百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

軍隊手帳の始末(第7話)

2011-07-31 17:13:47 | 私の青春時代

 7月31日 (日)のち  平成17年1月1日より 2,403日目
        歩いた歩数          その距離 m
本日    13
,438 歩            9,407m
総計 33,499,053歩    
23,449、337

イラン・トルコ、ギリシャを経てシシリー島カタニアを経てイタリヤ半島ナポリに向かう。後 98,921m

               

 軍隊手帳をウィキペディアで検索した所下記のように記されていたが、終戦になった直後、「軍隊手帳及び写真など軍人であったと証明されるものはすべて焼却すべし」との命令があって、防空壕の天井部分を剥いで作った穴で全部燃やしてしまった。

 日本軍の軍人は手帳の記載事項を全て暗記することを要求されていた。

戦後に傷病兵への年金支給の申請に軍隊手帳が必要書類となったが、紛失していたケースが多発したため申請時にトラブルになった。

手帳の中には以下のようなものが書かれていた。

〇所属連隊の証明印影 〇軍人勅諭(昭和期のものは明治、大正、昭和天皇の三種) 〇教育勅語 〇軍人読法 〇誓文 〇軍隊手帳に係る心得 〇戦陣訓 1942年以降の版に掲載 〇経歴入隊から除隊までの経歴や賞罰などが詳細に書かれている 
 部隊号、兵科、階級、得業、戦時着装被服のサイズ(帽、衣袴、外套、靴)、本籍、住所、氏名、生年月日、身長など

 軍人手帳を燃やしても軍人で無かった証明にはなりはしないが、それでも何か重荷が下りた気分になれたのもおかしい。それにしても勿体無いことをしたもんだ。第一、軍人は手帳に記された記載事項を全て暗記するなんて教えられた覚えはない。

 今日は最後までどうしても暗唱できなかった【軍人勅諭】を掲載して終わりとする。

陸海軍人に賜りたる勅諭

 

我國の軍隊は世々(よよ)天皇の統率し給ふ所にぞある。昔神武天皇躬(み)つから

大伴、物部の兵(つわもの)どもを率ゐ、中國(なかつくに)のまつろはぬものども

を討ち平げ給ひ、高御座(たかみくら)に即(つ)かせられて天下(あめのした)し

ろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ。此間世の様の移り換るに随ひて、兵制の

沿革も亦(また)屡(しばしば)なりき。古(いにしえ)は天皇躬つから軍隊を率ゐ

給ふ御制(おんおきて)にて、時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれど、

大凡(おおよそ)兵權を臣下に委(ゆだ)ね給ふことはなかりき。中世(なかつよ)

に至りて文武の制度皆唐國風(からくにぶり)に傚(なら)はせ給ひ、六衛府(ろく

えふ)を置き左右馬寮(さうめりょう)を建て、防人(さきもり)など設けられしか

ば、兵制は整ひたれども、 打續ける昇平に狃(な)れて、朝廷の政務も漸(ようや

く)文弱に流れければ、兵農おのづから二に分れ、古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に

變り、遂に武士となり、兵馬の權は一向(ひたすら)に其武士どもの棟梁たる者に歸

し、世の亂(みだれ)と共に政治の大權も亦其(その)手に落ち、凡(およそ)七百

年の間武家の政治とはなりぬ。世の様の移り換りて斯(かく)なれるは、人力(ひと

のちから)もて挽回(ひきかえ)すべきにあらずとはいひながら、且(かつ)は我國

體に戻(もと)り、且は我祖宗の御制(おんおきて)に背き奉り浅間しき次第なりき。

降りて弘化嘉永の頃より、徳川の幕府其政衰へ、剩(あまつさえ)外國の事ども起り

て、其侮(あなどり)をも受けぬべき勢に迫りければ、朕が皇祖(おおじのみこと)

仁孝天皇皇考(ちちのみこと)孝明天皇いたく宸襟(しんきん)を悩し給ひしこそ、

忝(かたじけな)くも又惶(かしこ)けれ。然るに朕幼(いとけな)くして天津日嗣

(あまつひつぎ)を受けし初、征夷大將軍其政権を返上し、大名小名其版籍を奉還し、

年を經ずして海内(かいだい)一統の世となり、古の制度に復しぬ。是文武の忠臣良

弼(りょうひつ)ありて、朕を輔翼(ほよく)せる功績(いさお)なり。歴世祖宗の

專(もっぱら)蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへども、併(しかしながら)我臣民

の其心に順逆の理(ことわり)を辨(わきま)へ、大義の重きを知れるが故にこそあ

れ。されば、此時に於て兵制を更め、我國の光を耀さんと思ひ、此十五年が程に陸海

軍の制(せい)をば今の様に建定(たてさだ)めぬ。夫(それ)兵馬の大權は朕が統

(す)ぶる所なれば、其司々(つかさつかさ)をこそ臣下には任すなれ、其の大綱は

朕親(みづから)之を攬(と)り肯(あえ)て臣下に委(ゆだ)ぬべきものにあらず。

子々孫々に至るまで、篤く斯旨(このむね)を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義

を存して、再中世以降の如き失體なからんことを望むなり。朕は汝等軍人の大元帥な

るぞ。されば朕は汝等を股肱(ここう)と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ其親は特

に深かるべき。朕が國家を保護(ほうご)して、上天(しょうてん)の惠に應じ祖宗

の恩に報いまゐらする事を得るも得ざるも、汝等軍人が其職を盡すと盡さゝるとに由

るぞかし。我國の稜威(みいつ)振はざることあらば、汝等能く朕と其憂を共にせよ。

我武維(これ)揚(あが)りて其榮を耀さば、朕汝等と其譽(ほまれ)を偕(とも)

にすべし。 汝等皆其職を守り、朕と一心(ひとつこころ)になりて力を國家の保護

(ほうご)に盡さば、 我國の蒼生は永く太平の福(さいわい)を受け、我國の威烈

(いれつ)は大に世界の光華ともなりぬべし。朕斯(かく)も深く汝等軍人に望むな

れば、猶(なお)訓諭(おしえさと)すべき事こそあれ。いでや之を左に述べむ。

 

一 軍人は忠節を盡すを本分とすべし。

 凡(およそ)生を我國に稟(う)くるもの誰かは國に報(むく)ゆるの心なかるべ

 き。況(ま)して軍人たらん者は此心の固からでは、物の用に立ち得べしとも思は

 れず、軍人にして報國の心堅固ならざるは、如何程技藝に熟し學術に長ずるも、猶

 (なお)偶人にひとしかるべし。其隊伍も整ひ節制も正くとも、忠節を存せざる軍

 隊は、事に臨みて烏合の衆に同かるべし。抑(そもそも)國家を保護し國權を維持

 するは兵力に在れば、兵力の消長は是國運の盛衰なることを辨(わきま)へ、世論

 に惑はず、政治に拘らず、只々一途に己が本分の忠節を守り、義は山嶽よりも重く、

 死は鴻毛(こうもう)よりも輕しと覺悟せよ。其操(みさお)を破りて不覺を取り、

 汚名を受くるなかれ。

 

一 軍人は禮儀を正しくすべし。

 凡(およそ)軍人には上(かみ)元帥より下(しも)一卒に至るまで、其間に官職

 の階級ありて統屬するのみならず、同列同級とても停年に新舊あれば、新任の者は

 舊任のものに服従すべきものぞ。下級のものは上官の命を承(うけたまわ)ること

 實は直に朕が命を承る義なりと心得よ。己が隷屬する所にあらずとも、上級の者は

 勿論、停年の己より舊きものに對しては、總(す)べて敬禮を盡すべし。又上級の

 者は下級のものに向ひ聊(いささかも)も輕侮驕傲(けいぶきょうごう)の振舞あ

 るべからず。公務の為に威嚴を主とする時は格別なれども、其外は務て懇(ねん

 ごろ)に取扱ひ、慈愛を専一と心掛け、上下(じょうか)一致して王事に勤勞せよ。

 若(もし)軍人たるものにして禮儀を紊(みだ)り、上(かみ)を敬はず下(しも)

 を惠(めぐ)まずして一致の和諧(わかい)を失ひたらむには、啻(ただ)に軍隊

 の蠧毒(とどく)たるのみかは、國家の為にもゆるし難き罪人なるべし。

 

一 軍人は武勇を尚(とうと)ふべし。

 夫(それ)武勇は我國にては古よりいとも貴べる所なれば、我國の臣民たらんもの、

 武勇なくては叶ふまじ。況(ま)して軍人は戰(たたかい)に臨み敵に當るの職な

 れば、片時も武勇を忘れてよかるべきか。さはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同

 からず。血気にはやり、粗暴の振舞などせんは、武勇とは謂(い)ひ難し。軍人た

 らんものは、常に能く義理を辨(わきま)へ、能く膽力(たんりょく)を練り思慮

 を殫(つく)して事を謀(はか)るべし。小敵たりとも侮らず、大敵たりとも懼

 (おそ)れず、己が武職を盡さむこそ、誠の大勇にはあれ。されば武勇を尚ぶもの

 は常々人に接(まじわ)るには温和を第一とし、諸人の愛敬を得むと心掛けよ。由

 (よし)なき勇を好みて猛威を振ひたらば、果は世人も忌(いみ)嫌ひて豺狼(さ

 いろう)などの如く思ひなむ。心すべきことにこそ。

 

一 軍人は信義を重んずべし。

 凡(およそ)信義を守ること常の道にはあれど、わきて軍人は信義なくては一日も

 隊伍の中(うち)に交りてあらんこと難かるべし。信とは己が言を踐(ふみ)行ひ、

 義とは己が分を盡すをいふなり。されば信義を盡さむと思はゝ、始より其事の成し

 得べきか得べからざるかを審(つまびらか)に思考すべし。朧氣(おぼろげ)なる

 事を假初(かりそめ)に諾(うべな)ひて、よしなき關係を結び、後に至りて信義

 を立てんとすれば、進退谷(きわま)りて身の措(お)き所に苦むことあり。悔ゆ

 とも其詮なし。始に能々(よくよく)事の順逆を辨(わきま)へ理非を考へ、其言

 は所詮踐(ふ)むべからずと知り、其義はとても守るべからずと悟りなば速に止る

 こそよけれ。古より或は小節の信義を立てんとて、大綱の順逆を誤り、或は公道の

 理非に踐(ふみ)迷ひて、私情の信義を守り、あたら英雄豪傑どもが禍に遭ひ身を

 滅(ほろぼ)し、屍(しかばね)の上の汚名を後世(のちのよ)まで遺(のこ)せ

 ること其例(ためし)尠(すくな)からぬものを深く警(いまし)めてやはあるべ

 き。

 

一 軍人は質素を旨とすべし。

 凡(およそ)質素を旨とせざれば、文弱に流れ輕薄に趨(はし)り、驕奢華靡(き

 ょうしゃかび)の風を好み、遂には貪汚(たんお)に陷(おちい)りて志も無下に

 賤しくなり、節操も武勇も其甲斐なく、世人(よのひと)に爪はじきせらるる迄に

 至りぬべし。其身生涯の不幸なりといふも中々愚(おろか)なり。此風一たび軍人

 の間に起りては、彼の傳染病の如く蔓延し、士風も兵氣も頓(とみ)に衰へぬべき

 こと明なり。朕深く之を懼(おそ)れて、曩(さき)に免黜(めんちゅつ)條例を

 施行し、略(ほぼ)此事を誡(いまし)め置きつれど、猶(なお)も其悪習の出ん

 ことを憂ひて心安からねば、故(ことさら)に又之を訓(おし)ふるぞかし。汝等

 軍人ゆめ此訓誡(おしえ)を等間(なおざり)にな思ひそ。

 

 右の五箇條は軍人たらんもの、暫(しばし)も忽(ゆるがせ)にすべからず。さて

之を行はんには、一(ひとつ)の誠心(まごころ)こそ大切なれ。抑(そもそも)此

五箇條は我軍人の精神にして、一の誠心は又五箇條の精神なり。心誠ならざれば如何

なる嘉言(かげん)も善行も、皆うはべの装飾(かざり)にて何の用にかは立つべき。

心だに誠あれば、何事も成るものぞかし。況(ま)してや此五箇條は天地の公道人倫

の常經(じょうけい)なり。行ひ易く守り易し。汝等軍人能く朕が訓(おしえ)に遵

(したが)ひて此道を守り行ひ、國に報ゆるの務を盡さば、日本國の蒼生擧(こぞ)

りて之を悦びなん。朕一人の懌(よろこび)のみならんや。

 

     明治十五年一月四日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


栄中学で【絆音楽祭】

2011-07-30 17:30:49 | まつり

 7月30日 (土)のち  平成17年1月1日より 2,402日目
        歩いた歩数          その距離 m
本日    15
,776 歩            11,043m
総計 33,485,615歩    
23,439、931

イラン・トルコ、ギリシャを経てシシリー島カタニアを経てイタリヤ半島ナポリに向かう。後 108,328m

                 
                                         栄中学生の合唱

 隣村の栄中学で、県北部地震で被害を受けた栄村の支援を申し出た長野・須坂・松本の3市5校の中学校を招いて【絆音楽祭】を開いた。この情報を掴んだH女史からの要請でAさんと3名で栄中学を訪れた。

 支援に応えて立ち上がった村民の熱意で雨の中、交通整理も整然と行われ、また接待体制も整って居て、驚いたことにはJAみゆきの支援で参加者全員に記念品まで用意されていた。またプロのマジックショウのサービスまであって絆音楽祭を盛り上げていた。

音楽祭は栄中の体育館で5校が校歌や合唱曲を披露して競い合ったが、信大付属の松本中からは、千羽鶴や寄せ書きをした応援旗、それに心の籠った義捐金まで贈られた。音楽祭のフィナーレは参加者全員で「故郷」の大合唱で飾った。H女史の誘いで参加した私もこの合唱で絆が結ばれ、地域住民との一体感を味わうことが出来て嬉しかった。


軍隊で一番困ったこと(第6話)

2011-07-29 10:51:49 | 私の青春時代

 7月29日 (金)のち  平成17年1月1日より 2,401日目
       歩いた歩数          その距離 m
本日    13
,221 歩            9,255m
総計 33,469,839歩    
23,428、887

イラン・トルコ、ギリシャを経てシシリー島カタニアを経てイタリヤ半島ナポリに向かう。後 128,625m

CIMG1859

             飯山高校の前から四囲を見渡す

 入隊して最も困ったことは【手紙】だ。手紙は総べて検閲されるようだ。朝の点呼で名指しされ、【お前に来ている手紙を皆に披露しろ!」という。見れば封書で小学校時代並んで居たf同級生からだった。達筆な筆字で「お前がにやにやして家の前を通ったので、その話をするとお前は入隊して私の前の兵舎に居る。お前はきっと消灯ラッパが鳴ると、ベットの中でベソ掻いているだろう・・・」などと書いてある。班内は大笑いだ。【お前その女とどういう関係だ】と冷やかされる。【小学校時代の同級生であります】【そんなことは判っとる。だからどういう関係だ】「同級生と云うだけであります」「そんなことはあるまい。大体お前の所に来る手紙はオンナばかりだ。」と突っかかってくる。いくら言い訳しても信じては貰えない。これには参った!

 実は入隊前は【4年の3組女子】の受け持ちだったから当然女子からの手紙は人一倍多かったので目立った。この手紙の主は同じ市内だが山の中の小学校の訓導でたまたま選ばれて女子師範で講習を受けていたのだ。偶然にも聯隊と道を隔てた校舎に居ることが判ったので、懐かしさの余り寄越したもので他意はないのだが、こちらは大迷惑。

 そんなことがあって、女たらしで有名になってしまった。夜、小便をしに階下に下りて行き不寝番に便意を告げると、「お前か、オンナたらし!立つとれ!」と言って便所へ行かして貰えない。これにはよくよく参った。一か月後、歩兵の教育が終わって金沢の陸軍病院に衛生兵の教育を受けるために転属命令が出たのでホッとした。それからはすっかり懲りて、転属先は一切知らせないことにした。


軍隊は運隊 (第5話)

2011-07-28 21:15:31 | 私の青春時代

7月28日 (木)  平成17年1月1日より 2,400日目
       歩いた歩数     その距離 m
本日    14
,524 歩      10,167m
総計 33,456,618歩     
23,419、633

 イラン・トルコ、ギリシャを経てシシリー島カタニアを経てイタリヤ半島ナポリに向かう。後 128,625m

         
                       日赤で

          孫の貴ちゃんが妻の入院見舞を兼ねて来てくれた。

軍隊は運隊 (第5話)

 私は軍隊には幻滅を感じたし、かなり批判的にはなったが、班内ではぬるま湯に浸かったような厚遇を受けていた。

 私は4中隊(猪隊)第5班に配属された。此の班は「鍛錬班」と呼ばれていた。鍛錬班と云えば如何にも怖いようにとられるが、虚弱体質の兵隊を一人前に育てようという有り難い考えから、食べ物にも優遇され、特別の配給品まであった。最初は(肝油最中)などが特配されたが、後には繭の蛹になった。中には苦手で食べない者が居たので私はその分までご馳走になることが出来た。

 次に私たち兵隊の教育係のK兵長は、初年兵時代、私の出身地の同性のK軍曹に可愛がられたという恩義から、私には特別の扱いをして呉れた。また聯隊に知ってる者が居るかとの質問に「歩兵砲中隊の副官S大尉は私の家の隣の会社の社長です」と答えたのも効いたようだ。

 それに私の職業が小学校教員となっていたので、一目置いて呉れたようだ。私は暗記力が弱い方だが、軍人勅諭の暗証は一度も指名されなかった。私より3か月早く入隊した同郷のU君は少し斜視だったせいもあって、「目がもの言った」と咎められては軍人勅語の復唱をさせられて、つかえては殴られて居た。

 またある日の曹長室当番の時、曹長のパンが無くなるというハプニングがあったが、お前は先生をして居ったと聞いている、お前がパンを食う筈はないとすると相棒が食ったに違いないと決めつけられて、仕置きされた。後で他中隊の兵隊であることが判ったが相棒はとんだ災難だった。

 


敵前に於いて逃亡したる者は銃殺に処す

2011-07-27 14:49:48 | 私の青春時代

 7月27日 (水)  平成17年1月1日より 2,399日目
       歩いた歩数     その距離 m
本日    17
,835 歩      12,485m
総計 33,442,094歩  23,409、466

イラン・トルコ、ギリシャを経てシシリー島カタニアを経てイタリヤ半島ナポリに向かう。後 138,792m

 

 「敵前に於いて逃亡したる者は銃殺に処す」これが私の入隊した最初に受けた講義の言葉だった。軍人は「天皇の防人」であるとの信念で「海ゆかばみずく屍、山行かば草むす屍」の覚悟で歓呼の声に送られて名誉の出征と自負して入隊した者に対して余りにも非情な言葉に唖然とした。

 まさか、これが武勇を尊ぶ帝国軍人の中によもや在るまいと考えても見なかった心に軍隊にも表と裏、夢と現実の違いのあることを知らされ、すっかり動揺してしまった。そして私には軍隊に対する不信と批判の芽が生まれた。

逃亡罪は、陸軍刑法第75条ないし第78条、海軍刑法第73条ないし第77条に規定された罪である。

陸軍刑法第7章第75条には次のように記されている。

『故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ左ノ区分ニ従テ処断ス

  1.  敵前ナルトキハ死刑、無期若ハ5年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス。
  2.  戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ3日ヲ過キタルトキハ6月以上7年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス。
  3.  其ノ他ノ場合ニ於テ6日ヲ過キタルトキハ5年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス。』

 いよいよ練兵場へ演習に出て驚いた。トーチカの攻略法だ。銃を発砲してはならない。発砲すれば敵にわが軍の所在を教えることになるというのだ。練兵場の端からトーチカに向かって匍匐前進。銃を両手で支えて這って行く。尻を挙げるな!敵に見つけられるという。お昼まで這って行った所に印をして昼飯の後、そこからまた這って前進。そしてトーチカの後ろまで這って行き、後ろからトーチカを攻略するのだという。バカバカしくてやってられない。

 初めのいっぺんの攻撃は成功したとしても、相手は警戒して軍用犬を配置して待機、木の上から這って来る兵隊を狙撃する。これじゃ勝ちっこない。そんな事を進言しようものならエライ事のなるから誰も反発しない。ただ這っているだけだ。教官はこれで勝てると思ってやっているのだろうか。情けない話だ。 

 若しあの時、大日本帝国陸軍の成り立ちとか、我が松本50聯隊の光輝ある戦史などの話で初年兵を奮い立たせるような講話がされて居たならば、忠誠心で燃え上がったのではないだろうか。裏話第4話