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核抑止力依存からの転換促す 平和宣言で市長訴え―79回目、広島原爆の日 時事ドットコム
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甲ガ乙に丙を
2023-08-06 | 日本語文法論議23
日本語文法議論2382
なにをいまさらと思われるようなことで、学説がどうだと言いだしても、聞く耳を持つ人はない、そうかもしれないし、まして文節がどうのと言ってわたしにい出してもこれまた済まされたことになってしまうようなことであるから、わかりよいと思うところで、三上学説に手短かにする物言いで、どこが問題であるかというようなありかを示す。
目に映りやすい、ウイキペディアに長く記述されているので、そこの日本語項目にある文法の項、解説に見る図解を参照されればわかりよい。文法の構造と主語廃止論と言う見出しに、その章節にあるもので、日本語、英語の構文の違い、とみえる。三上学説によるというので、いずれも解説者にはそれなりのことであると思う。
ここで取り上げるのはその図解であるということをまずしめしておこう。
>三上説によれば、日本語の文は、「紹介シ」の部分に「ガ」「ニ」「ヲ」が同等に係る。英語式の文は、「甲(ガ)」という主語だけが述語「紹介シタ」と対立する。 三上「続・現代語法序説」
一部修正と言うもの、著作の37ページに見える、もとの図に比べると網掛けのデザインになった強調したもののようであるし、その著作には西洋と日本というふうに見えるのを、のちには英語と対照するような理解が生まれてしまって、もともとに対照するのを注意するべきである。
さらにウイキペディアはここを論拠とする主語廃止の解説をしているので、さらに注意すべきである。
現代語法新説 1972復刊、もとは1955年刊行、実はこの著述である事実がわかる。
それに前後する、この1972年に同じく復刊した、序説 がある。上記引用の書名のものである。。
1972年に三上は故人となる。出版社がそれぞれ復刊したもののようである。それまで続・序説となる上記引用の書名は、新訂版としていたが、副題を、主語廃止論 と付け直したものと、解題に寺村氏執筆が書いている。
続・現代語法序説 主語廃止論 1953年刊行、この書名は、現代語法序説 全訂版 1959年刊がある。
ちなみに、ウイキペディアに述べるところを見ておくと――
>今日の文法学説では、主語という用語・概念は、作業仮説として有用な面もあるため、なお一般に用いられている。一般的には格助詞「ガ」を伴う文法項を主語と見なす。ただし、三上の説に対する形で日本語の文に主語が必須であると主張する学説は、生成文法や鈴木重幸らの言語学研究会グループなど、主語に統語上の重要な役割を認める学派を除いて、少数派である。森重敏は、日本語の文においても主述関係が骨子であるとの立場を採るが、この場合の主語・述語も、一般に言われるものとはかなり様相を異にしている。現在一般的に行われている学校教育における文法(学校文法)では、主語・述語を基本とした伝統的な文法用語を用いるのが普通だが、教科書によっては主語を特別扱いしないものもある[注釈 20]。
^ たとえば、東京書籍『新編 新しい国語 1』(中学校国語教科書)では、1977年の検定本では「主語・述語」を一括して扱っているが、1996年の検定本ではまず述語について「文をまとめる重要な役割をする」と述べたあと、主語については修飾語と一括して説明している。
日本語文法議論2383
象は鼻が長いのである、といえば、どうしてか、と聞くことになるから、それはこれこれこうだから、というように、そこには、この表現についての文章があらわれてくる。象は鼻が長い、と、言い切りで、言い放てば、聞く方では、象は 短いよ、と混ぜ返しができそうであるし、もっといえば、長くも短くもない 小さい とでも言いだすことになる。
学説の例文といっても、すべてがそうだというのではないので、2382タイトルは言い過ぎだったと反省して、気づいた、その例文とは、
象は鼻が長い と歌っている
と、言うときの、省略された表現にしてしまっているということであって、
象は鼻が長い
と、一般に通用するような、ましてこの議論で代表する、ーはーが構文のようになっている。
学説の議論のうちではこれを文例とするほかに、6例文がある。
196010301版 象は鼻が長い 72版改訂増補5版 9ページによる
提題を無題にする、無題化の説明で、そのトップに挙げている文例は、これだけではなさそう、その文章を単位にした文例と見直した方がよさそうである。といっても、この学説を受け入れて議論が行われてきているので途方もないことになってしまう。
いったいに言語学の議論といい条、理屈があっり合わせて議論と推論をすることになるという、実証の論理に異なることがでてくる。
それでも、著述の議論の進め方には著者の文章があって、それは産出例文に対して議論の思索の内にある。わかりよく言えば、象は鼻が長い、と判断する文章がある、その文章は例えば童謡の流行になぞらえることができて、その無題化には、鼻が長い象 鼻が長くある象 という文の転換があるのである。しかし、実際には、長い鼻の象 であって、童謡になると、象は 長い鼻デアル と歌っている となる文例なのである。
すなわち、象は鼻が長いよと言っている、この例文を考えるべきなのである。著者の場合は、象は鼻が長いと考える、とでもなろうか。
文、要素と成分
2023-08-05 | 日本語文法論議23
日本語文法議論2385
主語廃止論は二重主語の気まずさから、そうぼやくように言っている、その用語をあらためて主格補語と言おう、と提唱した三上学説の説明であるが、その論理はどう述べられたか。それは難しくもやさしくも、とらえやすさがあったので、一般的にも国語学者にも、反論なく沈黙してしまったのだろうか。
主格主語と主格補語の違いがあるといっても、略してともに主語となってしまうには違いないなあと混ぜ返すのはよしにして、補語である論理にその証明に語順を言いだす三上学説である。議論に受け継がれて所説に納得をしてしまうような解説がある。
もとをと糺せばどうか。また格という語形式の分類を入れた日本語文法に述格という用語用法を言ったりするので、格の議論には屈折になる現象と膠着そのものをとらえた文法機能をみればそれだけで説明そのものがわかりよいはずで、用語を変えるメリットは少ない。
つまりは、シンタクスを考慮して形態から語になるレベルが求められる。語が文に、文章にと、その関係構成の成分になる日本語文法である。主格が主語であるか補語であるか、目的格が目的語であるか補語であるか、補語とは何についてのものか、その前提がある。
文には主語を必須とするという、その言い方には、文成立に成分の一つに主語があると説明するか、あるいは、文そのものは必ず主語が必須要素だと説明しているのか、その混同がある。
日本語の文は主語が必須の成分だと言っているわけではないとなると、文に主語が必須要素でなくなれば、それは文といわない、主語とも言わないという論理で、補語にするとなると、日本語の文の説明が異なってくる。