牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

今日8月26日は、二人の母の命日

2013-08-26 09:48:41 | Weblog
今日8月26日は、母と義母の命日です。

畑で、トンボとりをしていました。となりのおばさんがお大きな声で呼んでいます。大急ぎで家に駆け込みました。

母は長く病の床にありました。病院は無く、薬を買うこともできない中でした。やせ細った手で、真っ黒に焼けた腕を握り、義之、ごめんな。あとをたのみ・・・・。最後のことばでした。

真夏日の翌日、母38歳の野辺の送り。白木の墓標が立てられお終い。ますますもの言わぬ子どもになり、人は死んだら終わり、愛も優しさも、肌のぬくもりもなし。

それから6年後、15歳の夏8月26日、引き取って育ててくれた義母(白髪だったので場跡しか思わず、一度も呼んだこともない無口の子でした)の死でした。

実母の死ねばお終いと人生の悲しさを体験しましたが、義母の時は、小さい村で初めてのキリスト教葬式。

 賛美歌を聞くうちに、永遠を思わされました。

海ゆくとも 山ゆくくも わが霊(たま)のやすみ いずこにか得ん

うきことのみ しげきこの世 なにをかもかたく たのむべしや

死ぬるも死の 終わりならず 生けるもいのちの またきならず

うきこの世に かわるかの世 としなみは寄せず 愛はつきず

不死のやすみ またき愛の 生命(いのち)は主よただ きみにぞある

アーメン 

野辺の送りが終わり、二学期の始まり、最上医院の家庭集会に出席、その年の11月24日に、種子島の海岸で洗礼を受け、クリスチャンになりました。

今日、ひとり静かに実母と義母の死を覚える記念日です。来週2日は72歳の誕生日。ここまで生かされている恵みに感謝し、ありがとございます。今日もまた天国の一日です!

ピリピ人への手紙

1:20 それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。

1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

1:22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。

1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。

1:25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。

1:26 そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。



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