「自省録」の訳者の神谷美恵子さんのことを語らせてください。
長いです。
看護師2年目の時、寮の隣の部屋に看護学校の後輩が入ってきました。
まもなくして、彼女は困った顔で1冊の本をもって私の部屋にきました。
「先輩、この本、看護学校で買わされて読むように言われたけど難しくて・・・。先輩、読みませんか?あげます!」とその本を渡し、清々したように帰りました。
それが神谷美恵子さんの「生きがいについて」でした。
夢中になって読み、それから何度も読み返し、いくたびの断捨離にも耐え、今も手元に残る数少ない本の一つになりました。
もう42年になります。
全集も刊行され、「心の旅」「遍歴」「書簡集」ほか、精神医学の翻訳本とかも含まれ、今の私ではとても読めないような内容と細かい文字でしたが、果敢に読み、心酔したことを懐かしく思い出します。
神谷美恵子さんは、精神科医としてまた、文筆家、翻訳者として、そして戦後、通訳としてGHQと渡り合った人として、また美智子上皇后の相談相手をつとめられたという凄い方なのですが、何よりも、らい(ハンセン病)の人に寄り添いたいと願い、困難を乗り越えて志を果たし、らい療養所の精神科医として患者に尽くした方です。
当時の日本ではハンセン病は正しい理解がされておらず、当然のように隔離政策、優生手術が行われていた時代で、忌み嫌われ家族からも離され、療養所で一生を終えるしかなかった。
そのハンセン病に限らず、苦悩のただ中にいたり、限界状況に置かれたりしても尚、希望を見出す力、意味を見出す人もおり、人間の尊厳とは何かを静かに問う本です。
アウシュビッツの収容所体験をまとめたフランクルの「夜と霧」も引用され、「夜と霧」もまた絶対断捨離出来ない本になりました。
神谷美恵子は戦後の物資不足の中、二人の息子の子育てにも奔走し、療養所の島に行くために4時に起きて通い続けたといいいます。
そんな超多忙な生活の、ご本人の言うところの「網の目をくぐって」この本や「自省録」の翻訳が行われたのです。
凄いとしか言いようがない。
ただ、最近になって当時のハンセン病の隔離政策の誤りが明るみになり、人権や尊厳を奪った、それこそ生きがいや生きる喜びを根こそぎ奪った政策や医療の姿勢が問題になりました。
ハンセン病は特効薬で完治する病気であり、感染力も弱いとして世界ではとっくに隔離政策は終わっていたのです。
全然知らなかった事実と、私も間違った理解をしていたことに衝撃を受けました。
あ~、本に感動している場合じゃなかったんだと思いました。
同情する前に正しい理解をするべきだったんだ。
無知と偏見の恐ろしさ、その犠牲になった人の哀しさ。
無知とは、知らないということは、知ろうとしないことは罪なんだ。
それにしても、法や政策というものの重みよ。良くも悪くも。
神谷美恵子はどのような認識だったんだろうか。
体制や政策は強大だから、踏み込めないし、一人の人間にできることはささやかなもの。
彼女は当時においてはできる限りのことを為したのだと思います。
神谷美恵子と私の誕生日は1日違い。
彼女は無理がたたって晩年は入退院を繰り返し、65歳で亡くなりました。
後輩から本をもらって読んだその年(1979年)の秋でした。
新聞の訃報欄に載った柔らかい笑顔が忘れられません。
私もその年になりました。
ぶつぶつ文句を言いながらも、元気にやっていることに感謝しなければ。
長い思い出話にお付き合いくださって、ありがとうございました。