極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

里山資本主義で経済成長 Ⅰ

2014年04月01日 | 政策論

 

 

 1999.09 

【アベノミクス第三の矢 僕ならこうするぞ!】 

 
●『異形の心的現象』を二度読む

  2009.11.25

同じ本を二度読み返しブログ掲載する体験を初めてしている。 はじめてとりあげたのは 『鮟鱇
と統合失調症時代』での【統合失調症の時代とは】であり、それは「心の危機」社会がどのよう
に到来したかを内省するために
行ったものだ。こんかいは、【アベノミクス第三の矢 僕ならこ
うするぞ!】をテーマを深耕し、流布されている言説とは異なった視点から「成熟期の "経済成
" 」政策を模索するために行う。従って、前回とは異なり簡単に言えば、より質を重視の読み
しを行う。尚、ここで記載してある、アルファベット文字の「Q」は森山公夫、「A」は吉本
明の同上共書である『異形の心的現象』から補章1の「僕のメンタルヘルス」の発言箇所を
している。

●『心的現象論序説』における「心」と「精神」

Q:『心的現象論序説』(北洋社、1971年9月刊/角川文庫版、1982年3月刊)では、
  「精神」と「心」を
どう分けて使っていたのでしょうか?
A:
「精神」というのは人間の内面的なものを全体的に含めて言うときと、感覚、感性に関与
  
する部分だけを「精神」と言っている場合があります。そして、「心」という場合は、こ
  の人は心
の中でこう思っているかもしれないということも含めて、コミュニケーションの
  問題を二次的に
して言う場合には「心」と表現しています。つまり「どう思っているか」
  ということを中心にして
いる場合は「心」を用いています。

Q:「心の危機」という問題は、吉本さんにとってはどういうことになるのでしょうか。
A:森山さんが専門とされている精神医療の臨床現場で、実際に治療にあたっているときには、
  「心のケアをしている」というように使っていると思うのですけれど、インターネットな
  どでコミュニケーションが便利になったときには「精神」という言葉の意味は怪しいと思
  いますね。確定的に使い分けている訳ではないのですが、「精神」と言っておいて、「心
  」も含めた全体を「精神」と言っているときと、それから「心」と「精神」とは違うのだ、
  と自分で
わざと分けて使っている場合もあります。コミュニケーションも含めた感覚の問
  題に関するもの、目とか感覚器官に
関するものを「精神」と言って、そういうときは「心」
  というのは別なのだと考えています。森山
さんが専門とされている治療のときの「心」と
  は分けて使っていて、曖昧じゃないかというと、
そうでもなくて、自分でも曖昧なのは、
  全部含めて「精神」というときもあるからなのです。

  つまり今の社会が病んでいるから、「精神」も歪むのだという問題も入ってくるし、それ
  こそ家族の問題で、この家族は、母親・父親・子どもの関係にこういう歪みがあるから、
  必ず家族の誰かに「精神」の悩みが入ってくるのだというふうに使うこともある。それか

  ら森山さんの専門とされる臨床現場で、この人の「心」が異常であるとか、病気であると
  かというときだけ「心」を使い分けているときがあるのです。また、「精神」というのは、
  感覚とコミュニケーションに関する精神の一部を「精神」と言って、「心」はまた別だと
  使い分けているときもあります。「ギリシャ、ローマ時代から心は発達していないのだ」
  と言
うときには、「心」と分けているときと、「精神」に全部人れてしまっているときが
  ありますから、自分
でも曖昧なときがあります。

●「心の危機」と労働の変質

Q:僕らもとにかく曖昧に使っています,それこそ同じギリシャ語の「プシュケー」からきて
  いる言葉でも、Psychiatry(サイカイアトリー)は「精神医学」と訳すし、psychology(
   
サイコロジー)は「心理学」と訳すという根本的曖昧さから僕らはまだ脱却できていませ
  ん。まだこの領域では、本当の意昧での学問的自立ができてないぞ、ということかもしれ
  ません。これからは厳密にしていかないといけないと思います。ところで、現代は「心の
  危機」というふうに言われており、私流に言いますと、乱暴な言い方ですが、1995年
  からその「心の危機」が顕在化したということになります。95年というのはご存じのよ
  うに一月に阪神・淡路大震災があって、その後、PTSDという今まで日本では使われな
  かった言葉が使われはじめました。これは「心的外傷後ストレス障害」で、つまり震災と
  か心的な外傷があったしばらく後にいろんな症状が出てくるというアメリカから入ってき
  た言葉ですが、これが被災者の心の問題として非常に流行ってきました。私の仲間もボラ
  ンティアとして現地に行ったりしました。その後、三月にオウム真理教徒の地下鉄サリン
  事件があって、僕らは愕然としました。ですが、考えてみれば、こうした現象の根はもと
  もとバブル時代にあり、さらにさかのぽれば1970年代という、吉本さんの言われる高
  度消費社会のはじまりとも関係してくるかと思います。
  いずれにしても青少年をはじめ、中高年、老人にいたるまで、「心の危機」というのが今、
  顕在化しているわけですが、吉本さんに現代の「心の危機」の特徴について、なぜそうな
  のかを語っていただければと思うのですが。
A:僕は精神というのは、人間の内面性全体というふうに言った場合に、僕の考え方で一番都
  合がいいのは、時代の社会構造、もっと限定して産業構造でもよろしいかと思いますけど、
  その変化とそれが人間の精神構造にどう影響するかという問題、次に家族の在り方が人間
    の心とか精神全体の問題とどう関係するのかという問題、そしてもう一つ、森山さんが臨
  床的にやられているように、一人一人の人間に対応している問題で、「ちょっとこの人は
  おかしいのではないか」とか「この人のこういう振る舞いは異常ではないか」ということ
  と、三つに分けて考えると、それが一番考え易いものですから、その三つがそれぞれ違っ
  た原因によるのだろうと思いますね。社会構造の変化が人間の精神の全体的な現象に対し
  て、犯罪やあらゆる事象も含めて、どう影響するのか、ということを初めに考えます。そ
  れは僕の言い方からしますと、第三次産業の問題であると言えます。例えば、一労働時間
  で10個の製品が作れたとします。それなら100個作るには10労働時間でいいと、製
  造業(工業)でしたら生産物ははっきりとしています。各時代の社会病というのは、初め
  はマルクス達が説いたように無理して働かせられたから肺結核がロンドンで流行った、そ
  れが職業病の始まりだと言うことができます。そのことは『イギリスにおける労働者階級
  の状態』でエングルスが詳細に語っています。今は何か違うのかと言ったら、第三次産業
  と言われている仕事は、一労働時間に10個の製品ができたのだから10時間働いたら百
  個できるはずだとはいかなくて、自分がいくつ作ったか、何をどう作ったかということが
  よく解らない、とにかく一日八時間働いたということしか意識できない。八時間働けば一
  労働時間の生産高が八倍になっていると意識できるのは、重工業や軽工業などの製造業ま
  でであって、今日のようにパソコンのような装置を使って働くようになると意識できない
  と思うのです。教育や医療も第三次産業の労働とすると、僕が知っている統計ではだいた
  い働く人の60~70%は第三次産業に就業していることになります。日本もアメリカも、
  欧州の先進国も同様ですが、第三次産業で働く人が多くなっているということは、これだ
  け働いたから、これだけ製品ができたということが、目に見える形で働く人には解らなく
  なっているということです。そのことが非常に重要で、つまり、精神の病いが現在の産業
  病といいますか、公害病になっていると言えます。そのことから類推すると、潜在的には
  膨大な数の人が精神の病いに陥っていると考えられるわけですね。
   第三次産業で働く人が働く人の60~70%を占めているということは、精神の病いや
  異常が病気全体のうち、60~70%を占めているだろうと、大雑把に理解するわけです。
  実際問題医療にかからない人が潜在化して解らないかも知れないけど、正確な数は解らな
  いとしても、大体そういうはずだと理解できます。
   例えば、現在問題になっている例で言いますと、政治家など社会性を帯びた場で働く人
  たちがいて、どういう問題が起こっているかと言うと、今日もテレビや新聞で盛んにやっ
  ていましたが、代議士秘書の給与を事務所で使ってしまったという問題ですね。追及され
  るべきことが党派的な追及のされ方になっていて、いたちごっこですね。正常な判断をし
  ますと、そんなことは政治の問題ではないと思いますね。
   社会習慣として考えると、私的に流用した、とは必ずしも言えないと思えますし、本来
  的に言えば、秘書が50万円の給与があるはずなのに、45万円は事務所で使って、5万
  円だけを渡していたという問題が与野党の政治家の間に出てきているわけですけど、そう
  いうことは当事者が納得すればいい問題であって、これは税金だろうが、何だろうがそれ
  で済む問題だと僕は思いますね。
   例えば、税金だから公の問題だというのは成り立たないわけで、私企業の給料だって、
  その中に幾分かは税金の分とか、公的資金が入っているかもしれないですから。
   要するに当事者が納得すればいいのだ、という問題であって、額の大小はあるでしょう
  けれども、当事者が文句を言わなければ、あるいは告発しなければそれで済むわけだし、
  了解していたのだったら、今さらそういうことを言ってもしょうがないと思います。文句
  を言われるとすれば、書類を上手く作ってあるかないかということだけであって、それは
  政治の問題でも何でもないのに、それが政治の問題になっている。
   そうすると、今度はテレビ、新聞などのジャーナリズムが問題にして、そこに登場する
  キャスターとか専門家や弁護士さん達が「けしからんのだ」と文句を言い始めたりする。
  僕の常識から言うと「それは病気だよ」と思うのです。そんなことを追及する方が病気だ
  と思う。「そんなことは当事者の問題だよ」と考えるのが正常な判断で、「そんなことを
  追求しているのはみんな病気だよ」というと、そうするとほとんどの人が病気になってし
  まう。
   僕が言いたいのは、第三次産業で働く人たちが「精神の病いや異常」に陥っているのだ
  から、そういう病気が公害病になるというのは本当なのだ、当然のことなのだと言えば済
  んでしまうのですが、病いに陥った世論が登場してくると、多くの人の判断が病気になっ
  てしまうのですね。
   感染するのか、あるいは共感するのか、そこは分かりませんが、こういう状態を全部病
  気だと判断すると、病気でない、という方が少なくなってしまうのではないかと思います
    ね。つまり、精神の病気にかかっていない方が少ないということになる。国民の大部分が
  病気だということになってしまう気がするのです。そこが分からないのです。
   そうだとすると、治療することはできない、ということになる。少なくとも専門家とか
  医療に携わっている人達の問題ではなくて、社会問題になってしまいます。そうしますと
  これを治すのはほとんど不可能であるということになりますから、これは一体どういうこ
  となのか判断のしようがない、分からないということになりますね。
   全てを告発して、裁いたり、マルクス流に「革命だ!」と言って、全部ひっくり返しち
  やえと考えると、なるほど考え方だけはすっきりしてよろしいと思うけれど、それが不可
  能であるといっていいくらいにロシアの実験が崩壊したばかりのところで、そんなにスッ
  キリする解決法などないのだ、ということになる。                                               
                                                  

確かに、第三次産業の占める割合を見ていくとそうなるが、三次産業の実質生産額の構成をみる
と(1)商業・金融→(2)医療・教育→(3)対事業所→(4)知識・情報→(5)生活関連
→(6)運輸→(7)公務→(8)通信の順に占めているが、2025年には医療・教育が第2位ま
で上昇すると予測されているが、それぞれを事業として見た場合、営利事業の根幹をなす、「売
上高」×「利益率」(あるいは資本回転率)を除く、各サービス事業の個別・独自の "中核価値”
の確立形成の有無が大変重要になるのではとわした(たち)は考えている。わかりやすい例とし
て、有名大学合格者数をパラメータに予備校事業の成長度(あるいは活性度)を毎年計測すると
か多種多様に考案していくことが事業成長には大切だろう。そのヒントになる書物として、藻谷
浩介らの『里山資本主義ー日本経済は「安心の原理」で動く』ある。そのキャッチコピーを参考
に「誰も行かないとことに『宝』あり」「小売りの常識を疑え」「百点主義でなく六〇点商法で
行け」「マネーに依存しないサブシステム」「マッチョな二〇世紀からしなやかな二一世紀」「
不安・不満・不信に訣別を―日本の本当の危機・少子化」を掲載しておく。

  2013.07


尚、ここでいう「対事業所」とは、卸売業、倉庫業、貨物運送業、修理業など、生産物の流通、
保管、修理のように生産物と強いかかわりをもつサービス業と、銀行・信託業、証券・商品取引業、
リース・レンタル業、調査・情報サービス、広告業など、生産物とのかかわりはあまりなく、独自
のサービスを提供するサービス業とに分かれる。


●不健康の社会的典型

Q:例えばバブルの時代に、多くの人たちが銀行からお金をどんどん借りて株を買ったり、不
  動産投機に走ったりしたのですね。そのときもまた、みんな病気だったということになり
  ますね。
A:そうなのです。病気の定義ですけど、多勢の人がある範暗にいれば正常で、少なければ病
    気だ、というのでしたら簡単ですけれど、そうではなくて病気の本質はどうなのだと言い
    出すと難しいのです。バブルの時代でしたら、お金を沢山使って、いい加減な使い方でも
    大雑把な儲け方ができた、土地を転がしただけで儲かった時代です。でも、そういうのは
    おかしいじゃないかと言うと、それはあからさまに言えば、その業種に携わっている者だ
    けが罹っている病気が、社会全般に拡がっているのでしたら、社会全般が目に見える形で
    精神的に異常だ、病気だ、と判断できたと思うのです。今は逆になっていて、むしろ追及
    する人の方が病気だと僕には思えるのです。
   僕はいつでも少数派ですけれども、僕にはどうしてもそのように思えて仕方がないので
  す。追及する人の仕方も病気だし、そういう世論を作ってしまう知識人や専門家、テレビ
  やマスコミに出てくる人も、病気じゃないかとすると、それに影響されて「そうだ、そう
  だ」という世論の方も病気だと思えますね。
   病気が裏返ったと言いましょうか、裏が表になって、表が裏になったとしたらどうすれ
  ばいいのか、僕なりに考えたりするのですけれど、分からないのです。

Q:僕はそういう意味では、吉本さんもおっしゃったように、人類というのはずっと病気で動
  いてきたように思うのです。例えば経済も一種の病気で動いてきていて、好況になると必
  ず過熱して、不況になると今度は縮こまりすぎてしまう。それを批判する側も、大多数は
  病気から免れていなかった、と思えるのです。
A:僕は森山さんが言うように、そういう考え方をした方がいいと思いますし、スッキリする
  のじゃないかと思うのです。そう考えなくても、個々のことにかかずらわっているとかな
  わないし、何やかやと言っている方はみんな病気だと思わなければならないから、やりき
  れないという感じになります。これをどうすればいいか、どう考えればいいか、どう解決
  すべきなのか解らないですね。
   社会的、精神的な健康ということから考えると、不健康の社会的典型というふうに僕は
  思っているのですけど、世論とか普通の人は逆に思っているかもしれない。そこは見解の
  分かれるところで仕方がないと思っています。

●家族の不健康とは

A:家族の問題というのも、一番大きな原因は何かと言うと、これは簡単なことで社会的な問
  題と同じですね。ひとつだけ言えば、親と子の感覚からいうと、精神内容ということでし
  ょうか。精神内容が正常よりもまるで懸け離れてしまっているというのが、家族的な意味
  での病気の原因ではないのかなという気がするのです。つまり親と子の関係を考えると、
  親の考え方と子どもの考え方、感じ方というのが非常に違っているということです。
   どうしてそうなのかというと、今、急速に社会構造の転換が行われているときですから、
  歳を取った人の考え方と若い人の感覚的な、無意識な考え方とが非常に懸け離れてしまっ
  ています。懸け離れてしまったということが精神的な不健康という問題になるのではない
  かと思うのですね。
   それではどこに問題の原因があるのかというと、一つは、社会的な大転換ということで
  すね。現実的な状況の大転換が非常に急速です。潜在的な原因があって、それが顕在化し
  た原因の一つは親子の距離感の拡張からくる問題です。
   親が子を殺したり、子が親を殺したりということが起こるのはなぜかという原因を求め
  るとすれば、それは母親と子どもの関係が一歳未満のところまでに、相当大きな違和感と
  か潜在的な対立感、恐怖感に浸蝕されていて、それが正常な神経をしている社会よりも非
  常に大きくなってしまっているのが原因ではないかと考えています。
   そう考えると、どこにも歪みのない家族なんてないよ、ということになるわけです。そ
  の場合の、典型的な歪みのない親子関係というのはどういう親子関係なのかということを
  考えると、これは僕の実感ですから普遍性はないかもしれないけれど、僕の子どもの場合、
  赤ん坊のときから三歳位まででしたら自分と子どものどちらかが死ななければならない必
  要があったとしたら、無条件に僕の方が命を亡くしてもいいや、と思えたような気がする
  のです。これが歪みのない親子関係ではないかと思います。ですけど、三歳位を過ぎて学
  童期に近くなっていくと、その成長過程で子どもの方にもやや独立的な自覚心が生じてく
  ると、「-生意気だ」とか「面白くない」ということが僕の中に出てくるのです。
   それ以前でしたら僕は、無条件的に「可愛いな」とか「無条件にこの子に代わってもい
  いな」と思っているのですけど、少しでも自覚的なものが出てきた四歳か五歳位から上に
  なってくると、「生意気でしょうがない」「わがままでけしからん」と怒りたくなったり、
  僕はしたことはないですけど、殴りたくもなるのです。つまり、必ず違和感が生じてきて、
  思春期になると手に負えなくなってくる。正面衝突したら駄目だ、ずらすように意識的に
  考えないと駄目だ、と思うようになりましたね。

   
                     -中略-

  
 家族関係の問題というのは、社会関係の問題よりも健康なのか、不健康なのかというこ
  とを考えると、僕は、社会が不健康なら家族関係も不健康にしておけば、平穏無事だと考
  えるのですが、そういう理屈になりますね(笑)。家族関係を無理に健康にしようと思っ
  ても、これはいけませんね。社会が不健康なのに家族関係を健康にしようとしても駄目
  と思った方がいいですね。

●社会関係の不健康・・・市民病という名の病気


A:そうすると、結局個人の問題になってくる。それは森山さんの専門の問題になってきます
  ね。そしてこれは専門家に任せるということが第一の問題だということになってきます。
   ここで問題なのは、例えば、テレビを見ていると、ひきこもり症の人をインターネット
  で集めて、話し合いの場を作ってやっているのです。元スーパーの店長だったという素人
  の方が志でそうしたことをやってテレビに出てくるのですね。僕はそういうのを見ると、
  この人はおかしいな、やっぱり病気だなと思うのです。スーパーの店長をしている人だっ
  たら、まず万引きをどう防ぐとか、製品をどう並べると一番売れるとか、そういうことの
  専門家ですから、そういうことをやればいいのに、ひきこもり症の人を集めて話し合いの
  場を作るというのは、素人がやることではないと思うのです。素人がそうしたことをやる
  と必ず間違えますよ、という感じがしますから、森山さんのような専門家は素人がそうい
  うことをしているのをどう理解するのかな、と思いますが。
Q:今は転換期ですから、個人の病気もいろいろ新しい形をとってきます。すると専門家もけ
  っこう戸惑うことが多いのです。そこで多少経験のある素人が出てきて、「専門家はいら
  ない」ということになる場合が多々あります。実際、素人がやったことは比較的上手くや
  っているように見えるようなところもあって判断が難しいのです。確かに素人がやってい
  ると、上手くいったように見えるときがあって、そうすると周りももてはやすし、乗って
  しまうところがあるのですけれども、やっぱり専門家がそこに入らないと駄目ではないか
  と思うのです。ただ問題は結構専門家にも駄目な人がいて、時流を無視したり、逆にまた
  それに乗りすぎたりして、混乱を強めてしまうことがあって難しいのですね。
A:本当にそういうケースが出てくるのです。そうすると、やっぱりおやおやという感じにな
  って、「スーパーの店長をやっていればいいじやないか」と思ってしまうのです。これも
  社会の影響とか、マスコミの影響とか、コミュニケーションが便利になった影響で、素人
  でもこうすればいいのではないかとつい思えてやってしまうのではないかと思いますね。
Q:ご自分でも引きこもった経験があるとか、そういう方なのでしょうね。
A:そうなんでしょうね。大なり小なり専門家とどう違うんだ、程度の問題たというならそれ
  でもいいのですけど。僕は野次馬になって見たり間いたりしていると、何てことをしてい
  るのだという感じになるのですね。つまり、それは社会的な病気がうつったのじゃないか
  という気がしてしょうがないのです。今の社会的な病気がうつってそうなってしまったの
  じゃないかと思えるのですね。テレビを見ていて、これは良くないな、こうした方がいい
  な、と思っているうちはいいですけど、自分がやり出すというのは病気ですね。それはマ
  スコミの世論形成とか、世論操作に影響されたり、識者の姿を自分に投影させてそういう
  ことをしたくなってしまったというのは、これは病気ではないかと思えてしまうのですね。
   どうしてかと言うと、その場で上手くいったように見えると、もうこれでいいんだ、と
  すぐに結論を出してしまうのは素人の特徴ですから、そういうことをするのは病気なのだ、
  社会的な病気がうつっているのだ、と思えて仕方がないのですね。
   そういう違和感はたくさん起こるわけです。僕は真面目に考えるとイライラしちゃうと
  いうケースが無数にあって、それも社会的な病気だから仕方がないと思えばそれまでなん
  ですが、最近イライラする場面が凄く多くなっていて、ことごとく社会的病気がうつって
  いるのではないかと思えてしまうのですね。
   例えば、この間、東海村の原子力発電所のウラン加工会社Tco)の放射能が漏れて、
  近辺には退避しろと緊急避難命令が出て、放射線を浴びた人が病気になって亡くなってし
  まうという事故が起きました。この事故は原子力発電所を管理している人の問題で、もう
  少し指示を厳密にしておけば良かったという問題だと思うのですが、事放現場にいあわせ
  た人が放射線を浴びて、社会的問題になってしまう場合でも、近所の人は広島の原爆のよ
  うに永続的に放射能が残留するということにならなかったので難しく考えなかった。
   僕はいささか心得があるのですが、戦争中に学徒動員に行っていて、そのときに実験的
  なことから中間的な装置を作るという作業をやっていたのですね。そのときに、東海村の
  原子力発電所の事故と同じようなことがあったのです。もう時効だからいいですけど、ロ
  ケットの研究で、電気分解するだけなのですが、片方の電極の方に過酸化水素ができるよ
  うにして、片方から水素や酸素が発生して水が分解している。片方に過酸化水素が必要で
  すから、それを一極に集めて濃縮しまして、今も使っているロケットの燃料の酸化物燃料
  を作っていたのですね。片方に還元剤のヒドラジンというのを使って、それと一緒に噴射
  させればロケットの一番簡単で害がない燃料ができるわけですが、その過酸化水素を作る
  作業をしていたのです。
   ところが水を酸性にしておいて電極を刺せば必ず過酸化水素が濃縮されてくるわけで、
  簡慨ですけど、その電気分解で移動し易いように、フッ化水素を添加剤で少しだけ入れる
  のです。そうするとフッ化水素というのは、皮膚を侵す、特に爪についている皮膚を侵し
  ます。ですから原則としてゴム手袋をはめて操作するということになっているのです。
   ゴム手袋というのは、今の手術用の薄いゴム製の手袋だったらいいですけど、その頃は
  指先が動きもしないような厚いゴム手袋なのですね。こんなものつけては作業ができない
  ので、ゴム手袋を取って操作するわけです。そうして作業が終わったら丁寧に石鹸を付け
  て何回も手を洗って、フッ化水素を落としたつもりになるのですけど、夜になって皆が寝
  静まった頃に爪と皮膚の間にフッ化水素がくっ付いていて皮膚を侵すのです。そうすると
  指先が疼き出すんですね。夜は痛くて痛くてよく眠れないのです。しかたがないので、我
  慢して軟膏を付けて絆創膏を貼ってまた翌日同じことをするわけです。
   そうしていると、安い電極を発明したという教授が時々東京から見回りにやって東て、
  「何をやっているんだ、その手は」と言うから、実はこうなんですと言うと、「お前、こ
  ういう作業はゴム手袋をはめてやることになっているじゃないか」と言うわけです。僕ら
  も「それは解っているけど、それでは操作できないんだ。手は完全に洗ったというくらい
  何回も何回も石鹸で洗って、大丈夫だと思っても夜になると指先が疼き出すんです」と言
  うのですが、「それでは駄目だ」と言うだけで埓があかない。自分がやったことないから
  そんなこと言っているだけなので、いくら言ってもしょうがないし、倹らも教授の指示に
  従わないで手袋を付けないで作業して、夜になるとまた疼き出すのを我慢していましたが、
  しまいに指先が腫れてくるのですね。
   僕は東海村の事故でも、「バケツなんか使って」と言われていましたけれど、バケツを
  使おうが何を使おうがいっこうに差し支えないんで、それは正しい方法ではないけれど、
  できるだけ短時間で片が付くように操作して、ということをよくよく注意して作業してい
  たら良かったと思うのです。
   世論的に言えば、多分、バケツを使っていたことがいけないのだ、ということになると
  思うのです。本当のことを言えば二.それは違うよ」と僕は思いましたね。
   もの凄く注意して作業すればどうやってもいいから、と充分に注意することを教えてお
  いたらそれで十分たったはずです。そのことをきちんと守っていたら良かったと思うので
  す。問題の原因がそこに行かないで、作業手順を守らないで「バケツなんか使っていたか
  らだ」というようになってしまうと、それは違うと思います。
   公的資金の一部である秘書の金を流用したのは犯罪か、というのと同じで、二人が了解
  すればいい問題なのに、理由付けが常識的でなくなったところで了解がついてしまうとい
  うのは、病気だと僕には思えますね。そういうことは以前にはそれほど思わなかったので
  すけど、最近やたらと出てきたのでそう思うようになったのですね。
Q:以前には思わなかったのは、それ程問題がなかったからなのでしょうか、それともそうい
  うふうに見る目が違ってきたからなのでしょうか?
A:要するに、情報が少なかったですから、大したことではなかったのだろうと思っていたわ
  けですね。情報が欠落していたということが主要な原因だと思うのです。初めからちゃん
  と言っておいてくれたら見当を付けるし、危険なことが分かっていたってゴム手袋をはめ
  ては作業ができないから、仕方なしに手袋を脱いで作業して、よく手を洗ったつもりでも
  駄目だったという経験がありましたから、危険な作業だから何を使ってもいいけど短時間
  で済ますようによくよく注意して作業するように、と上司の人が厳しく討えば良かったと
  思うのです。そこの問題だと思うのです。バケツじゃいけないと言われても、それでは仕
  事にならないと思いますね。
Q:素人的な意見の危険さということになるのでしょうか?
A:そうですね。「うっかりすると死ぬからな」と言っておかないと駄目ですね。そこの注意
  が大雑把過ぎたのではないかなというのが、僕の考える原因ですね。
Q:最近、そういうことがたくさん出てくるのですね。例えば、オウム真理数の人がどこかの
  村か町でアパートを借りて住もうとしたら、住民が排斥して追い出したりするので、それ
  は不当だと、僕は思うわけです。つまり、誰にだって住む権利はあるわけだし、その人が
  犯罪を犯したというならその街にはいないわけですから、犯罪には直接関係ない、ただ同
  じ仲間だったというだけだと思うわけです。それだけでどうして排斥するのだ、おかしい
  じゃないかということになりますね。もっと旨うなら、排斥するのは、彼らの人権を侵し
  たことになる、となりますけど、世論はそうではなくて、オウムの排斥は当然のことのよ
  うになっています.僕は、それはおかしいじゃないか、市民的病気だよ、と判断するわけ
  です。ですけど、反論されたことがあって、「そんなこと言うけど、吉本さんの家の隣の
  お寺に原子力発電所を作るって言ったら反対しないですか?」って言うから、「反対しな
  いよ、僕は」、「反対の人たちは引っ越しの費用を出させて、適当な所に引っ越して、そ
  う思わない人はそのままそこにいる、それでいいじゃないか」と言ったら、また突っ込ま
  れて、「それなら、隣にヤクザの事務所が引っ越して来たのと、普通の人が引っ越して来
  たのと気持ちは同じですか?」と聞いてくるから、「それは違うなあ」ということになっ
  たので、言い様がなくなって、何となく怖がるのもごもっともだと思ったりしましたよ。
  でも、ちょっとおかしいと思うのですけど、もっともなところもあるので、一転、これは
  
どう考えたら良いか引っ掛かって考え込みまして、今もすっきりしないのですが。
A:まさに市民病と同じですね。
Q:そうなのですよ。そういう問題について、何か良い解決法はないでしょうか。
A:それこそ、そういうことをお聞きしたいと思ったのですが。私は、人類はある意味では病
  気で動いてきたのじゃないかと思うのですが……。
Q:精神的な病気というのはだんだん、重くなりつつあるのですか? 文明の発達というのは、
  精神的な病気を大きくするのですか?
A:どうなのでしょうか。僕は個人の病気とか精神的危機を「自明性のゆらぎ・喪失」という
  視点からとらえようという考えなのです。僕の理解ですと病気自体は軽くなってきている
  けれど、拡がっているという感じですね。それこそ浮遊する病気というか、病気も浮遊し
  ているという感じで、しっかり治りきるというのはなかなか難しいなと思いますね。

 
                                                     『異形の心的現象』pp.152-170
                         

ここでは、電気分解での過酸化水素除去剤のフッ酸との炎症体験を交え"市民病"の特徴を語って
いるが、偶然にもわたしガラスおよびシリコンの腐食用フッ酸の取り扱う研究開発や生産技術業
務の経験が長く、あらためて、文学・哲学領域以外でも共通点があったことになにがしか運命め
いたものを感じなくはないが、ここではそれは置いておくとして、"市民病"ということによる市
民側の過剰反応とみる感じ方とは微妙な差がある。逆に言えば、そういう警戒心は"市民”だけ
でなく"農民”でも起こりうるし(これは蛇足)、事実、福島第一原発事故や高圧送電線での小
児癌(白血病)疾病などもあるわけで、原理的な考え方は理解できるが、経験量からいってもた
ぶん私の比ではないだろうし、そうだから言うのではなく、十把一絡げに扱えるものではなく、
是々非々が正論だろう。尚、黄色の背景色の部分は同意する。


※ フッ化水素(フッ酸はフッ化水素の水溶液)の安全性データシート(参考)
                                
                                    この項つづく


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