20190920
南京林業大学
第2回 アジア共同体創生における漢字と漢字文化教育
日本の元号に見る漢字文化
アジア共同体創生における漢字と漢字文化教育にお招きをいただきありがとうございます。第1回目には現代日本語における漢語の流行について「忖度」をお話しました。第2回目は「日本の元号にみる漢字文化」について、お話をします。難しいテーマですね、わたしは政治、歴史にも興味がありますが、お話は言語と文学に関わって取り上げてみます。
日本語について、わたしは仮説を持っています。どのような仮説か、それは、ことばがまなぶ、言葉が詞を学ぶ、言語が言語を受け入れるということです。日本語はいま英語のうちアメリカの話しことばを受け入れています。古代中国語を学び続けてきた日本語は、古典漢文をうけいれ多大な恩恵を得ています。古代の漢文化、その歴史に感謝を申します。
さて、日本語が英語を学ぶというのは、西暦1850年代のできごとから、およそ170年のあいだです。封建時代の日本には、おどろくようなことでした。それまでは日本語すなわちやまとことばが、古典漢語を学び続けました。漢字文化を謳歌して文化が熟成していました。さかのぼると、漢字の渡来のころ、日本語を彫った鉄剣銘がつくられました。
5世紀初め、いまからおおよそ1700年前です。日本語が漢語を受け入れて学び始め、そして移入する漢籍を読みときます。すると、古代日本が文学を編み出し、お聞きになったことがあると思います。伝説伝承の文学が作られたのは、和銅5年、西暦712年。古事記を編みました。日本の正史を記録する六国史は、養老4年、西暦720年に完成しました。
日本書紀が書かれました。こうして日本語に古代の漢語漢文を受け入れ始めました。言葉に漢字を学び、語の意味を日本語になおし、時代を経て漢字から仮名文字を工夫し、文章に訓読をする、その経過に記紀歌謡と、日本の古代歌謡に代表する万葉集が編集されます。その成立年は巻軸歌にある題詞の年号から、天平宝字3年、西暦759年以降のことです。
万葉集についてのひとつの見方、知識を確かめましょう。その大伴家持の歌を見てみます。年号を記録する、天平宝字3年(759年)正月の歌です。漢字で、書記しています。
新年之始乃波都波流能 家布敷流由伎能伊夜之家餘其謄 (卷二十 4516)
新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事 (漢字仮名に翻字)
→あらたしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと
万葉集は漢字を書記言語とした詞華集、アンソロジーです。漢字ばかりで書いて、平仮名がないというのを、万葉集の原文を見るまで、現代の若者は気が付かないし、日本の人々も文学愛好者のうちでも知らなくてすむことから、どのように日本語が書かれていたか、これは古代文学の初歩知識になります。漢字で書いたので、真名書きと言われるものです。
万葉集にある和歌は、この4516番歌のように、部分的に万葉仮名という書き方をしています。それで、いまの歌を原文にあるものとしてみると、さきに紹介したようになります。
[歌番号]20/4516 <https://ja.org/wiki/万葉集/第二十巻>
[題詞]三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首
[原文]新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
ここにあるようにさらに題詞がついています。古典文学を学習することがあると思いますが、標題にしてみえるような説明があります。これは歌によっては、左注という注釈とともに、あるものとないものと、巻き巻きの編集によるところです。ここは漢文で書かれているので、これを訓読し仮名書きにしたのを和歌の鑑賞と、それを文学書として見ます。
万葉研究の注釈と、訓読し仮名書きにする作業は、実は約500年以上を必要とします。
[訓読]新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
[仮名]あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと
[左注]右一首守大伴宿祢家持作之
ちなみに読み下しに、異なる訓があります。ウイキソースに簡略に示します。引用します。
[校異]歌 [西] 謌
[事項]天平宝字3年1月1日 年紀 作者:大伴家持 予祝 寿歌 鳥取 宴席
[訓異]あらたしき,[寛]あたらしき,
としのはじめの,[寛]としのはしめの,
はつはるの[寛],
けふふるゆきの[寛],
いやしけよごと,[寛]いやしけよこと,
大伴家持は785年に亡くなります。この歌以降の26年間、記録される歌を詠んでいません。
元号、「令和」について話します。読みは、「れいわ」「りょうわ」と2通りあります。巻き舌でない、reiwaとなります。現代中国語で、lìng hé ですね。ところが、「我累哇」と、「累了」、lila というのを、音が似ていて、Lei wa と聞いてしまったら、疲れちゃったなぁ、となるそうで、日本の年号が変わって、こちらでは、ジョークが生まれましたね。
日本の元号に、令和と名前が付きました。西暦2019年5月、令和元年となりました。西暦645年、大化の元号が定められてから、248番目の年号です。元号の制度、元号についての起源は中国にありますから、みなさんの知識、祖先の経験がもとになり、日本に伝わったものです。いま、令和の元号の名前について、最近のニュースなどからお話します。
「令和 れいわ」の典拠は、万葉集の巻五、梅花 うめのはな の歌三十二首の序文にあると説明がありました。「梅花の歌三十二首并せて序」のうちに、次のように見えます。
chū chūn lìng yuè, 初春令月, qì shū fēng hé, 气淑风和,
méi pī jìng qián zhī fěn,梅披镜前之粉,lán xūn pèi hòu zhī xiāng. 兰熏珮后之香。
原文は、次です。引用をウイキ―ソースwikisource から。https://ja.wikisource.org/wiki/
[歌番号]05/0815
[題詞]梅花歌卅二首[并序] / 天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 <促>膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠
万葉集は和歌にすべて通し番号がつきます。検索をすると、815番歌です。
[原文]武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎<岐>都々 多努之岐乎倍米[大貳紀卿]
[訓読]正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ[大貳紀卿]
[仮名]むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ
[左注]なし
和歌には訓読がほどこされ、仮名書きにするのは先と同様ですが、題詞など漢文で書かれたものについては、どのように読んでいたでしょうか。漢文訓読文として読む経過は、万葉集原文には訓点と訓読が示され、本では註釈を施しています。次のようになります。815歌から、「梅花歌卅二首幷序」とみえます。続く32首をあわせて、846番までの序文です。
天平二年正月十三日、萃二于帥老之宅一、申二宴會一也。于レ時初春令月、氣淑風和。梅披二鏡前之粉一、蘭薫二珮後之香一。加以、曙嶺移レ雲、松掛レ羅而傾レ盖、夕岫結レ霧、鳥封レ縠而迷レ林。庭舞二新蝶一、空歸二故鴈一。於レ是盖レ天坐レ地、促レ膝飛レ觴。忘二言一室之裏一、開二衿煙霞之外一。淡然自放、快然自足。若非二翰苑一、何以攄レ情。詩紀二落梅之篇一、古今夫何異矣。宜下賦二園梅一聊成中短詠上。
返り点にしたがって、読み下します。訓読文になります。その次は口語訳です。万葉集の作歌事情を伝える題詞です。後に、和歌の集では詞書となって、文学作品の背景を読みとくポイントになります。この題詞を漢文で書くというのは、中国の詞華集を受け入れたものでしょう。序にある「初春令月 氣淑風和」を、詳しく見てみましょう。
梅の花の歌三十二首〈并せて序〉 訓読と訳文はブログを参照しました。日付は、2012年08月11日です。タイトルに、「竹取翁と万葉集のお勉強」として、初心者から文学愛好者まで、対象を広くとっています。 万葉集巻五を鑑賞する 集歌815から集歌852までhttps://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/4fd39531a03c8b8ae40e6814197a2121
訓読 >天平二年正月十三日、帥老(そちらう)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて宴会(え
んくわい)を申(の)ぶ。時に初春令月(しょしゅんれいげつ)、気は淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(きゃうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かを)らす。加以(しかのみならず)、曙(あけぼの)は嶺(みね)に雲を移し、松は羅(うすぎぬ)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾(かたぶ)け、夕(ゆふへ)の岫(くき)に霧を結び、鳥は縠(こめのきぬ)に封(とざ)されて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。是(ここ)に天を蓋(きぬがさ)にし地を坐(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(ころものくび)を煙霞(えんか)の外に開く。淡然として自ら放(ほしきまま)にし、快然(くわいぜん)として自ら足る。若(も)し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以ちてか情(こころ)を攄(の)べむ。詩は落梅(らくばい)の篇を紀(しる)す。古今(ここん)夫(そ)れ何そ異ならむ。宜しく園梅(ゑんばい)を賦(ふ)して、聊(いささか)かに短詠(たんえい)を成すべし。
訳文 >天平二年正月十三日に、大宰の帥の旅人の宅に集まって、宴会を開いた。時期は、初春のよき月夜で、空気は澄んで風は和ぎ、梅は美女が鏡の前で白粉で装うように花を開き、梅の香りは身を飾った衣に香を薫ませたような匂いを漂わせている。それだけでなく、曙に染まる嶺に雲が移り行き、松はその枝に羅を掛け、またその枝葉を笠のように傾け、夕べの谷あいには霧が立ち込め、鳥は薄霧に遮られて林の中で迷い鳴く。庭には新蝶が舞ひ、空には故鴈が北に帰る。ここに、天を立派な覆いとし大地を座敷とし、お互いの膝を近づけ酒を酌み交わす。心を通わせて、他人行儀の声を掛け合う言葉を部屋の片隅に忘れ、正しく整えた衿を大自然に向かってくつろげて広げる。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう。漢詩に落梅の詩篇がある。感情を表すのに漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。
「大宰の帥の旅人」と記された大伴旅人は、天智天皇四年、665年の生まれ、神亀五年、728年に、妻の大伴郎女 いらつめ とともに大宰府の長官に赴任します。この地で、天平2年、730年の正月13日に宴を催しています。同年11月には大納言に昇進し、帰京を命じられます。翌年正月に従二位へ昇進し、まもなく病となり、同年7月25日に亡くなります。
この典拠部分を「令月」と見た時に、これは陰暦2月のことと咄嗟に思ったのですが、序文にある令月が初春の2月とはいったいどうなのかと思いました。ブログ筆者の解説を参照し、「令」が「零」を含意する、文学の暗喩があるといいます。そして「令月」の語について、序文の出典で、中国文学の「文選」にある張衡「帰田賦」が指摘されていました。
いろいろと見ていくと、「序」文と「文選」とでは、表現の違いがあります。張衡は、西暦78年から139年までの人だそうですが、文選の「帰田賦」は「於レ是仲春令月、時和気清」と、仲春の令月と見えます。万葉集の「序」は「于レ時初春令月、気淑風和」とあります。典拠の言葉探しがニュースとなり、ちょっとした騒ぎがメディアに報道されました。
出典について、どのように関心が高まったか、寄り道をしてネットサイト、ツイッターを紹介してみましょう。どれも万葉集の序文に批判をします。学者を巻き込んで、中国の文献にあると、表現における文学の影響をどうとらえるか、その由緒を、出典探究している議論です。政治的な誹謗中傷にも及んで、違った方向への関心の深さを見せたようです。
次は、毎日新聞記事をもとに引用しています。
初の「和風元号」の出典となった「万葉集」の「初春令月、気淑風和」との文言について、複数の漢学者らから、中国の詩文集「文選(もんぜん)」にある「仲春令月、時和気清」の句の影響を受けているとの指摘が出ている。出典:令和の出典、漢籍の影響か 1~2世紀の「文選」にも表現 (2019年4月1日) - エキサイトニュース
岩波文庫編集部@iwabun1927
新元号「令和」の出典、万葉集「初春の令月、気淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえていることが、新日本古典文学大系『萬葉集(一)』iwanami.co.jp/book/b325128.h… の補注に指摘されています。 「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)」とある。 pic.twitter.com/wBqpNVWN0M
万葉集の注釈にも言及し、典拠探しは令和命名者の意図を汲むことなく、和書また国書から選んだか、漢籍かというフィーバーをしました。元号についての関心の高さか、あるいは漢字の文化に対する興味の尽きないゆえんでしょうか、民衆の意見にも反映しました。
契沖「万葉代匠記」があげるこの「梅花の歌」の典拠は以下の通り。
王羲之「蘭亭記」・孟子・張衡「帰田賦」・杜審言詩・宋の武帝の娘寿陽公主の詩・隋の煬帝の老松の詩・宋玉神女の賦…きりがないのでもうやめますけど、こういう四六駢儷文(しろくべんれいぶん)は典拠がめちゃくちゃ多いのが普通。
出典:「令和」は漢籍の孫引きではございません:無知の極み、毎日新聞・岩波文庫・小林よしのりの大誤報 – 政治知新
「令月」の「令」という文字には、古辞書の読みで、よい、かなう、という訓をつけ、日本語訳となり、「和」には、やわらぐ、なごむ、という意味内容があります。元号に出典を求めて、それが万葉集によると説明をしてきました。その文献がよりどころであることに変わりはありません。「令和」の名は、ひろくみとめられ人々に親しまれていくでしょう。