さけない網」
ヨハネ21:11
「シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。」
ヨハネのこの記述はなにげない記録のようにも見えますが、なぜこの記述が聖書に含まれたのでしょうか。復活され岸に立っていたイエス様が「子たちよ、何か食べるもの(魚)があるか」と尋ねられ、弟子たちは何もないことを伝えると、再びイエス様は「舟の右のほうに網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」とおっしゃり、実際にそうなった場面でのできごとです。ところが、弟子たちが大量の魚とともに陸に上がってきたときには、イエス様すでに炭火をおこし、その上に先ほどの魚ではない魚とパンが焼いてあったのです。そして弟子たちの取ってきた魚の一部もいっしょに焼いて朝食をするようにと勧められました。イエス様がいっしょに食べられたという記述はありません。このイエス様の「何か食べるものがあるか」は、イエス様の食べるものではなく、弟子たちの食べるものがあるかとお尋ねになったのです。イエス様の弟子たちを愛する・気にかける気持ちが「食べるものはあるか、魚はとれたか」という呼びかけになりました。夜通しの漁でも何も獲れなかったが、イエス様のことばに従い、網を下ろすと、彼らだけでは食べきれないほどの魚が獲れたのです。イエス様の満ちあふれる愛が、この「大漁」に表されているのです。そして、15節以降のペテロに対しての三度の「わたしを愛するか」という問いにつながっていくのです。
この「不漁」から「大漁」になる記述は、ルカ5章にもあります。この時は、イエス様は「恐れることはない。今からあなたは人間をとる猟師になるのだ」とおっしゃって、ペトロとヤコブとヨハネはいっさいを捨てて、イエス様に従っていくのです。この時も大漁にもかかわらず「網がさけた」という記述はありません。この時の大漁は、イエス様の言葉から察して「イエス様を信じる人間の数の多いこと」を示しています。また、ヨハネ書21章の「大漁」も、イエス様の愛の深さを表すと同時に、これから弟子たちが福音を伝え、人間の漁師になった時、「福音を聞きイエス様を信じる者が多くいる」ことを予言しているのです。「大漁」は、イエス様が弟子たちに「収穫が多いが、働き人が少ない」(マタイ9:37)とおっしゃった、多くの収穫にほかなりません。また、網をおろしたのは、イエス様ご自身ではなく、イエス様に従った弟子たちでした。多い収穫の働き人も弟子たちです。イエス様は、わたしたち弟子に、「福音を聞き信じる人がたくさんおこされる。あなた方はその漁師であり働き手である」とおっしゃられています。
また「網がさけない」とは、その福音を聞きイエス様を信じた者は一人ももれることなく永遠の命にあずかることを意味します。ちょうどイエス様が、弟子たちにおっしゃった、「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。、、、(その)者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタイ10:40-42)ということが暗示されているのです。
私たちは、自分の考えで、自分の力で、よかろうと思って福音を(夜通しの漁のように)一生懸命伝えても(漁をしても)、福音はとどかないでしょう。しかし、自分自身を低くし(低くされ、悔改め)主に従って福音を伝えれば(網をおろせば)多くの方が福音を聞き信じて下さるでしょう(大漁となるでしょう)。そして、福音を聞き信じた方々は(網の中の魚は)もれることなく(網がやぶれることなく)永遠の命にあずかるのです。そして、全ての栄光が主に帰されるのです
ヨハネ21:11
「シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。」
ヨハネのこの記述はなにげない記録のようにも見えますが、なぜこの記述が聖書に含まれたのでしょうか。復活され岸に立っていたイエス様が「子たちよ、何か食べるもの(魚)があるか」と尋ねられ、弟子たちは何もないことを伝えると、再びイエス様は「舟の右のほうに網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」とおっしゃり、実際にそうなった場面でのできごとです。ところが、弟子たちが大量の魚とともに陸に上がってきたときには、イエス様すでに炭火をおこし、その上に先ほどの魚ではない魚とパンが焼いてあったのです。そして弟子たちの取ってきた魚の一部もいっしょに焼いて朝食をするようにと勧められました。イエス様がいっしょに食べられたという記述はありません。このイエス様の「何か食べるものがあるか」は、イエス様の食べるものではなく、弟子たちの食べるものがあるかとお尋ねになったのです。イエス様の弟子たちを愛する・気にかける気持ちが「食べるものはあるか、魚はとれたか」という呼びかけになりました。夜通しの漁でも何も獲れなかったが、イエス様のことばに従い、網を下ろすと、彼らだけでは食べきれないほどの魚が獲れたのです。イエス様の満ちあふれる愛が、この「大漁」に表されているのです。そして、15節以降のペテロに対しての三度の「わたしを愛するか」という問いにつながっていくのです。
この「不漁」から「大漁」になる記述は、ルカ5章にもあります。この時は、イエス様は「恐れることはない。今からあなたは人間をとる猟師になるのだ」とおっしゃって、ペトロとヤコブとヨハネはいっさいを捨てて、イエス様に従っていくのです。この時も大漁にもかかわらず「網がさけた」という記述はありません。この時の大漁は、イエス様の言葉から察して「イエス様を信じる人間の数の多いこと」を示しています。また、ヨハネ書21章の「大漁」も、イエス様の愛の深さを表すと同時に、これから弟子たちが福音を伝え、人間の漁師になった時、「福音を聞きイエス様を信じる者が多くいる」ことを予言しているのです。「大漁」は、イエス様が弟子たちに「収穫が多いが、働き人が少ない」(マタイ9:37)とおっしゃった、多くの収穫にほかなりません。また、網をおろしたのは、イエス様ご自身ではなく、イエス様に従った弟子たちでした。多い収穫の働き人も弟子たちです。イエス様は、わたしたち弟子に、「福音を聞き信じる人がたくさんおこされる。あなた方はその漁師であり働き手である」とおっしゃられています。
また「網がさけない」とは、その福音を聞きイエス様を信じた者は一人ももれることなく永遠の命にあずかることを意味します。ちょうどイエス様が、弟子たちにおっしゃった、「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。、、、(その)者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタイ10:40-42)ということが暗示されているのです。
私たちは、自分の考えで、自分の力で、よかろうと思って福音を(夜通しの漁のように)一生懸命伝えても(漁をしても)、福音はとどかないでしょう。しかし、自分自身を低くし(低くされ、悔改め)主に従って福音を伝えれば(網をおろせば)多くの方が福音を聞き信じて下さるでしょう(大漁となるでしょう)。そして、福音を聞き信じた方々は(網の中の魚は)もれることなく(網がやぶれることなく)永遠の命にあずかるのです。そして、全ての栄光が主に帰されるのです