百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

邯鄲の思い出(渉県)

2007-08-28 17:58:48 | Weblog

  8月28日  (火)  ①
                          平成17年1月1日より 970日目 
                                     歩いた歩数      その距離
                          本日        14,117歩          9,882m
                          総計  13,562,676歩  9,493,873 m
        北京より保定・石家荘・刑台・邯鄲を経て洛陽に向かう。255,277m

    1990年9月9日(日)小雨 気温18℃~24℃(邯鄲~渉県)

  午前4時に目覚めたので洗濯をして、また床に就く。再び起床したのは6時半。ファンイン・ファンイン(歓迎)も連日連夜、今日で丸一ヶ月。土曜も日曜も無い歓迎攻めにいささかバテ気味。今日の日曜ぐらい、何も構わないでほしい、なんて我儘な願いだろうか?「今日は一日中、観光です。いいですネ。」と言われても・・・(有り難くない)。まぁ、日中友好は私の務め!今日もニコニコで行きましょう。

 

 目指す渉県は150km先、太行山脈の山の中に在って、夏は涼しく、冬は暖かく、付き人の趙科長の出身地とか。生憎、雨降りとなったが、埃のない街、日曜日なので車の数も少なく、出勤する自動車も殆ど無い。久し振りに深呼吸が出来る。冀南賓館を出たのは午前7時40分。見渡すところは常に地平線という単調なところから、30分もすると山が見え始めたので、通訳の梁君、真っ先に興奮する。「山!山!太行山脈です!」と。

 

 この山脈を越えて山西省太原へ雪崩れ込んだのは信州の部隊ではなかったろうか?生きるも地獄・死ぬも地獄、よくもこんな所までと思うと、目頭が熱くなって、山もかすんでしまう。突然、梁君が「この道、通って日本軍は山西省へ行った。ソーヨ!日本、強いヨ!」と。強いヨに大分力を入れたが、私は黙っていた。

 

 やがて、先の欠けた大きな塔が見えてきた。8時半、武安市の舎利塔に着く。「お釈迦様のお骨を納めてあるんだネ」というと、「いや、立派な坊さんのお骨です」と答えた。仏教に縁の無い若者らしい答えだ。雨の中、やたらとシャッターを切る。峰峰(ホーホー)の炭鉱街に入ると、運転手が「わたしはこの町の出身。両親は今もこの街に住んでいます。」と言うので、予定の無い観光の旅。両親に会うよう勧めたが、「今日は勤務の身。我儘はユルサレマセン」という。ホロっとさせられる。

                      
                         武安の舎利塔

 車は町外れにある响堂山の石窟に着く。喘ぎあえぎ登りつめた石窟には顔を削り取られた仏像がある。石窟は幾つもあり、何処までも続く。その数は百を超えると言う。梁君は日本軍がやったというので、日本人は仏様を傷つけるようなことはしない。とムキになって抗議すると、紅衛兵ですと訂正した。しかし麓の寺は日本軍の砲撃でやられ、石像の足が折れ、顔の無い仏様も幾つもあったことは事実である。

                  

  清の皇帝の碑、お経を彫った壁、寄付の石碑など至る所ににあり、嘗ての中国のエネルギーの素晴らしさを感じさせる名所だ。完成までに50年の歳月を費やしたという。昼食は武安市に戻り、招待所で名物というラーメンを食べることになる。名物だけあって、腰もあり、中国に来て初めて感じた見事な味である。ラーメンを食べるならラーメンが出来るまで待てばよいものを、例により、料理が幾皿も後から後から出て、麦酒が林立するという主客転倒型に、「みなさんどうぞ!私は白酒でラーメンを待ちます!」と言うと、今度は皆白酒で」乾杯、乾杯。何のことは無い、付き人は私をダシにしてご馳走にありついているのかも知れない。

 

 昼食の後は、昼寝がつきものだが、「今日は先生、のご昼寝無しで出発です。スミマセン」と。やがて車は蛇行しながら登り始める。そそりたつ山々は、将棋の駒を積み上げたようで、その一つを取れば、ガラガラと崩れ落ちてきそう。絶景と言おうか、寒気さえ感じる岩山である。峠を越えると、ゆるやかな下り坂となり、下りきったところが渉県である。

 

 科学委員会では日曜にも関わらず、主任自ら我々を待っており、そのまま媧媓宮への案内に発つ。行くこと、15km、山が開けた所に、正面に竜宮城のような媧媓宮が出現。サスガ、自分の故郷と自慢していた趙科長さえ、興奮するほどのスバラシサ。山は高く、大きな壁になっているが、登り道はなだらかな石畳なので汗をかくことも無く登りきる。華麗な媧媓宮のご本尊は女篇が付くだけあって女の人(神様と言うべきか?)なんとなく俗っぽくって興味が湧かない。

                  

 

 しかし壁はすべて岩盤で、そこにはびっしりとお経の文句が楷書で彫り込まれている。私が般若経を見つけて読み始めると、案内人までビックリしていた。堂守が私が日本人だと知ると、鍵を持って来て、鐘楼を開けてくれた。鐘楼の二階には大きな鉄製の鐘が吊るされていた。この鐘は一般の寺で見られる鐘と違って、下が八つに分かれている。丁度銅錫を四つ曲げながら組み合わせたような感じで、珍しいのでしげじげと眺めていると、叩いてみなさいと合図する。ここで大いに気分を良くする。

             
                         下が分かれいる鐘   

  招待所へ戻る途中、日本兵が住民を大量殺戮したという碑が立っていた。「日寇」「七・七事変」などの文字があり、170人あまりが犠牲になったと記されている。小生がその碑の写真を撮ると、」皆バツの悪そうに恐縮していた。恐縮しなければならないのはこちらの方と思うのだが・・・。

            

  夕食に、ここの標高は?と問うと、850m、気温は年平均12℃、朝夕の気温差が大きく、果実が美味しいとのことに、元気が出て、「よし!ここはつがるの適地だ。いっちょうやるか!」と呼びかけると、ファンイン・ファンインで盛り上がる。早速明日はりんご園に視察に行くことにする。就寝10時10分。

             
                                                                                        

 

               


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1 コメント

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羨ましいです (宮崎汎)
2007-08-29 11:00:53
「邯鄲の思い出」丹念に拝見してます。なんと羨ましい体験をなさったのでしょうか。私もこれまで何回か訪中しましたが。チャンスが無くて日本人があまり行かない地方の町や村を見たことはありません。かつて蘭州で中央政府のお目付けつきで「郷鎮?」というのでしょうか「模範的な農村」を短時間表敬したことがあるだけです。それにしても歓迎振りが凄いですね。高主さんのお人柄も在りますが、先方にとっては学ぶべき技術・技量を待っている「師」であることに対する敬いの現われではないかと思います。写真を拝見するとこんなに人々に四六時中、囲まれていると、少し疲れませんか。まあどの写真もご本人はにこやかに応対しているのですから、案外楽しみながらといったところでしょうか。私が中国に感じる魅力の一つは、「遺跡や旧い文物」に触れることです。掲載の「武安の仏舎利塔」素敵ですね。釣鐘のスソに切れ込みのある鐘など見たことも聞いたこともありません。いつか見たいものです。邯鄲の夢に誘われ、子供の頃に読んだ芥川龍之介の「杜子春」を読み返しました。汎
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