極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

火星の胆識

2013年01月05日 | 日々草々

 

 

 

 



【尚賢 能力をみがくよりも】 

 

            日、今也天下之士君子、皆故富貴
           而懸貧賎。日、然女何為面得富貴面
           避貧賎。莫若為賢。為賢之道将奈何。
           日、有力者疾以助人、有財者勉以分
           人、有道者劾以教人。若此間飢者得
           食、寒者御衣、乱者得心。若飢則得
           食、寒則御衣、乱則得心、此安生生。
           今王公大人、其所富其所貴、皆王公
           大人骨肉之親、貫故富貴、面目美好
           者也。今王公大人骨肉之親、貫故富
           貴、面目美好者、焉故必知哉。若不
           知使心其国家、則其国家之乱可御而
           知也。

 

日く、「いまや天下の士君子、みな富貴を欲して貧賎を悪ひ」。日く、「然らばなんじ何を
なしてか富貴を得て貧賎を避くる」。賢たるにしくはなし。賢たるの道いかんすべき。曰く、
「力ある者は疾くもって人を助け、財ある者は勉めてもって人に分ち、道ある者は勧めても
って人に教う」。かくのごとくなればが者は食を得、寒者は衣を得、乱者は治を得。もし飢
うれぱ食を得、寒ゆれば衣を得、乱るれば治を得るは、これ生生に安んずるなり。いま王公
大人
のその富ますところ、その貴ぶところ、みな王公大人の骨肉の親と、貫故富貴なると、
面目
美好なる者となり。いま王公大人の骨肉の親と、貫故富貴なると、面目美好なる者と、
なん
ぞ必ず知ならんや。もし不知なるにその国家を心めしめば、その国家の乱、得て知るべ
きな
り。

【解釈】

君子なら、だれでも富貴を欲して貧賎をにくむはずである。では、貧賎から抜け出て富貴を
手に入れるには、どうしたらいいか。いうまでもなく、才能のすぐれた人物となることであ
る。

 才能のすぐれた人物は、どんな生き方をするか。力のあるものは人を助けることによって、
財力のあるものは人に分かつことによって、学問を身につけたものは人を教えることによっ
て、それぞれ社会に貢献するだろう。        

 そうなれば、人々は飢えや寒さにせまられる心配から解放され、社会は安定をとりもどす。
食べるものや着るものに不自由せず、秩序がととのった社会、こういう社会であってこそ、
人類は永遠に存続しうるのだ。

 だが、現状はそうではない。為政者が富と地位とを与えているのは、縁故関係か、さもな
ければ財産、身分のある者、または容貌のすぐれた者である

 こういう基準でとりたてた人間が、能力のある智者であるはずがない。智者でないものに
国を治めさせれば、国が混乱におちいるのは、当然ではないか

    新年的畸形現場?!

 【賑やかな火星情報】

火星の名称 (Mars;マーズ) は、ローマ神話の神マルス(ギリシア神話の軍神アレス)から
名付けられ、メソポタミアの民は赤い惑星に戦火と血を連想して彼らの戦神ネルガルの名を
冠して以来、火星には各々の地でその地の戦神の名づけられたが、中国では火星は五行説に
由来し、学問上(天文史料)では熒惑(ケイコク、エイコク)と言われるが「熒」は同音の
「螢」と誤られ、この場合の「惑」は「ワク」ではなく「コク」と読み営惑とも書くが、江
戸時代には「なつひぼし」と読まれそのため夏日星という和名として残る。火星がさそり座
のアンタレス(黄道の近くに位置)に接近することから、熒惑守心(熒惑心を守る)といい、
不吉の前兆とされる。ここで「心」とは、アンタレスが所属する星官(中国の星座)心宿を
指す。

さて、デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは、地球を中心に太陽(火星など惑星は太陽
の周りを廻る)が廻る変則的な天動説をとった。肉眼によるものでは最も精密に火星の軌道
を観測。ティコの助手のヨハネス・ケプラーは師の死後、観測データを解析することで惑星
の軌道が円ではなく楕円で、火星の軌道から他の惑星の軌道も楕円でありケプラーの法則に
従うという地動説を主張(公転速度が速く観測しやすい火星の軌道離心率が冥王星や水星に

次いで大きい0.0934)。ところが、1877年の火星大接近とスキアパレッリの発表に始まった
火星運河説に重大な疑問を投げかける。エッジワース・カイパーベルトの提唱者のカイパー
が、1947年、火星を赤外線帯で観測し、大気の成分が二酸化炭素であると主張し、地球大気
の重要な成分の窒素、酸素、水蒸気の痕跡は見当たらず、文明を持つ火星人の存在がほぼ否
定される。

そして、地球上で発見された火星に起源を持つと思われる岩石がいくつか知られているが、
隕石のうち2つからは古代の細菌の活動の痕跡かもしれない特徴が見つかっている。1996年
8月6日、NASAは火星起源と考えられている「ALH84001」隕石の分析から、単細胞生命体の
化石の可能性がある発表されていたものの、新年早々から、ニューメキシコ大学隕石研究所
の研究チームが、火星から来たと思われる21億年前の隕石を真空管に入れて加熱し、放出れ
た気体を質量分析計を使って調べた。その結果、この気体が火星の水の蒸気だと大きく報じ
られた。その根拠は?これまでに見つかった火星からの隕石に比べて10倍以上の水の分子が
含まれていた-カール・エイジー同研究所長はがこれを、火星の水が眠りから目覚めたと喩
えているが、隕石はモロッコで見つかったもので、1個目の発見を受けて探したところ、
も大きいもので手のひらに載るほど(重さで320グラム)複数見つかっている。
隕石は噴火
の火山岩で、水との接触により鉱物の構造の中に水分が取り込まれ、20億年以上たった今も
その状態が保たれたとみている。どんな形状の水と接触していたのかは不明だが、火星の湖
または川、地下水、さらには凍土が噴火の熱で溶けた可能性もあり、相当量の水があったと
推測している。火星はかつて、ずっと温暖で湿度が高く、大気と水があったという説が有力で、
今回見つかった隕石は、当時の火星の状態について知る手がかりになる(
米航空宇宙局(N
ASA)の探査機が火星の地表で発見した岩石と同化学成分を持っている)。また、現在の
火星の岩石にこれほど近い隕石が見つかったのは初めてで、年代的にも南極で見つかった45
億年前のものとされる隕石に次いで2番目の古さだという。

  新年的火星隕石事情?!

なぜ、いま火星なのか?火星探査は近年根強く実施されているが、探査計画の約2/3が失敗
に終わる上に、莫大な予算がかかるとして批判する声も大きい。「火星に水がかつてあった。
それがどうした。我々の生活に関係あるのか? 予算を地球のために使うべきだ」と。実際は
米国の国防費の1/20以下のNASAの予算のごく一部が火星探査に割り当てられているに過ぎな
いが探査計画の低コスト化が進められている反作用だろうか?どうも、中国との覇権争いの
様相を呈していることが今日のテレビニュースのオバマ大統領の発言から見て取れる。


【胆識とは何か】 

胆識とは決断力、実行力を有した見識のこと。それは自身の信念に基づいて判断したときに
是であったならば、如何なる困難があろうとも遂行し続ける強さである。成功の是非は問わ
ない。失敗するとしても、やるべきだと判断したならば実行するのが胆識。ただし、見識を
有することが前提なので無謀であることとは異なるという。最近、テレビから消えていた細
木数子がクリームシチューの有田哲平とテレビにでていて「(その人物の値打ちは)知識・
見識・胆識で決まる」という風な発言をしていたのが耳に残っていた。番組には興味が湧か
ずすぐにチャンネルを変えてしまったから前後の文脈ははっきり覚えていない。これは、安
岡正篤の言葉からの引用。高弟・山口勝朗が致知出版社刊『安岡正篤に学ぶ人間学』で、次
ように解説している。

 

 安岡先生は知識・見識・胆識とおっしゃっていました。知識とは理解と記憶力の問題で、

 本を読んだり、お話を聞いたりすれば知ることのできる大脳皮質の作用によるものです。
 知識は、その人の人格や体験あるいは直観を通じて見識となります。見識は現実の複雑
 な事態に直面した場合、いかに判断するかという判断力の問題だと思います。 胆識は
 肝っ玉を伴った実践的判断力とでも言うべきものです。困難な現実の事態にぶつかった
 場合、あらゆる抵抗を排除して、断乎として自分の所信を実践に移していく力が胆識で
 はないかと思います。

               山口勝朗著 『安岡正篤に学ぶ人間学』(致知出版社) 

 

安岡正篤の実兄は、高野山真言宗大本山管長、金剛峯寺第四〇三世座主の堀田真快。安岡正
篤は、1898年2月13日、大阪市順慶町で幕臣の堀田家の四男として生まれ、中学校校長の縁
で土佐出身の安岡盛治の養子に迎えられる。名門の血筋を引いて、政財界に陽明学で影響を
与えた安岡を世間の泥水をすすって生きてきた細木が利用した(かった)。政財界の中に入
って世の中を動かしたい気持ちが細木には強かったためといわれ、1980年に夫人をなくした
安岡に近づき、安岡を細木が懐柔し婚姻届を書かせ、入籍に成功したものの、和解調停で安
岡の初七日に籍を抜くというバトルを経ているが、そんなものはここで一切取捨するとして、
ここで「知識」とは、認識によって得られた成果、あるいは、人間や物事について抱いてい
る考えや技能のこととすれば、その持つ<質>は他者により計られるが決定的でない。また、
<量>的には、公的(あるいは幻想的)基準で決定できると思われる。つぎに「見識」とは
その人格、体験、もしくはそこから得た悟りなどによって発せられる判断、考え方のことと
であり、義の何たるかを知り、真の利を知るものを見識といわれ、自分自身を以て物事の本
質を見定めて判断をするものであり、クイズなどでいくら解答できようが、それは知識であ
って見識にあらず、同様に一般的な批判、批評などは知識を用いているだけで見識とは異な
り、自分自身の内部より発する考えでなくては見識ではない。ただし、他者の意見を採用し
たとしたとしても、その採用が自分の信念、思想に基づいたものであれば見識であり、一般
的には判断の結果に間違いの少ない人を見識のある人という風に用いられている。続いてさ
らに「胆識」とは、決断力、実行力を有した見識のこと。それは自身の信念に基づいて判断
したときに是ならば、いかに困難があろうとも遂行し続ける強さであり、成功の是非は問わ
ない。失敗するとしても、やるべきだと判断したならば実行するのが胆識(ただし、見識を
有することが前提なので無謀であることとは異なる)と定義されるなら、前に進める勇気、
前例がない賭け、小さな確率でも行動する投機(投企)行為となり動態的エネルギー(生命
力)が大きい側面を持つ。





簡単に言い切るとそういえるだろうから、知識※→見識→行動(実践)の決意・結果の覚悟
→胆識→(主体的認識→普遍的知識※→(循環))ということを意味しているのであれば、
陽明学の言質系脈に内包される(参照@「心即理」「格物致知」→「致良知」)が、当の細
木数子は何を行動(=自己教化)してみせたというのだろうか。金儲けには宗教的教団構築
が、手っ取り早い道だと視聴者にいってみせているなら大した玉だ。^^;

 

コメント
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