昨日は、大阪エリムキリスト教会での神学生による伝道実習伝道会でした。
5月23日はろう教会10周年、30日は九州へ出かけていたので、久しぶりの大阪エリムキリスト教会でした。
集会前に、同年齢の教会員がしばらく礼拝を休んでいるので訪ねたら入院しているとのこと。
もう一人は退院しましたが、原因が分からず通院でさらに精密検査が必要とのこと。
集会の終わりにエレベーターで、50代の男性は、「俺、うつ病でどうにもならんわ」と呟きながらで、祈っていますよと別れました。
牧師は生老病死にいつも直面しています。出産の喜びに産院を訪れ祝福し、病床で回復を祈り、また臨終の床に付き添うこともあります。
毎日新聞に、渡辺和子の記事があり、すばらしい講演も読みました
私たちは“生きる”ということを大切にしておりますけれども、もしかすると“よりよく生きる”ということを忘れているのかもしれません。
それが現代の忘れものとしてあげられると思います。毎日の生活の中で今日よりよく生きるために私たちが持ちたい心は、待つことができる心、思いやる心、自分を大切にする心です。
私は今から30年ほど前、心にかぜをひきました。早く言えば、うつ病になり、2年間の苦しい日々を過ごしました。
その時、カトリックのお医者様が、うちひしがれている私にむかって「シスター、運命は冷たいものですけれど、神の摂理は温かいものですよ」と仰ったんです。
ちょうど50歳くらいで、学長になって14年経っておりまして、少し仕事が面白くなっていた時で、なぜ自分がこういう病気で苦しまなければならないのか?と神様に向かって不平を申し上げたこともございました。
でも今になってやはりあの時に病気をいただいたのは運命ではなくて摂理─神様の温かいお計らいだったのだ、あれが神様の時だったのだ、ということがわかるようになりました。
病まなければ 聞き得ない慰めのみ言葉があり
捧げ得ない真実な祈りがあり
感謝し得ない一杯の水があり
見得ない奉仕の天使があり
信じ得ない愛の奇跡があり
下り得ない謙遜の谷があり
登り得ない希望の山頂がある(病む/河野進)
病むということは決して歓迎することではありませんけれども、病まなければわからないことがたくさんあるんですね。
そして、この詩の中の「病まなければ聞き得ないみ言葉がある」ことを、私は心のかぜをひいた時に実感しました。それはやはり、私達がつらいことや苦しいことに遭った時に、その奥深くに潜んでいる神の愛というものに信頼して、笑顔で“きっと良くなる”と信じて生きることを教えてくれるのではないかと思います。神様は私達の力に余る試練は決してお与えになりません。
多くの著書や講演テープやCDもあります。ぜひ機会があればお読みくださり、聞いてみてください。弱さや辛さの中で、大きな励ましと勇気、ほのぼのとした気持ちの温かさを与えてくれます。
伝道者の書
3:1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
3:2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
3:3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
3:4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
3:5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
3:6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
3:7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
3:8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
3:9 働く者は労苦して何の益を得よう。
3:10 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。
3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
3:12 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。
3:13 また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
5月23日はろう教会10周年、30日は九州へ出かけていたので、久しぶりの大阪エリムキリスト教会でした。
集会前に、同年齢の教会員がしばらく礼拝を休んでいるので訪ねたら入院しているとのこと。
もう一人は退院しましたが、原因が分からず通院でさらに精密検査が必要とのこと。
集会の終わりにエレベーターで、50代の男性は、「俺、うつ病でどうにもならんわ」と呟きながらで、祈っていますよと別れました。
牧師は生老病死にいつも直面しています。出産の喜びに産院を訪れ祝福し、病床で回復を祈り、また臨終の床に付き添うこともあります。
毎日新聞に、渡辺和子の記事があり、すばらしい講演も読みました
私たちは“生きる”ということを大切にしておりますけれども、もしかすると“よりよく生きる”ということを忘れているのかもしれません。
それが現代の忘れものとしてあげられると思います。毎日の生活の中で今日よりよく生きるために私たちが持ちたい心は、待つことができる心、思いやる心、自分を大切にする心です。
私は今から30年ほど前、心にかぜをひきました。早く言えば、うつ病になり、2年間の苦しい日々を過ごしました。
その時、カトリックのお医者様が、うちひしがれている私にむかって「シスター、運命は冷たいものですけれど、神の摂理は温かいものですよ」と仰ったんです。
ちょうど50歳くらいで、学長になって14年経っておりまして、少し仕事が面白くなっていた時で、なぜ自分がこういう病気で苦しまなければならないのか?と神様に向かって不平を申し上げたこともございました。
でも今になってやはりあの時に病気をいただいたのは運命ではなくて摂理─神様の温かいお計らいだったのだ、あれが神様の時だったのだ、ということがわかるようになりました。
病まなければ 聞き得ない慰めのみ言葉があり
捧げ得ない真実な祈りがあり
感謝し得ない一杯の水があり
見得ない奉仕の天使があり
信じ得ない愛の奇跡があり
下り得ない謙遜の谷があり
登り得ない希望の山頂がある(病む/河野進)
病むということは決して歓迎することではありませんけれども、病まなければわからないことがたくさんあるんですね。
そして、この詩の中の「病まなければ聞き得ないみ言葉がある」ことを、私は心のかぜをひいた時に実感しました。それはやはり、私達がつらいことや苦しいことに遭った時に、その奥深くに潜んでいる神の愛というものに信頼して、笑顔で“きっと良くなる”と信じて生きることを教えてくれるのではないかと思います。神様は私達の力に余る試練は決してお与えになりません。
多くの著書や講演テープやCDもあります。ぜひ機会があればお読みくださり、聞いてみてください。弱さや辛さの中で、大きな励ましと勇気、ほのぼのとした気持ちの温かさを与えてくれます。
伝道者の書
3:1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
3:2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
3:3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
3:4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
3:5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
3:6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
3:7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
3:8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
3:9 働く者は労苦して何の益を得よう。
3:10 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。
3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
3:12 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。
3:13 また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
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