9月22日 (土) ②
平成17年1月1日より 995日目
歩いた歩数 その距離
本日 5,430歩 3,801m
総計 13,894,901歩 9,726,431 m
北京より保定・石家荘・刑台・邯鄲を経て洛陽に向かう。後 10,607m
1990年8月31日 晴れ 気温21℃~30℃
午前7時50分 「来年も是非お出で下さい」という副所長.所長代理に送られて、昌黎果樹研究所を発つ。外国人研究員としての待遇で、今までの形から開放され、気分的にたいへんリラックス出来た3日間だった。昌黎訪問が何のためかさえ判らなかったのが、小生にも研究所側にも納得できる結果となったことは、予想もしなかった成果といっても良いだろう。
私たち一行(出迎えの趙科長・昌黎研究所の研究員2名と小生)は8時22分発 秦皇島―石家荘(快行)列車で、通訳の田さんと運転手の陳さんに見送られて昌黎を発った。車中、さくらカラー36枚撮りのフィルムが、終わったはずなのに、自動巻取り装置が働かず、開けて見ると、フィルムが切れているではないか。昨日の観光旅行の記念すべき記録(山海関の万里の長城・渤海湾に沈み行く長城・海水浴の写真等々)がスベテフイとなり、泣いても喚いても、もう取り返しがつかない。こんなフィルムってあるんだろうか。残念無念!と。
突然、前の席の老人から声を掛けられた。「どちらまで?」ビックリして「カンタン」と言うと「石家荘で乗り換えですネ」「ハイ!石家荘から車で行きます」これですっかり仲良くなり、車中退屈せずに行ける事になった。(趙科長は日本語ダメ・昌黎の二人も片言のみ)
この人は沈鵬遠さんという方で、昭和13年(中国の人は19何年と言う筈だが?)ハルピン大学を卒業し、現在は石家荘高技術協会の仕事をしている70歳の方で、本人も高級工程師で鉄道関係の仕事をされて居ったようだ。
“思い出の歌”の本を差し出すと、バアさんが大声で読む。ジイさんが間違いを訂正する。何となく掛け合い漫才をやっているのよう。50年振りで、日本語を使ってみましたと、バアさん喜ぶ。旅は道連れ、世は情け。
「先生!お昼」見れば時計は11時「早いヨ」とは言ってみたが、着いて行く。食堂車でビール12本を平らげ、満腹。「先生!食事」と再び声が掛かる。まだ3時だ。「いや、もう食べたくないヨ」「もう頼みました」と言うので、抵抗をやめて、再び食堂車へ。付き人たちは私をダシにして、またビールを飲む魂胆?10皿ほどの料理。
今回は食堂車もカラッポで貸切。料理も皿の上に美しくキチンと並んでいる。その内、“じゅんさい“のスープが出てきた。北竜湖のじゅんさいをどぶ水で煮て、生姜と胡椒で味付けしたような、見るからに薄汚れたスープだが、”なんでも挑戦“の突撃精神で平らげる。飯を平らげたのも、何のことは無い、小生のみだった。照れ隠しに、お凸を一つ叩いてアッハッハ・・・。みんなも一緒になって大笑い。
「邯鄲では通訳が着きます」「ソーオ!女ですか?」「イヤ、おとこ」「ザンネン!」と言うと、みんな大笑い。「先生、おんな好きですか?」「大好き、大好き!」また大笑い。パット、車中が明るくなったようだ。リラックスした付き人たち、禁煙車を忘れてタバコを吸う。オバタリアンの抗議にあって束ぬ間の胸のうちもシュン。
「先生、食事!」「ダメ」と断ったが、みんな立ったので三度食堂車へ、。例により、ビールを飲んでモウ満腹と、バンドをはずし、コルセットを緩めると、この芝居が効いたか、追加のビールは飲まずにうどんに挑戦することができた。
このうどん、トマトときゅうりの油いために、ソーセージの千切りが丼から落ちんばかりに載っている。うどんは既に伸びている。(中国ではこれが普通)半分位食べた所で終点間近で食堂車が閉鎖となる。石家荘着は午後7時20分。
邯鄲よりの出迎えの科長・通訳・運転手は一緒に食事をと待っていたが、汽車組みはスグ出発できるようにと食事を済ませた作戦の行き違いから出発は9時となる。この間、邢春さんと連絡を取ろうとしたが、ソレモナラズ、ヤキモキするばかり。石家荘から邯鄲までは160km。近いです。3時間です、と。大陸の物指しはさすがにデカイ!邯鄲着は0:10 ホテルは冀南賓館。冷たいビールをと誘われたが、風呂に入って寝る。さて邯鄲の夢は?