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講説日本語文法

2019-10-31 | まさごと

1年前に講説日本語文法を始めている。その続きをこころみよう。日本語文法が、日本語文法の説84 2019-09-18 | 日本語文法のカテゴリーである。2019-05-25 まで、さかのぼる。



講説日本語文法 その7

文法は論理である、考え方である。日本語を話す、あるいは読み書きする人がいれば、その日本語文法は聞くことによって、ものの見方、ことの考え方になるから、音声言語を文字言語に写して思考する。日本語文法の背景にある論理は、ひとびとの聞くところ、考えるところ、それは、どういうもの、どういうことであろうか。日本語では言語主体の判断を以て運用する、その文字列には指定、判断の言葉がよく機能している。主体すなわち人間がとらえる森羅万象に言語の表現を以て表出する世界である。そこにある論理には、一人一人の日本人が持つ感覚、感情の視点があり、考え方があるのである。それではその論理、考え方とはどのように説明されるか。物事はすべて体用にある。たいゆう という語は、中国語の体用論にかかわるか、また文法用語になって、体現、用言とするか、関連を明らかにするものではない。

2018-11-07 | まさごと

講説日本語文法 その6

 現代日本語を通時的にとらえることは、日本語とは何かを考えることになる。わたしにもつ、漢語を学び英語を学ぶ日本語の仮説は、その接触にとって日本語の文法の捉え方をつくってきていると考える。1300年には中国大陸から移入した語彙、漢語による影響、そして130年には近代になって欧米文明を入れた推移で、英語による影響である。

 歴史の画期に政治体制の転換を見るが、言語状況にその一方で受け入れる日本語の下地となる言語がある。それを準備期の時間に見れば世代継承に3世代をさかのぼる。そのころに、渡来者の移動がある。言語をもたらした人々である。そして現代日本語には英語の影響を欧州の言語から、とくに米英語とシフトする1950年代以降の変化が大きい。

2018-11-06 | まさごと

講説日本語文法 その5

現代日本語を日本語史で眺めてみる。日本語の歴史は8世紀の文献記録を始まりとするなら、西暦700年代からおよそ1300年になる。近代になって日本語に変化が起こった時期を見れば、それから約130年である。このおおよその1300年と130年はどのようにみられるか。政治体制の起こりと、現代の時代につながる政治の変遷である。

2018-11-05 | まさごと

講説日本語文法 その4

 時代がかった名前だと思われる文典のことを述べたのは、文法書と文典の名称をもってすれば、語学、語法書として説明するとらえ方に意義を見いだすからである。17世紀にあらわされた、宣教師、ロドリゲスの翻訳名、日本大文典と日本小文典の著述に、日本語文法の解説の嚆矢を見る。講説日本語文法は現代日本語文典を記述する意図にある。

 しかし、一方で文語文法、口語文法の教科文法を、その2大別に日本語文法を学ぶことがあった。それは規範意識をもとに文法の概念を形成してきているから、中世の文典に近代以降の文法概念を当てはめて、昭和の前半まで文法といえば語学を表していたことがあったように、日本語文法を汎称としてもちいることがあってよい。

 文法は研究者、学者によって体系を述べる。そこには文法学説としての個別論があるとみることができるので、研究者、学者の数だけ日本語の文法が解説されていると言ってもよいと考えている。それは翻って文法を、話者の持つ文法についての論理それぞれであるとすることができるので、文法はその個人による捉え方にもなるのである。

 日本語の現象に解釈し法則を見ることは個の論理であるが、それを一般にする、あるいは共通する普遍にすることは規範意識の観点から、解説において望まれることである。必ずしも可能であるとは言えないが、それを実現することを目指す。繰り返し議論されるであろう、日本語の主語主題の議論は果たしてどのように解決されるであろうか。

 日本語とはいかなる言語であるのかと問うことで、すでに、日本語の持つ特有の現象に触れることになる。それがNipponなのか、にっぽんご、にほんご という名づけで、議論が立ち行かなくなる。言語を音声、音韻でもって見る考え方に、この解決は、日本語と表記することで、正しい名称としての読みを2通り、持つと言わざるを得ないことになる。

 それでは、日本という表記が唯一であるかどうかとなると、さきの音表記のNippon をもって、対外的には国名とする様子があるので、日本はNipponであるということが許される。わたしたちも、にほん と書くことはできても、日本を、Nihonにすることはしない。まして、にほん というのを漢字変換をして、日本と書ける慣用でそうする規則はない。

 講説現代日本語文法は、こうせつ なのか、こうせち か、にっぽんご なのか、にほんご なのか、それは意味が通じる範囲において読みは受け手に委ねられるところが、わたしたちの言語である。講義し説明するいまの時代の読みにも、講経と説経の背景があることをおいて、日本語とはどういう言語であるかを考え述べることにする。

2018-11-04 | まさごと

講説日本語文法 その3 文典

 文法を文典に記していたのは、語学書物の翻訳名を文典といったからである、語法書であったから、概念の説明として、日本語での説明になると語典が文法書という本になる。もと文法は翻訳の概念であるから、grammar を日本語に入れて、a book containing rules of grammar のように、文典にも扱っていたのである。

 文典名には、大清文典をみる。解説によると、1869年に出版、アメリカ人の宣教師高第丕、Crawford. Tarlton P. と中国登州府人の張儒珍との共著である、文学書官話があり、それを、大清文典として金谷昭の訓点による中国語文法書であるという。明治10年(1877)青山清吉によって出版された。中国語で書かれた最初の中国語口語文法のようである。

 明治期の文法、文典の語義の使い分けを見ると、そこには文学の捉え方にも及ぶ。

2018-11-01 | まさごと

講説日本語文法その2

 文法は文の法則である。それでは文とは何か。文の概念は文法を翻訳語として移入したものである。文法は、日本語に即していえば、文章の法である。文章とは何かを考えることで、日本語には文章を見ることがふさわしい。文法を文の法則とするか、文章の法とするか、これはこれからも繰り返し述べることになる。

 文法には文典があった。文典は文法、語法を説明した書物と語義をとらえる。文典は日本文典として、大辞林 第三版の解説に挙げる。ロドリゲスのものが歴史上、早くに、ロドリゲスの日本大文典が知られている。原題に即して内容を追えば、文典の覆うところは文法、音韻、文字、綴字、語彙(ごい)、文体、方言に及ぶものである。

 幕末から明治時代になって日本語文法書が著され、なかで、文典に、著名のものがある。大槻文彦、広日本文典は文字編、単語編、文章編の記述を行う。この書に国語文法、教科文法の萌芽を見る。文法となるのは教科文法に1943年中等文法、そして1947年に中等文法口語などを名称とするところから、文法という語を教育に普及させてきている。

2018-10-31 | まさごと

講説日本語文法

 講説日本語文法を述べる。日本語文法は現代語の日本語を解説しようとする。現代語は、歴史の時代区分でいえば近代以降、昭和の半ばを以てそれから現代とするが、多くは第2次大戦以後の国語改革によって行われている。たとえば表音仮名遣いを一般用法とし漢字制限を言語政策に行ったものである。

 現代語の常用漢字表に現代仮名遣いは、すでに半世紀以上を経てきた国語を平易にするものであったようにとらえる。現代という時代の移り変わりに、この半世紀は、昭和の後半、平成と70年を経過しているので、現代とするにはさらに画期を求めることになる。世代は30年で区切り、それを2世代、3世代と見ると、昔々のことになる。

 辞書の編集は30年の時間を言語流行とその新語の収集に長く見てきたようである。しかしこの時代には10年を以て昔とする、言葉にもその状況に変遷は30年の長さから10年となっているようである。言語伝播のツールが変わったのであるから、それによって社会の言語の現象を見て、そこから現代語とするにもそのとらえ方が変わってきている。

 いま述べようとする文法はその規則を世代に継承するから30年、60年の経緯を見てその長さで判断することになる。現代語のこの70年はそれまでの60年、70年とはちがって、日本語文法に現代語文法を定着させてきた。日本語の歴史はゆうに1300年超を記録する。古典語文法の確立は近世の国学者たちによってなされたが、それを文語文法としてきた。

 明治時代の文法の研究者、学者には文語を見て、その次世代には文語の対にある口語の文法を分析してきた。その文語文法の名称は学校教育の1960年代半ばにまで及ぼすところがあった。ちょうど中学校を終えて高等学校に入学するころ、1961年の教科書には文語文法とあった。日本語文法、そして現代語文法となるにはまだ時間を必要としていた。

 なお、講説とすることについて、辞書の引用を参考とする。百科辞典の解説はそれで十分であるかと思って、サイト検索をして、議論の儀式あることを知った。問答法の試験であるようである。日本の伝統の一端に思いをはせることになる。講説は口説でもあるが、そのゆえをもって冗舌には見えて、それが高説にはならない、このブログの記事である。

 講説は講義をして説明すること、こうせつ、こうぜつ、また、こうぜち、仏教用語になる。それをさらに講経と説経にして議論と説明がある。議論の問答を竪精論義とし、その説明に論議では弟子役の竪義、りゅうぎ と呼ばれる僧侶が師役の精義と呼ばれる僧侶に対し、難題を問うてその解答を求め、これを十の問題に分けて進め、難点を明らかにして行くという。

 以下は、引用。

世界大百科事典 第2版の解説
こうせつ【講説】
仏教の法会に,経典の題名や内容の講経と説経をすること。講経は多く竪精(りつせい)論義という形式をとり,経典の講義にディスカッションを付けるが,講説の場合は講経と説経で,説経は講経を平易にし,例話や比喩でおもしろくしたものである。すなわち講経は専門家の僧侶を対象とし,説経は素人の信者を対象とする。そのために説経には説経師という芸能者もできた。しかし講説はそこまでくだけたものでなく,経典の内容を平易に説くことが目的で,芸能性を目的にしたものではない。






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