恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

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将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

「二大政党」よ、その見苦しい政治姿勢を改めよ

2009年05月11日 | 国会・政党・選挙
 民主党の小沢一郎代表が11日、代表辞任を表明しました。
 民主党内でも、次期総選挙を「小沢代表では闘えない」という声が高まり、小沢氏は「挙党一致をより堅固に」するため、身を引くというのです。
 民主党議員は困惑しながらも内心ホッとしているようですが、私はこのような民主党に強い違和感をおぼえます。

■ 「泣き言」「無節操」「権力闘争」

 そもそも「小沢代表では闘えない」という言葉など、候補者たちの「泣き言」に過ぎません。
 少なくとも小沢氏の秘書が逮捕されるまで、自分の選挙区に小沢氏が来るといえば大喜びしていた人々が、今さら何を言っているのでしょうか。
 投票用紙に「小沢」と書くのは1選挙区の話であり、他の299選挙区で書いてもらうのは、あくまで自分の名前です。
 「小沢氏は嫌いだが、あなたには期待する」と言われるだけの人物になれば良いだけの話です。
 さらに、自分たちが選んだ代表に「NO」を突き付けるのであれば、それなりの場できちんと行うべきです。
 小沢氏の秘書逮捕から3週間後に開かれた緊急幹部会で、小沢氏が代表続投を表明したときは誰も反対せず、その後の両院議員による会合でも異論を唱えたのはわずか1人だけでした。
 幹部会、両院議員会の場で、ほぼ「挙党一致」で「続投」支持だった人々が、舌の根も乾かぬうちに声高に辞任を求めるなど、その「無節操」さにあきれるばかりです。
 まして、かつての「偽メール問題」で失脚した前原氏や野田氏らのグループの復権を狙った「権力闘争」の見苦しさには、吐き気さえおぼえます。

■ 民主党と自民党

 思えば、長く似たようなことをやってきた政党がありました。
 自民党です。
 最近だけを見ても、07年9月に福田康夫氏を総裁に担ぎ出しておきながら、すぐに「福田では闘えない」と「泣き言」をこぼし、福田政権の「投げ出し」を誘って、今度は福田氏に敗れた麻生太郎氏を担ぎ出し、つい先日まで「麻生では闘えない」として「麻生おろし」の大合唱でした。かと思えば、小沢氏の問題が起きた途端、その大合唱はピタリと止まるという「無節操」ぶりです。
 その間も、福田氏の前に政権を投げ出した安倍晋三氏がその復権を狙って活動したり、その前の小泉純一郎氏に近い人々が小泉氏の復活を模索したり、小池百合子氏らを担ぎ出そうとしたりと、慌ただしい「権力闘争」に明け暮れてきました。
 「権力」に近づいた民主党が、このような自民党に似てきたことを、つくづく実感させられます。

■ 「五十歩百歩」

 「選挙目当ての寄り合い所帯」「選挙互助会」という表現がある民主党も所詮、自民党同様、「国民」よりも「自分の権力」志向が優先される人々の集団なのでしょう。
 このような「二大政党」が多数を占めているからこそ、国民の「政治不信」や「政治離れ」が進んでいる、と言われるのではないでしょうか。
 思えば、麻生政権が発足した直後、読売新聞社と早稲田大学が共同で行った世論調査(10月4~5日)の結果の中には、次の結果がありました。

 これまでの、「自民党に満足」20%、「民主党に満足」17%
 これからの、「自民党に不安」82%、「民主党に不安」75%

 正に「五十歩百歩」です。
 この「二大政党」の内からどちらかを選べ、というのは国民にとって、あまりにも「酷」な話です。

■ 「自分」より「権力」より「国民」を見よ

 日本国憲法の前文には、こうあります。
 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」

 8割前後の国民が「不安」を感じる「二大政党」に、「国民の厳粛な信託」はあるでしょうか。
 「自分たちの権力」ばかりを志向する「二大政党」に、「(国政の)権威が国民に由来し」という意識はあるでしょうか。
 「政治を金で買う」問題ばかりを引き起こし、一部のお金持ちや大企業の利益ばかりを優先させていると言われる「二大政党」に、「(国政の)福利は国民がこれを享受する」という意識はあるのでしょうか。

 前文は、「これは人類普遍の原理」だと説いています。
 この「二大政党」に対し、この「人類普遍の原理」を読み直し、「その見苦しい政治姿勢を改めよ」、そして「国民を見よ」と求めるのは、「酷」なことなのでしょうか。


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