■ 与党「愛国心」表現方法で一致
自民・公明の両与党は12日、教育基本法の改定案に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度」という表記を盛り込むことで一致しました。
政府・与党はこれを受け、改定法案の今国会への提出を急ぐと報じられていますが、私はこのような改定に全面的に反対します。
■ 国家が子どもたちの「心」に踏み込む
まず、これまで行なわれてきた議論を振り返ってみますと、自民党は「国を愛する心」を主張し、これに対し公明党は「国のために死ね、とか、統治機構を愛せ、とかは言えない。」として、「国を大切にする心」を主張してきました。
しかし、これはどちらも「公教育の場で、国家が法律によって子供たちの『心』に踏み込む行為であり、許されない。」との批判を受けました。
この批判は当然のことです。憲法19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定めており、幼少期から国家が子どもたちの「心」を統制する行為は許されるものではありません。
■ 「心」から「態度」で、本質が変わったのか
今回、こうした批判をかわすため、与党は求めるものを「心」から「態度」へ変更しました。しかし、「心」はともかくとして、国を愛する「態度」は要求されるのですから、これは大きくその本質を変えるものではありません。「私は国を愛し、国のために戦います。」という言葉を学校で求められれば、心の中に抵抗感があっても、それを口に出して言う「態度」は強要されていくのです。
「愛する」の部分が既に「心」のあり方の問題であり、しかもそれを子どもたちは実際に「態度」で示さなければならないのです。これでは、何も変わっていないのではないでしょうか。
■ 「統治機構」は含まないと言うが
また、この表現に使われる「国」の意味として、与党は「(政府など」統治機構は含まない。」としていますが、実際の運用ではどうなるか分かったものではありません。
99年の国旗国歌法制定時も、政府は強制を否定していましたが、実際には教育現場で起立・敬礼が強制され、それに従わなかった200名余りの教職員が処分を受けています。
今度は、法律が「国を愛する態度」を子どもたちに求めるのであれば、子どもたちがこの強制の対象になり、それに従わない子供たちが処分の対象になるという危険性も考えなければなりません。
実際、最近の教科書検定では、首相をはじめ大臣の答弁や政府見解と異なる記述は全く認められませず、結果として、政府という「統治機構」の考えが色濃く反映された教科書になってしまっています。
■ 教育は国家のためか、子どもたちのためか
子どもたちに対してこのようなことを課そうとする与党の目的は一体何なのでしょうか。それを探るためには、「教育権」の歴史をたどる必要があります。
先の大戦まで、国家は公権力が学問の内容にまで介入し、徹底した教育の統制を行なってきました。このとき「教育を行なう権利」は国家にありました。国家が国家のために子どもたちに叩き込むその内容は、天皇への絶対的忠誠、そして「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。」すなわち、何かあれば天皇をお助けするために命を投げ出すことを迫る教育勅語を中心とするものでした。
しかし戦後、進められた「教育の民主化」により、現行の日本国憲法と教育基本法が制定され、国家から国民に「教育を行なう権利」を移し、とりわけ親に「子女に教育を受けさせる義務」を課すことによって、子どもたちに「教育を受ける権利」を保障したことは特筆すべきことです。
これにより、子どもたちは「権利主体」となり、それまでの「国家」や「天皇」、「家」のためではなく、教育は子どもたち自身のために行なうべきものとなったのですが、それを今、与党は再び「国家が国家のために行なうもの」に戻そうとしているのです。
■ 「戦争する国」づくりとの連動
こうした法改定を支持する発言もあります。「愛国心を教えることを否定する国など、日本以外にない。」とは読売の社説ですが、こうした主張は「愛国心」教育を必要とする国の大部分が軍隊を持ち、戦争に国民を動員しなくてはならない国だということを見逃しています。
いま教育基本法を変えようとする根本的な理由は、正にそこにあるのではないでしょうか。
一方で憲法を変えて「戦争する国」を作ろうとし、これと連動する形で教育基本法を変えて「戦争する人」を作ることこそ、この教育基本法改定の本質であり、これは国民にとって、特に子どもたちにとって「改悪」であると言わざるを得ません。
現実に、既に制定された有事法、とりわけ武力攻撃事態国民保護法に基づき、有事、すなわち戦争状態を想定し、千葉県などで小学生をも動員した訓練が行なわれるなど、この「改悪」を先取りした意識付けが行なわれています。
2002年には福岡市の小学校69校で、通知表の評価項目に「愛国心」を挙げ、子どもたちを競わせようとしました。
■ 「指導者」が「愛国心」を求めるとき
「愛国心」と言うと私は、ナチスを裁いたニュルンベルグ裁判での、ヘルマン・ゲーリングの言葉を思い出します。有名な言葉ですので、ご存知の方も多いと思いますが、あらためて紹介します。
「もちろん国民は戦争を欲しない。…(中略)…普通の人間たちが戦争を望まないのはあたりまえだ。…(中略)…しかし、結局のところ、政策を決定するのは指導者なのであり、…(中略)…声を上げるか無言かに関わりなくつねに、国民を指導者の命令に服させることができる。容易なことだ。国民には、攻撃を受けていると言ってやり、平和工作者たちは“愛国心”が欠けていて国家を危険にさらしていると非難しさえすればいい。いかなる国でも同様に、これでうまくいく。」
「9・11テロ」の後の米国の政権を見ても、現在の日本の政権を見ても、全く同じ手法が使われていることに、あらためて戦慄を覚えます。
国民の自発的な感情ではなく、「指導者」の側が国民に求める「愛国心」とは正にこういうことなのです。
ゲーリングは、「声を上げるか無言かに関わりなく」と言いましたが、しかし声を上げなければ何も変わりません。私は国民として、親として、声を上げ続けます。
大切な子どもたちの命を黙って差し出すことなど、絶対に出来ません。
自民・公明の両与党は12日、教育基本法の改定案に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度」という表記を盛り込むことで一致しました。
政府・与党はこれを受け、改定法案の今国会への提出を急ぐと報じられていますが、私はこのような改定に全面的に反対します。
■ 国家が子どもたちの「心」に踏み込む
まず、これまで行なわれてきた議論を振り返ってみますと、自民党は「国を愛する心」を主張し、これに対し公明党は「国のために死ね、とか、統治機構を愛せ、とかは言えない。」として、「国を大切にする心」を主張してきました。
しかし、これはどちらも「公教育の場で、国家が法律によって子供たちの『心』に踏み込む行為であり、許されない。」との批判を受けました。
この批判は当然のことです。憲法19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定めており、幼少期から国家が子どもたちの「心」を統制する行為は許されるものではありません。
■ 「心」から「態度」で、本質が変わったのか
今回、こうした批判をかわすため、与党は求めるものを「心」から「態度」へ変更しました。しかし、「心」はともかくとして、国を愛する「態度」は要求されるのですから、これは大きくその本質を変えるものではありません。「私は国を愛し、国のために戦います。」という言葉を学校で求められれば、心の中に抵抗感があっても、それを口に出して言う「態度」は強要されていくのです。
「愛する」の部分が既に「心」のあり方の問題であり、しかもそれを子どもたちは実際に「態度」で示さなければならないのです。これでは、何も変わっていないのではないでしょうか。
■ 「統治機構」は含まないと言うが
また、この表現に使われる「国」の意味として、与党は「(政府など」統治機構は含まない。」としていますが、実際の運用ではどうなるか分かったものではありません。
99年の国旗国歌法制定時も、政府は強制を否定していましたが、実際には教育現場で起立・敬礼が強制され、それに従わなかった200名余りの教職員が処分を受けています。
今度は、法律が「国を愛する態度」を子どもたちに求めるのであれば、子どもたちがこの強制の対象になり、それに従わない子供たちが処分の対象になるという危険性も考えなければなりません。
実際、最近の教科書検定では、首相をはじめ大臣の答弁や政府見解と異なる記述は全く認められませず、結果として、政府という「統治機構」の考えが色濃く反映された教科書になってしまっています。
■ 教育は国家のためか、子どもたちのためか
子どもたちに対してこのようなことを課そうとする与党の目的は一体何なのでしょうか。それを探るためには、「教育権」の歴史をたどる必要があります。
先の大戦まで、国家は公権力が学問の内容にまで介入し、徹底した教育の統制を行なってきました。このとき「教育を行なう権利」は国家にありました。国家が国家のために子どもたちに叩き込むその内容は、天皇への絶対的忠誠、そして「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。」すなわち、何かあれば天皇をお助けするために命を投げ出すことを迫る教育勅語を中心とするものでした。
しかし戦後、進められた「教育の民主化」により、現行の日本国憲法と教育基本法が制定され、国家から国民に「教育を行なう権利」を移し、とりわけ親に「子女に教育を受けさせる義務」を課すことによって、子どもたちに「教育を受ける権利」を保障したことは特筆すべきことです。
これにより、子どもたちは「権利主体」となり、それまでの「国家」や「天皇」、「家」のためではなく、教育は子どもたち自身のために行なうべきものとなったのですが、それを今、与党は再び「国家が国家のために行なうもの」に戻そうとしているのです。
■ 「戦争する国」づくりとの連動
こうした法改定を支持する発言もあります。「愛国心を教えることを否定する国など、日本以外にない。」とは読売の社説ですが、こうした主張は「愛国心」教育を必要とする国の大部分が軍隊を持ち、戦争に国民を動員しなくてはならない国だということを見逃しています。
いま教育基本法を変えようとする根本的な理由は、正にそこにあるのではないでしょうか。
一方で憲法を変えて「戦争する国」を作ろうとし、これと連動する形で教育基本法を変えて「戦争する人」を作ることこそ、この教育基本法改定の本質であり、これは国民にとって、特に子どもたちにとって「改悪」であると言わざるを得ません。
現実に、既に制定された有事法、とりわけ武力攻撃事態国民保護法に基づき、有事、すなわち戦争状態を想定し、千葉県などで小学生をも動員した訓練が行なわれるなど、この「改悪」を先取りした意識付けが行なわれています。
2002年には福岡市の小学校69校で、通知表の評価項目に「愛国心」を挙げ、子どもたちを競わせようとしました。
■ 「指導者」が「愛国心」を求めるとき
「愛国心」と言うと私は、ナチスを裁いたニュルンベルグ裁判での、ヘルマン・ゲーリングの言葉を思い出します。有名な言葉ですので、ご存知の方も多いと思いますが、あらためて紹介します。
「もちろん国民は戦争を欲しない。…(中略)…普通の人間たちが戦争を望まないのはあたりまえだ。…(中略)…しかし、結局のところ、政策を決定するのは指導者なのであり、…(中略)…声を上げるか無言かに関わりなくつねに、国民を指導者の命令に服させることができる。容易なことだ。国民には、攻撃を受けていると言ってやり、平和工作者たちは“愛国心”が欠けていて国家を危険にさらしていると非難しさえすればいい。いかなる国でも同様に、これでうまくいく。」
「9・11テロ」の後の米国の政権を見ても、現在の日本の政権を見ても、全く同じ手法が使われていることに、あらためて戦慄を覚えます。
国民の自発的な感情ではなく、「指導者」の側が国民に求める「愛国心」とは正にこういうことなのです。
ゲーリングは、「声を上げるか無言かに関わりなく」と言いましたが、しかし声を上げなければ何も変わりません。私は国民として、親として、声を上げ続けます。
大切な子どもたちの命を黙って差し出すことなど、絶対に出来ません。