極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

墨子のノーズマスク

2013年02月06日 | WE商品開発


 

 

【ノーズマスクに期待すること】

まだ例年だと花粉による鼻炎症状が、といってもそんなに酷くはないのだが、ことしは中国の
大気汚染
の影響かどうかしらないが、でている。そこで、バイオインターナショナルから販売
されているノーズ・マス
ク、つまり、鼻栓を早速調べてみたが、ネット上では試用体験のブロ
グで効果有りとする報告がなされてもいるものの、特許
データだけではその被検データや疫学
的データなど詳しいものはなく明確には言い切れない。
 

 

【符号の説明】
1 保持軸フレーム 1a 鍔部 1b 薄肉板部 2 上カバー 2a 通気用切欠部 3 鼻汁吸収部材 3' 空
気清浄フィルター 4 下カバー 4a 通気用穴 5 鼻孔 6 鼻前庭部 7 鼻中隔 8 鼻腔 NC 鼻栓(鼻
汁吸収用) NC' 鼻栓(空気清浄用)

※ 特開2009-297508 鼻栓 バイオインターナショナル株式会社

期待していることは、メガネを掛けたままマスクすると水蒸気で白濁してしまうことなのだが
ノーズマスクとマウスマスクのセパレート方式で販売されるとよいのだが(おっと、これは新
規考案となるけれど、そんなこと委細構わず書くけれど)、マウス部位用のマスクの工夫でこ
の問題はケリが付くだろと考えている。もう少し様子をみて酷くなれば購入試着してみよと思
う(マウスマスクは既存のマスクで試用する)。

 


【兼愛 あなたがその気になれば実行できる】



              抑以為難面不可為邪、嘗有難此而
             可為者。昔荊霊正好小腰。当霊王之
             時、荊国之士、飯不踰乎一、固拠而
             後興、扶垣而後行。故約食為甚難為
             也。然衆為而霊正説之、未喩於世而
             民可移也。即求以郷其上也。昔者越
             王勾践好勇。教其士臣三年、以其知
             為米足以知之也。焚内失火、鼓而進
             之。其士仮前列、伏水火而死者不可
             勝敗。当此之時、不鉄而不退也。越
             国之士、可訓額矣。故焚身為甚難為
             也。然衆為而越正説之、未喩於世而
             民可移也。即求以郷上也。昔者晋文
             公好茲服。当文公之時、晋国之士、
             大布之衣、洋羊之表、練帛之冠、且
             貧之履、人見文公、出以践之朝。故
             貧服為甚難為也。然衆為而文公説之、
             未決於世、面民可移也。即求以郷其
             上也。是故約食焚身荷服、此天下之
             至難為也。然衆為面上説之、未決於
             世面民可移也。何故也。即求以郷其
             上世。
              今若夫兼相愛交相利、此其有利且
             易為也、不可膀計也。我以為則無有
             上説之考面己矣。苛有上説之者、勧
             之以賞誉、威之以刑罰、我以為人之
             於就兼相愛交相利也、誉之猶火之就
             上、水之就下也、不可防止於天下。
             故兼者聖王之道也。王公大人之所
             以安也。万民衣食之所以足也。故君 
             子莫若審兼商務行之。為人君必恵、
             為人臣必忠、為人父必慈、為人子必
             孝、為人兄必友、為人弟必悌。故君
             子若欲為恵君忠臣慈父孝子友兄悌弟、
             当若兼之説不可不行也。此聖王之道
             而万民之大利也。


そもそももって難くしてなすべからずとなすか、かつてこれより難くしてなすべき考あり。昔、
荊の霊王、小腰を好む。霊王の時に当り、荊国の士、飯は一を踰えず、固く拠りて後興も、垣
に扶りて後行く。故に食を約するは甚だなし難しとなす。然れども衆なして霊王これを説べば、
いまだ世を喩えずして民移すべし。すなわちもってその上に郷わんことを求むればなり。昔は
越王勾践勇を好む。その士臣を教うること三年、その知をもっていまだもってこれを知るに足
らずとなす。内を焚きて火を失し、鼓してこれを進む。その士前列に仮し、水火に伏して死す
る者、勝げて数うべからず。この時に当り、鼓せざるも退かず。越田の士、顔ると謂うべし。
故に身を貧くは甚だなし難しとなす。然れども衆なして越王これを説べば、いまだ世を喩えず
して民移すべし。すなわちもって上に郷わんことを求むればなり。昔は晋の文公費服を好む。
文公の時に当り、晋国の士、大布の衣、詳羊の裂、練帛の冠、且菰の緬、人りて文公に見え、
山でてもってこれを朝に践む。故に菖服は甚だなし難しとなす。然れども衆なして文公これを
説べば、いまだ世を喩えずして、民移すべし。すなわちもってその上に郷わんことを求むれば
なり。この故に食を約し身を焚き菖服するは、これ天下の至ってなし難きなり。然れども衆な
て上これを説べぱ、いまだ世を喩えずして民移すべし。何の故ぞや。すなわちもってその上
郷わんことを求むればなり。

今かの兼ねて相愛しこもごも相利するがごときは、これその利ありてかつなし易きこと、勝げ
て計るべからず。われおもえらく、す
なわち上のこれを説ぶ者あることなきのみ。いやしくも
上にこれを
説ぶ者あり、これを勧むるに賞誉をもってし、これを威すに刑罰をもってせば、わ
れおもえらく、人の兼ねて相愛しこもごも相利する
につくにおけるや、これを醤うるに火の上
に虻き、水の下に就くが
ごとく、天下に防止すべからず。
 故に兼は聖王の道なり。王公大人の安んずるゆえんなり。万民衣食の足るゆえんなり。故に
君子、兼を審かにして務めてこれを行
なうにしくはなし。人の君となりては必ず恵、人の臣と
なりては必ず忠
人の父となりては必ず慈、人の子となりては必ず孝、人の兄となりては必ず友、
人の弟となり
ては必ず悌。故に君子もし忠君・忠臣・慈父・孝子・友兄・悌弟たらんと欲せば、
兼の説のご
ときは行なわざるべからず。これ聖王の道にして万民の大利なり。

【解説】

兼愛は実行しにくいという。では、それ以上にむずかしいことが実行された例を示そう。
むかし、荊の雲王は柳腰の美少年を好んだ。そのため雲王の時代になると、国中の男が、節食
を心掛けるようになった。しまいには、立ち上ろうにも、つえに頼らなければならず、歩こう
にも、垣を伝わらなければならぬ状態になった。節食することはなかなかむずかしい。それな
のに、節食するものがたくさん出て、霊王をよろこばせた。時代が変わったわけでもないのに、
人民の気風が変わったのである。人民はそうすることによって、君主の期待に添おうとするか
らである。

また、越王勾践は勇者を好んで、三年間にわたって臣下を訓練したが、臣下がどのくらい勇気
をもつようになったか心配であった。そこで王は、宮殿に火を放つと、車鼓を打ち鳴らして臣
下たちを火中に飛びこませた。臣下たちは先を争って飛びこみ、水中に落ち火中に倒れて、死
ぬ者が続出した。もはや軍鼓を打ち嗚らさなくとも、逃げ出す者はいなかった。越因の男であ
っても、最初から気おくれしなかったわけではない。火中に飛びこむことは、なかなかむずか
しい。それなのに、火中に飛びこむ者がたくさん出て、越王をよろこばせた。時代が変わった
わけでもないのに、人民の気風が変わったのである。人民はそうすることによって、君主の期
待に添おうとするからである。
また、晋の文公は質素な身なりを好んだ。そのため文公の時代
になると、国中の男は、粗布の上衣に、ごわごわの皮衣をひっかけ、白い布を冠代りにして、
麻縄であんだぞうりをはくようになった。

かれらは、その身なりで文公の前に現われ、朝廷内に出入りもした。質素な身なりをするのは、
なかなかむずかしい。それなのに、粗末な身なりをする者がたくさん出て、文公をよろこばせ
た。時代が変わったわけでもないのに、人民の気風が変わったのである。人民はそうすること
によって、君主の期待に添おうとするからである。

このように、いかにむずかしいことでも、実行する者がたくさん現われたのだ。
もし、人類が互いに差別を設けず、互いの利益のために尽くすとすれば、それからもたらされ
る利益ははかりしれないし、しかも実行という点では、いまあげた例よりはるかにやさしいの
である。それが実行されないのは、君主がその考えをよろこばないからにすぎない。もし君主
がよろこんで受け入れ、それを実行したものには賞を与え、そむいたものには罰を与えるよう
にするならば、人々は、火がもえ上り、水が流れおちるようにごく自然に、人を差別しなくな
って、互いの利益のために尽くすようになる。そしてその勢いは、もはや「抑しとどめようと
しても押しとどめられなくなる。

兼愛は聖王の道である。この道をとることによって、為政者は地位を安泰にすることができる
し、人民全休は生活に不自由しなくなる。君子は、兼愛の道を明らかにし、その実行につとめ
ることを使会とすべきであって、他にとるべき道はないのだ。この道をとれば、君主は恵み深
い君主となるし、臣下は忠を尽くす臣下となる。親は愛情深い親となるし、子は孝養を尽くす
子となる。兄は弟を可愛がるし、弟は兄を尊敬する。したがって、もし君子がこのような人倫
関係の確立を望むなら、必ず兼愛を実行すべきである。それが聖王の道であり、人民全休の利
益源なのである。

※脚注

〈荊の霊王〉もと楚(荊)の令尹(宰相にあたる)であったが、鄭に使いに行く途中、王の病
気をきいて引返し、見舞いをよそおって王をくびり殺し、自分が王位に即いた。のち、暴虐非
道が崇って、呉・越の兵に国を追われ、山中を放浪した末餓死した。美少年を好んだ話は『戦
国策』にも出ている。

〈越王勾践〉 隣国の呉王夫差と宿敵の間柄であった。会稽山での恥をすすぐために、「臥薪
嘗胆」したエピソードからみても、かれが勇を好む王であったことがわかる。「史記」には、
越王は七年の間、士民をいたわり、士気の鼓舞につとめ、ふたたび呉を討ったときには、水戦
に習熟した部隊二千人、よく教練された兵士四万人、親近の志士六千人、もろもろの軍吏千人
がつきしたがったと記録されている。



〈晋の文公〉 献公の子で、若いころから士を好み、十七歳のときすでに五人の賢人を集めて
いた,猷公姫の讒言にあって亡命し、十九年間も国外で苦労し、王位についたときには、六十
二歳という老齢であった。亡命の途中、曹の共公が文公に肌脱ぎさせて、文公の一枚肋をなぐ
さみものにした話はよく知られている。
  

以上は「兼愛・下」を訳す。
墨子の文体は、どちらかといえば泥くさい。「老子』の文体などに典型的に示されるように、
中国古典の文章は、一般に、表現の簡潔を尊び、論理的な手続きを略して飛躍する傾向がある
が、墨子の文体にはそういう特色はみられない。かれはひとつの原理をあらゆる角度から説明
し、くどいまでに一歩一歩論理を積みあげていく。委曲を尽くそうとして、かえってくり返し
に終わっている場合もあるほどである。技術者出身であり、民衆のなかに終始したことが、そ
の語り口、文体にも反映しているとみることができよう。

 「兼愛」は字づらから想像されるようなあまいものではない。根底に流れるものは、救世へ
の気迫である。時に世は戦国時代、封建領主間の対立抗争は激化し、戦乱があいついで起こっ
ていた。国と国とが戦争を起こしたばかりでなく、卿大夫間にもたえず紛争が起きていた。

争で苦しひのは、きまって民衆である。かれらは、兵役にかり山され、略奪にあい、家や田畑
を焼かれ、一家離散の憂き目にあった。墨子の「兼愛」思想は、こういう民衆の苦しみのなか
からうまれたものである。キリストが、貧しい圧迫されたナザレの大工の子であったように、
墨子もまた悲惨に耐えていた工匠の子であった。

 したがって、墨子のいう「兼愛」は、慈善や博愛とは、まったくおもひきを異にする。かれ
は、現実を美化しようとするのではない。「兼愛」によってのみ「万民の大利」がはかれると
いう、広い意昧での実利主義から発しているのである。
 「兼愛交利」―人類が平等に愛し合い、お互いの利益のために尽くすという思想はまた、「
汝の敵を愛せよ」というキリストの教え、また、「かれはわれのうちにあり、われはかれのう
ちにあり」とする古代インドの宗教と、一脈通じるものがある。「別は非なり」と、墨子は喝
破しなが、キリストが人みな平等の。神の国’を説いたように、墨子もまた身分差のない「兼
」の社会を夢みたのである。

 

中国による挑発行為がエスカレートする中で、5日に発覚した中国海軍艦艇による火器管制レ
ーダー
照射したという。かって<中国版「坂の上の雲」>とこのブログで評した。漢民族を中心
とした「近代国家」としてポスト冷戦下の現代中国がある種の高揚感をもって安直な国家主義
に傾斜する心情を理解できなくはない。現代の覇権国家たる米国がいまなお「新自由主義」(
=レーニン、トロッキー、バクーニンなどのロシアマルクス主義・無政府主義の影響を残した
グローバルなエリート階層)のバイアスを受け変容し続ける国家主義とどのような違いを見せ
るのか、あるいは、旧態依存の一国社会主義(=漢民族的覇権国家主義)の道を進むのか大変
興味深く見守っている。このことを自覚しえる開明的な政治家(真のエリート)たちがいるは
ずだと思っている。

 

コメント
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