クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

天神山周回 H-24-6-4

2012-06-05 12:10:56 | 安中・松井田
先日、「すかいさんのたより」を見ていたら里見のバラ園の記事が載っていた。
前橋バラ園見物の直後でもあるので良く調べもせずに早速里見へ軽装で直行。
場所はかって行った事がある安中・里見境界尾根にある天神山の里見側なので気軽。

R-406を西進して下秋間GCの看板の信号を左折してR-132(下里見・安中線)で峠に
向かう。峠の手前を左折して約1Kで数台置ける駐車場に着く(10.30)。
ここは高台なので北側の景色が良い。正面に室田の高浜クリーンセンターの煙突。



僅かに左を見ると榛名山がやや霞の中に横たわる。



山手を向くと直売場のログハウス、だが妙にひっそりとしていて嫌な予感。



果たして人気は無い。其れもその筈、表示を見ると12月ー4月末となっていたのだ。
クリスマスローズなる名前からもっと想像を働かせれば良かったと後悔しきり。
(後で調べたらすかいさんの記事は4月の初旬だった)
ガラス戸越しに見えるハウスの中はこんな感じで花の気配はなし。



駐車場にあった天神山ハイキング案内図や由来説明板を見て急遽予定を変更して
天神山の周回をする事にした。
帰着は迷走の末に左下の安中森林公園の駐車場だった。





最初はこんな道を登っていくが思いのほか、傾斜がきつい。左右は広大なバラの栽培地、
fukujyuen cofeの建屋もあるが当然閉店中らしい。



暫く直登するとこの看板で左折する。



だが、市町境の稜線が目の前なので直進で一登り。稜線から南はゴルフ場の敷地で
突き当たり。多分、かってのプレスカントリーの跡で今はレーサムゴルフ場とか。
実際のコースはこの写真のずっと右になるが。



フェンスに沿って細い踏み跡がある。多分此れは里見側から言えば「里見連山ハイクコース」
なんだろうが、いつの頃からかハイキング愛好者の内では「安中アルプス七峰」と
云われている。この天神山を発して天神山ー浅間山ー御岳山ー御殿山ー石尊山ー
戸谷山ー茶臼山と繋げるコースである。かって1993年頃、移動通信の重鎮さんが
家族連れでこれらの山に標識を付けた事が記録にあるがブームの切っ掛けかな?



再び分岐に戻ってやや傾斜の増した道を天神山に向かう。



間もなく、この道標で遊歩道と分かれて目の前の山頂へ。



山頂入り口は二基の石灯籠が配されていて参道と言う雰囲気。



中心に大きな石像、台石の文字が読めないほど摩滅しているが辛うじて
「下里見〇〇〇」だけが鮮明、四番目は部首が「木」なので「権現」かな?
台石左の銘は弘化二年とあるから1845年、ペリー黒船の八年前。



周辺は低山に拘わらず標識多数。かっては重鎮さんのが一枚だけだったのに。
先ず古そうなこの一枚。重鎮さんのものかとも思ったが取り付け方や文字が違う。



かっての写真は此れで釘打ちで右下に標高入りだった。



お馴染み「すかいさん」の作品。



その先に小さな石宮があるが銘は全く読めない。



麓の案内図にもあつたパラグライダー離陸場の看板。



確かに南斜面を見ると広く切り開かれているが雑草の生え具合などから察すると
種山の発着場ほどは使われていない感じ。



隣に大型の立派な東屋(11.09)。



その脇に「東鑛」の標石。東京鉱山管理局がかって観音山から発する亜炭鉱の鉱区を
測地する為に設置したものの名残であり爺イも数個発見している。



あれあれ、「すかいさん」の二枚目がある。変ったところが無く同じものなので
何かの意味があるのか? 後日、問い合わせてみよう。



これは文字が薄れて唯の板切れになってしまったらしい。



比較的新しい「安中の山に登ろう会」の作品。西上州では時々見掛けるが
「130選」などを発刊した「安中山の会」とは違うのかな?



周辺の木立には小鳥の巣箱が幾つか。出入り口がかなり摺れているので上手く
利用されているらしい。



南へ下る道がありその末端にこの看板で車両進入禁止。さてはパラグライダーの
愛好者たちはこちらから登ってくるのだろう。



一休みしてから、三角点・天神山を訪問する事にした。山頂から東南側への道に
入るが市町境界線から離れて安中市・板鼻地区になる。



250m程で前方に東屋が見えるが三角点はこの裏の藪の中。



踏み跡も無い叢を通過して僅かの高みの台地に登る。



幸いに国土院の古い赤白ポールが健在なので草の中に直ぐ発見。



これが四等の「天神山」三角点。この三角点山は案内図の「前天神」に相当するかも。



さて、草を掻き分けて東屋に戻ると大きな案内図。但しスタートで見たのは里見のもので
今度は安中地区のもの。いろいろ在りそうなので少し寄り道と歩き出したのが
運の尽き。縦横にある迷路の様な山道に迷い込み、バラ見物の積りだったので
地形図なし、ナビ・方位磁石なし、水は350cc一本で予定外の大遠足になる。



最初は「桜の広場」だけの積りで行ったが何の事は無い幼木が植わった唯の緩斜面。



直ぐに引き返しに掛かったが、この時前面に東邦亜鉛の工場がチラッと見えた。何時も
R-18から見ているので何気なく見過ごしたが、東邦亜鉛が見えるということは
この斜面は南向きだったのに降りるべき北向きと勘違いしていた。

さっきの三角点に戻れなくなってあっちへ行ったりこっちへ来たりの無駄足ばかり。
こんな時に頼りになる太陽の日差しも丁度正午近くで真上に在って頼りにならない。
左右も濃い樹林で全く見えずに降参。水の染み出した悪路から着いた所は
再びの桜の広場
仕方なく広場の左隅を下ると下降道、どうにかなるだろうと、そのまま下まで下った。
だが、降りた所が何か異質。こんな立派な登山口など見たことも無いし、周辺は新しい
家がびっしりで狐につままれたよう。



付近で洗車中の人に聞いたら「ここは板鼻の古城団地ですよ」と言われて愕然。
古城とは鷹巣城址のことだからとんでもない南の反対側に降りてしまったのだ。
駐車場所に帰るには反時計回りに大きく迂回しなくてはならないとも知らされた。
仕方なく再び山を登り返すことにした。何か気落ちしてペースは遅いが焦りは
禁物なのでリハビリになるからと開き直り。

やっとの事で桜の広場に到達して元の道に掛かるが少し先で良く考えて右への
細道を選択(12.22)。



そして何とか本道らしき道に合流。写真の左の道から来た事になる。



この道標は「どんぐりさか」を選択。



ここも同じくひたすらどんぐりさかへ。



漸く園地らしき場所の木橋の手前を左折して(12.43)



駐車場を経て車道へ到着。だが、ここは未だ板鼻地区で登山口までは2K以上もある
登り一方の車道歩きが待っていた。生憎のカンカン照りなのに遮蔽物はなし、
水切れになったのでスローペース。体温が上がる感じを我慢して歩くが水場も無し。
一寸危ないので途中で休んでいたら運良くパトロールの地元車が止まってくれて
便乗させてもらった。残りは0.5K程の模様。到着は13.17で反省ばかりの13.000歩。

近くに里見氏発祥の地という幟がはためく。



「里見村誌」によれば、「里見郷」の由来と伝承されているものの一つに次の
記述がある。
景行天皇の26年頃(97年)、東国平定を終えて、日本武尊一行が吾嬬山から
峰づたいに密林地帯を幾日も困難を極めた征旅を続け、今の里見連山の
峰づたいに差し掛かった時、人家や田畑をはるか東方に見えたので思わず
「小里見えたり」と一行大いに喜んだそうだ。これを伝え聞いた里人は里を
「里見」と称するようになったーーとかの「あずまはや」と似た展開。

里見氏の詳細は資料が少なく伝承部分が多いらしい。その為か系図の先人達は
資料的には生没年不詳の人が続いている。
里見氏と言うと江戸時代(1814)に瀧沢馬琴の著した南総里見八犬伝などの影響で
群馬の事ではなく安房の事とされるのは仕方ないが、群馬が元とする系図を
ご参考までに。

里見氏は贈鎮守府将軍・新田義重の庶長子・新田義俊(里見太郎)を初代とする。
里見の名は新田義俊が上野国碓氷郡里見郷(現在の群馬県高崎市里見)に移り、
その地の名を苗字としたことに発する。
新田義重(源義家の孫)
  ┃
里見義俊(義重の庶長子・里見氏の祖)
  ┣━
  義成(源頼朝に重用される)
  ┣
  義基 
  ┣
  義秀 
  ┣
  忠義(義貞は忠義の子で里見小五郎、新田宗家の養子になり義貞の説あり) 
  ┃
  義胤(新田義貞の鎌倉攻めに従軍)
  ┃
  義連
  ┣
  基義 
  ┣
  家兼(鎌倉公方足利満兼輩下、永享の乱で自害) 
  ┣
  家基(足利持氏輩下、結城合戦に参陣して討ち死) 
  ┃
  義実(結城敗戦から安房に逃れ安房里見氏の祖)









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9 コメント

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復活おめでとうございます (山はこれから)
2012-06-06 00:22:27
山行、復活おめでとうございます。
 里見氏や(貴兄の旧記でとりあげている)桃井氏など、戦国時代以前の鎌倉公方側についた氏族は、南総里見氏のように他所で生き延びない限り、存続が許されなかったようですね。
 結城氏などは、結城合戦の首謀者であろうに、その後も現地で氏族は残っているのに・・・。
 里見氏・桃井氏とも、本所が利根川西岸で、敵方の関東管領の上杉氏やその主宰の長尾氏の本拠にあまりのも近すぎたということでしょうかね。
返信する
re:復活 (爺イ)
2012-06-06 07:52:02
山はこれからさん
戦国期の群馬を武田・上杉・後北条の草刈場に貶めたのは関東管領・上杉憲政の
権威主義だけの力量不足と思っていますので爺イはこの御仁が大嫌いです。
それ以前、榛名山東麓に居た源氏の渋川・桃井・里見・山名の四家は桃井氏を除いては
渋川氏が九州探題まで出世、里見氏は南総安房で名を馳せに山名氏は西国守護大名として
日本の六分の一を領するまで発展してますし、此れに大分中津城址に名を残す吉井の
奥平氏を含めると上野を捨てた諸氏が生き残っています。どうしてなんでしょうかね?
抗争の原点は食にある事からすると十分な食を得られる土地柄でなかつたか?
室町時代に上野が置き去りにされたのは、鎌倉公方から変身し16世紀半ばまで生きながらえた
古河公方の本拠が下野であったことに起因すると思っていますし
鎌倉公方時代からの関東八屋形とされる宇都宮・小山・佐竹・千葉・長沼・那須・結城・
小田の各氏の名を見ても「上野は無しか」と感じています。
返信する
ベテランも道迷い (好漢(ハオハン))
2012-06-06 08:09:59
おやおやお庭のような地元の山で道迷いでしたか。
それでも山行復活、良かったですね。

里見氏の記事のくだりは師匠の面目躍如ですね。「里見村誌」などにも目を通していらっしゃるのですか。
返信する
re:迷い道 (爺イ)
2012-06-06 09:11:58
市立図書館が爺イの憩いの場所なので
郷土史コーナーで旧行政の出した史誌は
殆ど閲覧・借り出しが出来るので重宝しています。
里山も余りに遊歩道が細かくなると爺イは苦手になります。北を上に表示する地形図に慣れきっていると山麓の案内図は画面に上手く入るように描かれた概念図で必ずしも北が上ではない
事を忘れる為かも知れませんがどんな時にも
方位磁石位は持参するようにしなくては。
返信する
あれ??? (山はこれから)
2012-06-08 01:01:22
 最後の「里見氏発祥の地の幟」の写真を見て思いました。
(写真なのでやや不明なのですが)幟の上部の丸の模様は、足利氏系の家紋の「二つ引両」に見えるのですが。。。。
 幟に家紋を使うなら、里見氏は新田の支族なので「大中黒」であるはずではないか、と。

 旧榛名町里見地区に現存する里見氏も「大中黒」の家紋を使っているようですし、歴史的顕彰物や観光宣伝等でも大中黒を使っているようですけど。。。。

 爺の山行とは、無関係のことでしたかね。
返信する
re;家紋 (爺イ)
2012-06-08 07:19:44
山はこれからさん
鎌倉時代初期、源氏の一門である足利氏、新田氏は、将軍家の白幕に遠慮して、二本の線、あるいは一本の線をその陣幕に引いたそうです。それが足利氏の「二つ引き両」となったり、新田氏の「一つ引き両」の紋となったとの事です。
所が現代ではこのページの様に新田系列の里見氏の家紋は足利と同じの二つ引きです。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/satomi.html
その理由は次のことでご了解いただけると思います。
「引き両紋は源氏の足利氏・新田氏を代表する家紋となりましたが、足利氏一門の、細川・畠山・吉良・今川・仁木・上野は、二つ引き両を家紋として引き継ぎましたがい、 一方、新田氏の場合も、里見・山名・田中・大井田などの諸氏が分かれ、それぞれ一つ引き紋を使用していました。しかし、新田義貞が足利尊氏に敗れて後、足利氏に従属したものが多く、二つ引き両を使用するようになった家が多いのです。また、尊氏には属さず、野に隠れ一つ引き両から他の紋に替えたものも少なくないようです。敗者の悲哀は、家紋からも見てとれるという事でしょうか?
里見氏は関東が公方派と管領派に分かれて合戦が繰り返された「享徳の乱」が起きた時、武田氏らとともに公方方に属して行動しましたし、その後も関東管領・謙信に味方した里見氏は、各地で後北条氏と対立する姿勢をとっています。つまり、里見氏は上記の「足利に属した新田氏族は二つ引きに変えた」に入ります。だから、新田系列の里見氏が足利と同じ二つ引きでも不思議ではないのです。
但し、これらは安房里見氏時代に定着した事と思われますので、発祥の地元では一つ引きが
残っていてもこれまた、当然でしょう。観光用となると現代の一般に通用する二つ引きを
使ったのでしょうか?何れも間違いとは云えませんが。


返信する
家紋追伸 (爺イ)
2012-06-08 08:49:57
云い忘れましたが、家紋の元になった幕は
五枚の布を縫い繋ぎ合わせて作るのですが
足利は二枚目と四枚目を黒にしたので二つ引きの形に、新田は二枚目・三枚目・四枚目の
三枚を黒にしたので太めの大中黒になり
その後の一つ引き家紋の元になったようです。
返信する
山はこれから (Unknown)
2012-06-13 00:35:57
なるほど。
 大中黒(一つ引き両)と二つ引き両の由来はそういうととでしたか。
 それが丸に囲われて家紋となったのですね。

爺の博学に敬服するとともに、自分の無知にため息です。
まだまだ、知るべきことはたくさんあるのだと、気持ちを新たにしました。
返信する
↑↑あれれ・・・ (山はこれから)
2012-06-13 00:41:16
タイトル欄に名前を入れてしまったようです。。。。
返信する

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