百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

邯鄲地区の思い出(さらば邯鄲)

2007-08-31 18:28:27 | Weblog

  8月31日  (金) 
                           平成17年1月1日より 973日目
                                       歩いた歩数      その距離
                            本日        17,303歩        12,112m
                            総計  13,609,196歩  9,526,437 m
      北京より保定・石家荘・刑台・邯鄲を経て洛陽に向かう。後 222,713m

                
  邯鄲博物館の広場に「いるか」の像がある。梁君に「何故いるかなのか?」と問うと、「毛沢東の銅像がありました。雨の日も風の日も立っていてご苦労様でした。だから「いるか」に変えました。ソーヨ!」と言った。

1990年9月12日 晴れ 気温20℃~28℃

  朝食の済んだ頃、昨夜訪ねて来て追い返されたという館陶の男が再びホテルへやって来る。付き人たちは大事をとって私に会わせないので、、私の方から付き人の部屋に行き、「遥々私に会いたいと訪ねてきた者を、身元を証明するものを持っていないから、帰れとは失礼ではないか。断るかどうかは私の決めることだ。」と言うと、「付き人として貴方の命を守ることは大事な仕事。貴方に楽しい仕事をしてもらうのは、自分たちの務め、私たちには私たちの責任がありますので・・・」と言ったが、渋々取り次ぐ。

              
                       梁君・わたし・張主任

 彼は私の館陶での話しに感激して訪ねてきた由。マツタケ・万年茸の話をしてニコっと握手し、満足げに帰って行った。付き人たちにとって、農民は何なんだろう?「先生!もし悪い人だったらどうします?」と私に食って掛かる。私は「農民だって中国人民だ!」というと「違います。農民です!」と。

 迎えに来た石家荘市科学技術委員会の鄭科長の到着を待って、お昼のお別れ会に入る。涙が溢れて止まず、不覚にも挨拶に絶句。付き人もハンカチを・・・。午後1時半ソ連製大型乗用車で石家荘に向かう。石家荘着は5時半、4時間の旅。

 この間の道路は「京広路」といい、北京から遥か南の広東まで続く、中国大陸を縦断する大動脈だけあって、ほぼ鉄道に沿って北上している。道幅は広く、両側の道端では、その土地の特産物を商う農民が、思い思いの品をひろげて客待ちしている。一方、一級国道で車の往来の激しい所なので、加油站(ガソリンスタンド)が多い。なかには赤と青の色瓦を使った唐風の屋根を持った中華料理家風のスタンドまでお目見えしている。売らんかなの姿勢以上のものである。「気油」とか「柴油」とか書いてある。ガソリンと軽油の意味だろうか。また液化石油站もあって、プロパンガスでも扱っているのだろうか。

 汽車修理・汽車配件などの看板は至る所にある。タイヤだけの置き場。デフだけの置き場。運転台だけの置き場。やたらと部品の転がっている場所など、中古品を扱っている業者の多いのが目に付く。夕食を済ませて戻ると、河北国際人材交流協会の袁主任と邢春さんが廊下に立っているではないか。久し振りの再会にシッカリ握手。袁主任から、これからも末永くおつきあいをと、亀の置物と健康のためにと」銘茶を受ける。10時過ぎまで歓談。

 


邯鄲地区の思い出(邯鄲)

2007-08-30 18:33:46 | Weblog

  8月30日  (木) 
                          平成17年1月1日より 972日目 
                                      歩いた歩数       その距離
                           本日         14,044歩          9,831m
                           総計  13,591,893 歩  9,514,325 m
         北京より保定・石家荘・刑台・邯鄲を経て洛陽に向かう。234,825m

  1990年9月11日 晴れ 気温24℃~27℃

 今日は邯鄲最後の日。午前中は外貿局農産品公司、午後は邯鄲農業試験場とのこと。公司に向かう途中、市長選で当選した小山現市長に祝電を打ちたいと話すと、科学技術委員会の面々も「私たちの気持ちも同じ。みんなの名前を入れて下さい」と乗ってくる。電報を出すに1時間あまりも掛かって公司着は10時を回ってしまった。

            
                              冀南賓館で

 ずるそうな眼つきの張総経理の説明を聞き、桐材の売り込みを依頼される。現在の取引先を問うと、兼松江商というので、そこは日本一流の商社、我々の出る幕ではないと突っぱねる。マシュルームの件は平茸で、作業場内は泥まみれ、白衣も白帽もない女たちがぺチャクチャ,がやがや。笠の無い足ばかりのキノコを瓶詰めしている。これじゃ落第、と引き揚げる。

          
                      外貿局農産品公司で

  昼食後、冀南賓館で3時まで昼寝。3時20分邯鄲農業試験場へ。綿・大豆・もろこしの話をゆっくり聞き、エジブト綿と中国綿の比較・枝豆に向く大豆の品種改良・生食用のもろこしなどの対応についての質問をする。試験場からの要望は、可能なもの意外はハッキリと断る。これは却って良い印象を与えたようだ。昨夜の聯誼会の話が出たので、日本名には「日中友好実務者交流協会」とすることを対案としてだし、承認してもらう。記念写真を撮り6時辞去する。

        
                         邯鄲農業試験場で  

  夕食には張主任も参加した。食べ物の話に花が咲き、日本じゃ餃子を食べる時は餃子だけ、余計なものは出ない。中国じゃ、いろんなものが出て、折角本命が出た時には腹いっぱいで余ってしまう。もったいない。食べ物を残すなんて悪習だ。有り余って捨てるほど有るならいいが、食べ物がなくてひもじい思いをしている者も居る。俺たち、子供の頃は便所に落ちた一粒の飯粒も粗末にするな!と躾けられたものだ。食べきれないほど出すなんて悪習の最たるもんだ、とやったから、皆、「トイ・トイ・トイ」と言ったが折角のお別れパーティもシュンとなってお開き。一言も二言も多すぎた。

 

 部屋に戻ると、主任と科長が来て、「明日はいよいよお別れ!何かとご指導頂いて感銘しています。これは記念の印です。末永く」と一対の亀をもって来る。毒舌の後だけに恐縮する。

 


邯鄲の思い出(渉県②)

2007-08-29 18:31:33 | Weblog

  8月29日  (水)  ①
                          平成17年1月1日より 971日目
                                    歩いた歩数       その距離
                          本日        15,173歩        10,621m 
                          総計  13,577,849歩  9,504,494 m
         北京より保定・石家荘・刑台・邯鄲を経て洛陽に向かう。244,656m

   渉県の招待所で一夜をあかし、りんご園の視察に向かう。渉県こそりんご栽培の適地と意気込んで訪ねたりんご園は、刑務所のような高い煉瓦塀に囲まれ、塀の上には硝子片まで植え込まれた警戒の厳しい所で、管理人の鍵でやっと入る。

 中は120ムー(8町歩)で公社のような共同管理とか、りんごの管理は全く中国的で、「ご感想を・・・」と訊ねられたので、率直に「ガッカリしました」と答える。この後、一方的にまくし立てて園を出る。趙科長は「今日は観光なので、すぐ中国第一等の槐の木に案内します、と。行くこと1時間あまりで固新村に着く。

          

 槐が古いと同じように、村も一昔前のまま眠っている。土煉瓦で固めた大きなトンネルを抜けると、あと寿命は幾ばくもない枯れ木然とした槐があった。囲われた幹は、囲いをとれば薪の束かと思われる姿だが、見上げる空には青葉が茂っている。傍らの「槐記」によれば、葉は茂って村を覆い、飢饉の時は、その葉で飢えを凌いだという程、盛んであったようだ。「天下第一槐」をバックに写真を撮り、引き揚げる。

              

               

  昼食に招待してくれたのは、女性の県長。中々の美人、賢そうな顔立ち、声も美しい。遂乗ってしまい、「日中友好林檎園」を渉県に造る。つがるに矮台《M26号》を接ぎ、「りんごは渉県に学べ!」と云われる様な模範園にする。」とやる。県長喜んで、また乾杯、乾杯。その強いのに舌を巻く。

 最後は渉県自慢のうどん。つまみはにんにく。皮をむいてムシャムシャやると、県長もやる。みんなもやる。小生調子に乗って、2片も食べる。匂いを消すためお茶の葉を噛んで昼寝する。

 午後3時、渉県を発って邯鄲へ向かう。途中、聖井崗の信仰の寺を訪ねた。広済宮や媧媓宮と並んで女の神様。民間信仰とはいえ、大繁盛のようだ。中国は一人っ子政策のため、何としても男の子を産みたい一心からという。

          
                               聖井崗の廟の屋根

 趙科長が明日の打ち合わせと、妙にかしこまって入ってきて、「邯鄲地区・飯山市科技聯誼会」を作りたいと提案してくる。検討を約束する。名刺が残り少なくなってきたので、パソコンで名刺作りをする。就寝10時20分。


邯鄲の思い出(渉県)

2007-08-28 17:58:48 | Weblog

  8月28日  (火)  ①
                          平成17年1月1日より 970日目 
                                     歩いた歩数      その距離
                          本日        14,117歩          9,882m
                          総計  13,562,676歩  9,493,873 m
        北京より保定・石家荘・刑台・邯鄲を経て洛陽に向かう。255,277m

    1990年9月9日(日)小雨 気温18℃~24℃(邯鄲~渉県)

  午前4時に目覚めたので洗濯をして、また床に就く。再び起床したのは6時半。ファンイン・ファンイン(歓迎)も連日連夜、今日で丸一ヶ月。土曜も日曜も無い歓迎攻めにいささかバテ気味。今日の日曜ぐらい、何も構わないでほしい、なんて我儘な願いだろうか?「今日は一日中、観光です。いいですネ。」と言われても・・・(有り難くない)。まぁ、日中友好は私の務め!今日もニコニコで行きましょう。

 

 目指す渉県は150km先、太行山脈の山の中に在って、夏は涼しく、冬は暖かく、付き人の趙科長の出身地とか。生憎、雨降りとなったが、埃のない街、日曜日なので車の数も少なく、出勤する自動車も殆ど無い。久し振りに深呼吸が出来る。冀南賓館を出たのは午前7時40分。見渡すところは常に地平線という単調なところから、30分もすると山が見え始めたので、通訳の梁君、真っ先に興奮する。「山!山!太行山脈です!」と。

 

 この山脈を越えて山西省太原へ雪崩れ込んだのは信州の部隊ではなかったろうか?生きるも地獄・死ぬも地獄、よくもこんな所までと思うと、目頭が熱くなって、山もかすんでしまう。突然、梁君が「この道、通って日本軍は山西省へ行った。ソーヨ!日本、強いヨ!」と。強いヨに大分力を入れたが、私は黙っていた。

 

 やがて、先の欠けた大きな塔が見えてきた。8時半、武安市の舎利塔に着く。「お釈迦様のお骨を納めてあるんだネ」というと、「いや、立派な坊さんのお骨です」と答えた。仏教に縁の無い若者らしい答えだ。雨の中、やたらとシャッターを切る。峰峰(ホーホー)の炭鉱街に入ると、運転手が「わたしはこの町の出身。両親は今もこの街に住んでいます。」と言うので、予定の無い観光の旅。両親に会うよう勧めたが、「今日は勤務の身。我儘はユルサレマセン」という。ホロっとさせられる。

                      
                         武安の舎利塔

 車は町外れにある响堂山の石窟に着く。喘ぎあえぎ登りつめた石窟には顔を削り取られた仏像がある。石窟は幾つもあり、何処までも続く。その数は百を超えると言う。梁君は日本軍がやったというので、日本人は仏様を傷つけるようなことはしない。とムキになって抗議すると、紅衛兵ですと訂正した。しかし麓の寺は日本軍の砲撃でやられ、石像の足が折れ、顔の無い仏様も幾つもあったことは事実である。

                  

  清の皇帝の碑、お経を彫った壁、寄付の石碑など至る所ににあり、嘗ての中国のエネルギーの素晴らしさを感じさせる名所だ。完成までに50年の歳月を費やしたという。昼食は武安市に戻り、招待所で名物というラーメンを食べることになる。名物だけあって、腰もあり、中国に来て初めて感じた見事な味である。ラーメンを食べるならラーメンが出来るまで待てばよいものを、例により、料理が幾皿も後から後から出て、麦酒が林立するという主客転倒型に、「みなさんどうぞ!私は白酒でラーメンを待ちます!」と言うと、今度は皆白酒で」乾杯、乾杯。何のことは無い、付き人は私をダシにしてご馳走にありついているのかも知れない。

 

 昼食の後は、昼寝がつきものだが、「今日は先生、のご昼寝無しで出発です。スミマセン」と。やがて車は蛇行しながら登り始める。そそりたつ山々は、将棋の駒を積み上げたようで、その一つを取れば、ガラガラと崩れ落ちてきそう。絶景と言おうか、寒気さえ感じる岩山である。峠を越えると、ゆるやかな下り坂となり、下りきったところが渉県である。

 

 科学委員会では日曜にも関わらず、主任自ら我々を待っており、そのまま媧媓宮への案内に発つ。行くこと、15km、山が開けた所に、正面に竜宮城のような媧媓宮が出現。サスガ、自分の故郷と自慢していた趙科長さえ、興奮するほどのスバラシサ。山は高く、大きな壁になっているが、登り道はなだらかな石畳なので汗をかくことも無く登りきる。華麗な媧媓宮のご本尊は女篇が付くだけあって女の人(神様と言うべきか?)なんとなく俗っぽくって興味が湧かない。

                  

 

 しかし壁はすべて岩盤で、そこにはびっしりとお経の文句が楷書で彫り込まれている。私が般若経を見つけて読み始めると、案内人までビックリしていた。堂守が私が日本人だと知ると、鍵を持って来て、鐘楼を開けてくれた。鐘楼の二階には大きな鉄製の鐘が吊るされていた。この鐘は一般の寺で見られる鐘と違って、下が八つに分かれている。丁度銅錫を四つ曲げながら組み合わせたような感じで、珍しいのでしげじげと眺めていると、叩いてみなさいと合図する。ここで大いに気分を良くする。

             
                         下が分かれいる鐘   

  招待所へ戻る途中、日本兵が住民を大量殺戮したという碑が立っていた。「日寇」「七・七事変」などの文字があり、170人あまりが犠牲になったと記されている。小生がその碑の写真を撮ると、」皆バツの悪そうに恐縮していた。恐縮しなければならないのはこちらの方と思うのだが・・・。

            

  夕食に、ここの標高は?と問うと、850m、気温は年平均12℃、朝夕の気温差が大きく、果実が美味しいとのことに、元気が出て、「よし!ここはつがるの適地だ。いっちょうやるか!」と呼びかけると、ファンイン・ファンインで盛り上がる。早速明日はりんご園に視察に行くことにする。就寝10時10分。

             
                                                                                        

 

               


邯鄲の思い出(永年県)

2007-08-27 19:04:23 | Weblog

  8月27日  (月) 
                          平成17年1月1日より 969日目
                                      歩いた歩数       その距離                                
                          本日         15,258歩         10,681m
                          総計   13,548,559歩   9,483,991 m
              北京より保定・石家荘・刑台・邯鄲を経て洛陽に向かう。 265,159m

    1990年9月8日 4時に目が覚めたので、洗濯する。今日は初めて野菜の視察と言うので資料を揃える。朝食後、時間調整のため散歩に出る。ゲートボールに打ち込んでいる初老のみなさんを見た。打ち方を見て気がついたのだが、股を開いての打ち方と、片足を半歩前に出して、足に平行に打つ方法の二つで、日本のような打ち方をする人は独りも居ない。中々良く入り、良くあたる。日本に戻って聞いた所、日本では認められないとのこと。

                             

 8時、永年県に向かって出発。9時20分、例によって、国道で出迎の車と合流現場に向かう。小竜頭村のビニールハウス。きゅうり・トマト・にら・ピーマン・・・を作り、その面積2,000ムー(140町歩)。南瓜台に接木したきゅうり苗を自慢げに話したので「これは無意味だ。呼び接ぎしたきゅうりの自根を切ってうえないと・・・」とついおせっかいをやく。

          更に、西張塞村の畑を見る。灌漑水路が網の目のように走り、いつでも好きな時に潅水できるスバラシサ。私はここで収穫された物を売る市場を見たいと申し込んだところ、小雨のぱらつきだした事もあって、計画を変更して、即刻永年県南大堡蔬菜市場へ。

              

  市場の中はごった返しているばかりで秩序も無く、自分の持ち物が売れるのを待っているのだろうか、アチコチに屯して、突然の闖入者を好奇な目で見詰めている。北京・天津・河南省のなどの車も来て居り、河北省一の大きな市場という。口銭は3%、国の規制は何も無く、自由に開業できると言う。

                           

  昼食は北京・天津の金が入る県だけあって豪勢なもの。ホテルじゃ見られないような代物が続々登場。一時間半やっと開放されて昼寝。三時半より会議室で、「日本農業の現状と流通について」の演題で講演、記念写真を撮って引き揚げる。色々な要望も胸を叩いて引き受けて来た。

  夕食の中で、趙科長から「先生のお友達なら、誰でも邯鄲政府は歓迎しますヨ」というので「日本人だって悪いヤツも居ますヨ」と答えると、「先生の友達なら、みんな大丈夫!」科長、今日はご機嫌でビールが弾む。褒めること、褒めること。三人三様、楽しい夕食となった。