まぬ家ごめ助

姓はまぬけ、名はごめすけ、合わせて、「まぬ家ごめ助」と申します。どうぞお見知りおきを。

酔って酔って、何を言いたいのかわからなくなってきた、そんな夜に(そろそろ寝night パート2)

2014-08-06 02:03:44 | 日記
日本野鳥の会が発行している「Toriino」というフリーペーパーを愛読しています。定期的に読んでいるわけではありませんが、どういうわけかよく道の駅に置いてあるので、見かければ必ず手にします。そうして、この小雑誌の中で、藤原新也さんが、小保方晴子さんを映したさん写真と、撮影時の彼女の印象についての文を掲載していました。とても秀逸でした。もちろん写真も文章も。そういえば、それ以前の、孤独死にまつわる記事も心に残っています。さすが藤原さんだと思いました。

「Number PLUS(ブラジルW杯総集編)」の中で、奥田英朗さんのエッセイに出会いました。タイトルは「サッカーで強くなるために国民性を変えられますか?」。興味深い考察だと思いました。勝手に話を飛躍させてしまいますが、日本の国技が相撲だというのは実に象徴的なことなのかもしれません。ま、柔道や剣道にしてもそうだし、おそらくわかりやすい例で言えば、高校野球もそう。つまり何が言いたいのかというと、日本人の国民性かな。謙虚さ、潔さ、協調性。資質として、生まれながらにして、もともと備わっているものなのかもしれない、と。対して英国には階級社会があるから、ゴルフ、テニス、ポロ、競馬などとの対比が生ずるんだろうな、と。

日本には寛容的な国民性がある、とも思う。むろんその一方で、島国であり、村社会でもあるから、排他的な国民性もある。本物の言葉を持った人に出会いさえすれば、しっかりと本質を見極めることが出来るようになる、ことが多いのではないか。八百長疑惑が面白いわけがありません。否、その面白さは認めます。裏の記事の重要性、必要性もわかります。でもそれは、何事においても物事には表と裏がある、ということが前提にないと。誰だって、叩けば多少の埃は出るし、弱みもある。だからこそ、低い方にだけ流れてはいけない。だってそれは、驕りでしかないのだから。

批判するのは簡単。けれどもそれは、そういう自分はどうなのだ、という視点が欠けていてはならない。その刃が自分を貫く覚悟がないと。お釈迦様だって、ブッダになる以前は悩んだんだぜ。思考錯誤をしたのだよ。もっと、寛容になろうよ。わかりやすく、白黒つけるのはやめようよ。もっと迷って、もっと楽しもうよ。人にやさしく、してもらえないからなのかい?


「Sad-Eyed Lady Of The Lowlands」Joan Baez
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