枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

親鸞上人忌

2016年11月28日 | Weblog

 極普通の者には、備わっていない力が、産まれながらにあったり、大病をした後に授かったりすることがある。修行を積んで出来る、というものかどうかは定かでないが、自然の息吹を感じて暮らし、或いは自然そのものであったなら、心に聴こえてくるものかも。

 秋深し。海の水を捲って見せる。常人には、到底理解できない世界だが、ふと有り得ると思うと、海を捲れるのだ。隠れてこっそり行うことも大切で、公衆の面前ですることでもない。精進潔斎をしても、力が与えられるとは限らない。慢心と驕りが隔ててしまうよ。

 高齢になるに連れて、惚けを装った方が生き易いこともある。必至で演技をしていることを思うと、笑うよりも気の毒でならない。格差が生じて、施設に入らざるを得なくなったり、一人暮らしを継続できないことも増えてくる。誰が悪いというのでもなく、生き難い社会。

 人間は、ある程度の年齢なったら、空気のような存在になれればいい。然らば、あらゆる総てに何も必要としなくなる。でも、魂は存在するから、何処でも自由に行き来できる。近未来には物質伝送機も秘かに造られるようになる。時間旅行も思いのままに可能。

 SF作家の想像力には、嘘のようで、真実が書かれているもの。Drモローの島にも、狂人的な博士が研究に没頭してしまう余り、悲惨な結末になるが、世界の何処かしらで、こういった秘密は行われている。神の存在などというものではなく、神そのものになって。

 相手を愛する余り、躊躇無く殺すのは、そこに永遠の存在を想うからかも知れない。科学の力を持ってすれば、不可能はないのだ。手塚治虫氏の、火の鳥を思い出す。地球に棲むあらゆる命が、その一瞬を生きることは、僅かの時間でしかない。悔いを残さない。

 昨夜の宇宙の美しさは、どうであろうか。雨の上がった宇宙には、満天の星が輝いていた。まるで心を洗われたようで、暫し望と観上げる。その一瞬、爆撃もなければ、理不尽な死への恐怖もないことの有難さを感謝。世界中の命を与えられた物が幸せなことを。

 釣り鐘草。今のところ、毎年咲いてくれる。種が零れて苗が発芽し、育ってもいる。自然の不思議さ。

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