては別としても
何から何まで小幡は織田と云うのは町興しの手段にしても
少々納得しかねるーーとは爺イの独り言。


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