クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

沼田の里山(2) 高王山  H-21-4-28

2009-04-29 10:02:04 | 中之条・小野上・みなかみ・沼田・渋川
直ぐに向かい側の山道に入る。さっきは標高差が280mほどあつたが、
今回は100m一寸。



登りつつ振り返って戸神山を見たらアレアレ三角の姿ではない。



ところが更に登って見直すとちゃんと三角だった。さっきは三角部分が
稜線に隠れていたのだ。



道はきっちりとした木段で整備されているが傾斜は少々きつい。



やがて右に折れる角に道標、右に大きく迂回して西北・東南尾根に乗る。



極く僅かで頂上が見えた。



広場の様に切り開かれた場所は「GTV沼田発地中継局」と「NHK沼田発地
中継放送所」の設備が占領している。



片隅に三角点、三等 點名・高尾 765.94m (11.52)



ここで思い出した。さっきの戸神では余りの展望の見事さに舞い上がって
しまつて金属四等三角点・宮ノ入 771.7mの写真を撮り忘れてしまったのだ。

ここの展望は南が開いているだけで戸神山とは大違い。子持山らしい。



北側には城址の説明板。戦国時代、発地氏の築城とされ、1581年に
沼田景義が本陣を構え沼田城の奪還を図ったと書いてあるが、此れだけ
ではさっぱり事情は掴めない。



休憩・昼食。僅かの花を巡って活動する蝶を追いかけたりした後、
下山にかかる。



林道に降り立つと下から車が一台、単独氏がこれから登山らしく支度中。
帰途にはさっきの稜線のぼり返しではなく、左の脇道に入って周回開始(12.29)。



間もなくスポーツ広場への分岐、ここは直進しないと観音寺へは遠くなる。
道は相変わらず整備された遊歩道風で平坦か、やや下り気味。



間もなく丁字路、右に曲がって往路で見た第一の分岐を目指す。



三叉分岐到着、このルートの道標は似ているので紛らわしいが、目標までの
距離が併記してあるので錯覚が避けられる。



ここからは少しの間、往路を重複して歩くと、往路で記憶にある近道道標。



更に100mで再び分岐、直進は戸神山なので左折して下りに入る。
再び同タイプの道標、今度は観音寺近道と。確かに林間に薄い踏み跡が
確認できるがこっちは折角の遊歩道をお楽しみ中なので無視。



やがて前方に茶色の観音寺の屋根、遊歩道を離れて寺を訪問。(13.06)



敷地は広く墓地も山手まで広がっている。正面に石像物が番人のように頑張っている。



古い「みちしるべ」、「左迦葉」はハッキリしているが「右地00道」で不明。



何かの台石だったのか?ぐるりと仏像が彫られている。



更に下には「朝日子供会」の労作らしい「石尊山案内図」の看板。



道路からの分岐には案内道標があるが、この辺は細道が入り混んでいるから
往路に使ったら彼方此方と迷ってしまうかも。



そして266線に戻ると丁度下発地バス停前。迦葉山行きの路線バス。



駐車場所帰着は13.23。居合わせた地主さんに丁重に挨拶して帰路に付く。
序のことに、沼田城址というか、沼田公園に寄って行くつもり。
戸神山の三角点を見逃した埋め合わせに岡谷橋近くの四等・赤谷三角点を
探しに行ったが造成地に変わっていて空振り。
材木町の信号で右折して公園へ。



城址説明板を読んでから三角点探し。城址と言うからには戦国を匂わせる
何かを期待しても無理。この城は1681年に城主が改易され、名将・昌幸から100年余、
知将・信之が城主になって90年で消えている。その顛末は末尾の蛇足で。



目標物はテニスコートと野球場の間。大きな「寿楽園碑」や東屋のある築山に
あった。三等 點名・沼田 417.3m。



予定の行程を無事に終了、何やら聞きなれない脇道をぐるぐる回ってR-17に
復帰して往路と同じ路線で帰宅。往復走行距離約100K。



蛇足・其の一 高王山に纏わる沼田景義の事。
沼田城は1532年に「万鬼斎」と号した沼田顕泰によって築かれたが、この万鬼斎殿、
追川村の娘を側室とし「湯のみ」と名付ける。白根温泉で拾った女だからこんな名か?
その側室の子が「景義」さん、そして側室の兄も士分に取立てられて「金子泰清」。
そこでお定まりの家督争い勃発、側室と泰清が四男の景義を沼田城主にと画策。
其の頃、長男・二男が相次いで亡くなり三男の朝憲が家督継承、顕泰は景義を連れて
川場村に隠棲。城に残った金子泰清は朝憲奥と重臣が密通していると顕泰に密告、
顕泰と謀つて1569年に城主・朝憲を謀殺して景義を城主にしようとする。
所が親戚筋が北条の助けを借りて反撃、顕泰・湯のみ・景義は同族の芦名を頼つて
会津に逃れるが、この地で顕泰・湯のみ没。再び関東に戻って今度は大田・金山城に
身を寄せ由良氏の重臣の娘を娶り、由良氏や系列の諸豪族の応援で1581年に沼田城
奪還の旗を揚げた。その拠点が高王山なのだ。
その後の話を付け加えれば、この騒動は直ちに松代の真田昌幸に伝わり、昌幸は
得意の諜略を駆使する。つまり、金子泰清に対して景義を謀殺すれば川西領を与えるという
偽の書状を渡す。愚かにも此れを信じた泰清は沼田城内に景義をおびき寄せて殺害。
ここに鎌倉以来の名門・沼田氏が滅亡した。尤もこの謀略と運でのし上がった金子氏も
後に昌幸に謀られて減封され失意のうちに病死している。
蛇足其の弐 沼田城廃城の事
一方、松代藩の分地となっていた沼田藩は1658年に松代藩のお家騒動に巻き込まれる。
つまり、信政没後の跡目を沼田三万石の信直と信政六男の信房の争い。結局、松代の
跡目は信房に、信直は分地を脱して沼田城主で一旦落ち着いたが、信直が幕府に訴訟して
再燃。結果は1681年、将軍は綱吉で大老は堀田正俊の時代に両国橋普請の不正で
言いがかりを付けられ、糾問10ヶ条を突きつけられて領地没収の上、改易となる。
10ヶ条を見ると農地・農民関係の不手際が多い。丁度この頃、有名な沼田の
「義民・磔茂左衛門」直訴事件の起きた年であるから其の関連かも。
以上は諸資料からの完全なパクリ情報。

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