クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

五料茶屋本陣 五月人形 H-19- 5-17

2017-05-20 15:23:23 | 安中・松井田
昨日の五月人形展示(500体 5/21まで)の見物では薄暗い中での写真撮影に失敗したので
出直し。
場所は安中市松井田町五料にある茶屋本陣。R-18を西進して「五料」信号で
信越高速道を潜り最初の右折道に入り信越線の線路を横断すると駐車場。

この案内に従って進むと



「お西」の入り口。





「お西」の建屋内がメインの展示場。



中に入ると目の前に「石庭」もどきの庭園が広がり落ち着いた雰囲気。



最初の部屋にはこんな飾りだけが約30体ほど並んでいる。鑑賞するとどうやら
弓飾りや刀飾りが主体の様なので「弓太刀」と称する「内飾り」なのかな。
(サムネイル写真は左クリックで拡大、左上の左向き矢印で元に戻る。)
       

次の間は雛壇に歴史上の人物がずらり。



下段は児島高徳関連
1331年の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み
、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。
江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄のひとりとなったが
具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはない
ために、近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。
人形は十字の詩「天莫空勾践 時非無范蠡」
(天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず)の場面。
爺イの世代では「児島高徳」の歌として小学唱歌に入っていたので
今でも歌えるほど皇国史観として刷り込まれた。

    

中段は多士済々
菅原道真(845-903)
平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。 宇多天皇に重用され醍醐朝では
右大臣にまで昇ったがしかし、藤原時平に讒訴され、大宰府へ左遷され現地で没した。
後年、天神様として崇められている。



小野道風
平安時代の貴族・能書家。
道風の人形には「柳と蛙」が付き物。これは
道風が、自分の才能のなさに自己嫌悪に陥った時、
蛙が柳に飛びつく努力をしているのを見てその後の精進を決心したという逸話から。
但しこの逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃『小野道風青柳硯』
から。
その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられ、
多くの人に広まったもの。

  

太田道灌
道灌の人形の定番は山吹の花とのセット。

道灌は扇谷上杉家の家宰として、関東一円を転戦。
当時としては先駆的な「足軽(傭兵部隊)戦法」を編み出し、ほとんどの戦いで勝利した。

若き日の太田道灌が、にわか雨に遭遇して村のあばら家で蓑を借りようとしたところ、
出てきた少女は無言のまま、山吹の一枝を道灌に差し出した。道灌は怒ってその場を
立ち去ったが、あとで家臣から、少女の行為は「七重八重花は咲けども山吹の実の
一つだになきぞ悲しき」という古歌に寄せて、蓑の一つさえ持てない悲しさを
山吹の枝に託したものだ、と聞かされて自分の無学を恥じて、それ以降歌道に精進した・・・。
という伝説。処が爺イの出身校の近くの面影橋近辺に「山吹の里」の石碑があり
「山吹の里公園」もある。おまけに何とその少女、「紅皿」という名前があり、新宿区内に
お墓が存在する(新宿区教育委員会による)。 道灌との縁となり、道灌は紅皿を城に
まねき歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建てたとも伝わるのだ。   
この歌は、「後拾遺和歌集」巻十九の兼明親王の歌だが、道灌は幼少の頃から和漢の
学問を学んで「神童」と呼ばれるほどであり、歌に造詣の深かった父からも
影響を受けていたので後拾遺の山吹の故事にを知らなかったというのはやや不自然と
考えるとやはり伝説かな。

 

上段は神宮皇后と竹内宿禰関連
神宮皇后は仲哀天皇の皇后で夫の仲哀天皇が急死の後に熊襲を討伐した。それから
お腹に子供(後の応神天皇)を妊娠したまま朝鮮半島に出兵して三韓征伐をしたと伝わる。
竹内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えた
という伝説上の忠臣。



三つ目の部屋の窓際に「金太郎」関連がずっと並ぶ。
この金太郎の話の元となっているのが、平安時代に実在した坂田金時。
成長してから源頼光の家来となり 四天王の一人として大江山の酒呑童子を退治した
と伝わる。
その坂田金時の幼名が「金太郎」であったということから、伝説が生まれ、江戸時代の
近松門左衛門作の歌舞伎や浄瑠璃の題材として演じられた。
因みに坂田金時は「金時豆」の名前の由来に、息子である坂田金平は、きんぴらゴボウの
名前の由来。時代を経ることで、金太郎は健康を表すシンボルとな り端午の節句に金太郎の
人形を飾ることで、金太郎のように、気持ちの優しく健やかな子どもとして
成長してほしいという願いがこめられるようになった。



西側に大きな雛壇、全体の様子



多くの中で名前の判ったものだけ。同一人物は複数体あるが各人一体を表示。

鍾馗
五月人形の人気者らしく数が多い。中国,民間信仰の魔よけの神。
唐の玄宗皇帝が病中に鍾馗が悪鬼を退治する夢を見,鍾馗の図を呉道子に
書かせたことから始るという。もとは,大みそかに鍾馗の図を貼って
悪霊を祓ったが,その後,端午の行事のなかに加わり,日本にも端午
の行事として伝わっている。



一寸見の外見は鍾馗に似ている日本初代天皇とされる神武天皇。
「記紀」によればニニギノミコトの曾孫,日向を出発して瀬戸内海を東進し,吉野を経て
大和に攻め入り,ついに大和一帯を平定,前 660年大和畝傍橿原宮に都した。
戦前の「皇紀OO年」と西暦に660年の差があるのはここから。だが何しろ神話の
世界だから第十代崇神天皇こそ第1代天皇で,神武天皇はその投影であるとする説が
強い。



矢屛風大将
どうも誰を擬したかではないらしいが金屏風・多くの矢・鞘に虎皮を貼った太刀など
かなり豪勢な人形。



陣中の詩
そて、これは何に由来するか? 名札に「剣舞」とあるので剣舞ー詩吟と連想して
勝手な推量で上杉謙信の「九月十三夜」としておく。
「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更  越山併せ得たり能州の景
さもあらばあれ 家郷の遠征を憶う」
これは上杉謙信が、陥落間近の七尾城外で1577年9月13日、諸将と名月を眺めて
詠じた漢詩といわれており頼山陽の『日本外史』に掲載されたため有名になったが、
現在は後世の人々が上杉謙信に仮託した七尾城の挽歌で謙信の作ではないと
いう説が一般的だそうである。



源義家
源氏の誇る名将ではあるが後三年の役で奥州藤原の祖・藤原清衡に手玉に取られてから
失墜、不遇の晩年を送ったが頼朝に繋がる源氏の本流や新田氏・足利氏も生み出しいる。



武田信玄
甲斐の虎と呼ばれた、戦国大名・武田信玄、甲斐源氏の本流で甲斐国を統一した今でも人気者。



子供義経
五月人形の中には「子供OO」とのものが幾つかある。



竹内宿彌



山中鹿之助
山中 鹿介 は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将。尼子氏の家臣
優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子氏の再興に燃えた武将で
「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話などから戦前の教科書に
採用されていた。



新田義貞
義貞の人形といえば鎌倉攻略で稲村ヶ崎の場面が多い。現在、稲村ヶ崎突破については、
干潮を利用して進軍したという認識が広く
浸透している。『太平記』では、義貞が黄金作りの太刀を海に投じた所、
龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されているが
これにも異論があり陸路説も根強い。



加藤清正
トラ退治の人形が圧倒的。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。
1592年からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵、朝鮮の民衆から「鬼(幽霊)」
と恐れられた。朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残るが
本来は黒田長政とその家臣の逸話であるのに、後世に清正の逸話に
すりかえられている。



歌舞伎の演目からのもの。
平 知盛
平安時代末期の平家一門の武将で平清盛の四男。壇ノ浦の戦いで鎌倉軍と
最後の戦闘に及ぶが、追い詰められた一門は入水による滅びの道を選ぶ。
知盛は、乳兄弟の平家長と手を取り合って海へ身を投げ自害した。
知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着て入水したとも言われている。
これに想を得た文楽及び歌舞伎『義経千本桜』の「渡海屋」および
「大物浦」は別名「碇知盛(いかりとももり)」とも呼ばれ、知盛が崖の
上から碇と共に仰向けに飛込み入水する場面がクライマックスとなっている。



斉藤実盛
義朝の子・源義平は、1155年に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまうが
実盛は義賢に対する旧恩も忘れておらず義賢の遺児・駒王丸を駒王丸の乳母が
妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸が後の木曾義仲。
1183年、平維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の
戦いで覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦して討ち死。
「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。
そのことを樋口兼光から聞いた義仲がかっての命の恩人を討ち取ってしまったことを
知り、人目もはばからず涙にむせんだという。この様子は、『平家物語』巻第七に
「実盛最期」として一章を成している。、



樋口次郎
樋口次郎兼光は、平安時代末期の武将。中原兼遠の次男。今井兼平の兄。
木曾義仲の乳母子にして股肱の臣で義仲四天王の一人。義仲が
粟津の戦いで討ち死にした翌日、京へ戻る道中で源義経の軍勢に生け捕られ
斬首された。



渡辺 綱
平安時代中期の武士。源頼光の四天王の一人。武勇伝説の主人公の一人で,
謡曲『羅生門』では羅生門の鬼の片腕を切り落し,御伽草子『酒呑童子』では
頼光とともに大江山の鬼退治に加わっている。



義経の八艘とび
平家との海上戦の奮戦と子供のときから教えられていたが、実際は平家の
猛者たちに追われて小船を飛び走って逃げまくっていたのだそうだ。
義経は体格が子供並みに小さく膂力も劣っていたので指揮を執るのは
上手かったが一対一の闘争は不得手だったから。



場所を移動して「お東」。



座敷の右に鎧兜。
端午の節句にて鎧や兜を飾るのは、もともとは武家の風習から。武士が戦いの前に
自身の身の安全を祈願して神社に参拝する際に、鎧や兜を奉納することが由来となっている。
時間の経過とともに、鎧兜によって戦いの時に「身を護る」という意味から、
病や怪我や事故から「身を守る」という意味へと変わっているが、
親が子どもを願う気持ちというのは、今も昔も同じ。



雛壇にはお西の展示品より比較的新しい人形が陳列。



兜差
歌舞伎十八番の中にある「暫(しばらく)」をアレンジして、可愛い子供に
兜を持たせた舞踊人形。



出世兜
兜飾りの中で、信長・秀吉・家康など戦国武将の兜を模したものを出世兜というらしい。



弁慶
武蔵坊弁慶は、平安時代末期の僧兵。源義経の郎党。

五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えた怪力無双の荒法師
として名高い。『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが
詳細は不明



弁慶と義経
源義経が兄頼朝と不仲になり、山伏姿で奥州の藤原氏を頼って
落ちて行く途中、安宅の関(現石川県小松市)で関守富樫左衛門に
怪しまれ白紙の勧進帳を読み上げ、義経を杖で折檻打擲して難を逃れ
、陸奥へ落ちて行く。



加藤清正



以上で見学は終了だが戦前からの古い人形なので戦時下を過ごした爺イの小学生
時代に修身・国語でみっちり刷り込まれた皇国史観の著名人も多数見られたので
妙に懐かしく感じて帰宅。

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デジブック 『五料本陣五月人形展』





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