徳丸無明のブログ

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キングオブコント2016優勝予想

2016-10-01 22:43:28 | 雑文
タイトルにあります通り、明日のキングオブコントの優勝を予想してみたいと思います。

①タイムマシーン3号
②ラブレターズ
③しずる

①一番はタイムマシーン3号。実力は十二分。もうとっくの昔に売れていてもおかしくない。ここらでタイトル取ってほしい。
②次に期待を込めてラブレターズ。わりと結成されてすぐにキングオブコント決勝行ってるんですよね。ブレイクしていいと思います。
③今現在のしずるのメディア露出がどれほどなのかよく知らないんだけど、ネタの評価よりもキャラクターが愛されてブレイクしたタイプだよね。でも、ネタも面白いよ。

他の出場者にも触れておきます。

かまいたち・・・クセがあるから好き嫌いが分かれると思う。結果は5~6位ぐらいになるのではないかと。
ジグザグジギー・・・一般的な評価は結構高いんだけど、個人的には今ひとつ。何かしらの「抜け」が必要だと思います。
ジャングルポケット・・・いや、面白いんだけどさあ、タイトル戦出なくていいんじゃない?賑やかしなのかな。
かもめんたる・・・好きなんだけど、優勝経験者はもう出ないでください。

あとのライス、だーりんず、ななまがりの3組は知らないので何とも言えません。あしからず。

理解も解消も困難な差別について④

2016-10-01 21:55:35 | 雑文
(③からの続き)

さて、ここまで書き綴ってきたことは、「差別とはどのようなものであるか」という、構造の分析である。
では、解決策は?どうすれば差別を解消できるのだろうか。
ここで助けを求めたい。
ホーキング青山というお笑い芸人がいる。先天性多発性関節拘縮症なる身体障害を抱え、「車椅子のお笑い芸人」として知られるホーキングは、専ら差別される側の身でありながら、差別を推奨している。書き間違いではない、本当に推奨しているのである。なぜか。
ホーキングは、自身の半生を、差別に対する考えとともに記した著書、その名もズバリ『差別をしよう!』の中で、差別の必要性を訴えている。その主張をまとめると、次の通り。
「人はみな平等だ」と言うけれど、人それぞれ長所や短所があるので、完全な平等などありえない。なのに、過剰な平等意識のせいで自分と他人を比べることをしなくなり、そのせいで若者が自分に自信を持てなくなっている。人は自分を他人と比較して、相手の劣っている所を見つけ、自信を持つことができる。だから、自信を持つために差別をすべきだ。
・・・・・・ということなのである。
ちなみにホーキングは、「自信を持てない若者がニート、引きこもり、いじめ、鬱、児童虐待、ストーカー、小児性愛などの問題を引き起こしている」とも述べている。正直に言って、小生はこちらの見立てには賛成できないのだが、差別を肯定的に捉えようとする姿勢には、ただひたすら「差別反対」を唱えているだけの者には持ち得ない、ある種の力強さを感じる。
それにこのような発言は、障害者のような、「本来差別される側」の立場からでないと、なかなか出てきづらいものなので、その意味でもホーキングの果たした役割は大きいと思う。
では、ホーキングは自信を持つ為なら他人を傷つけていいと考えているのか、と言うと、そうではない。「自分が自信を得るための差別」はいいが、「相手の存在そのものを全否定する差別」はダメだ、と言う。
これはつまり、心の中に思うだけの差別を「発現の差別」、直接・間接を問わず他人に差別感情をぶつけることを「発露の差別」と呼ぶならば、「発現はいいけど発露はダメ」ということだろう。
確かに、心に思うことは誰にも――おそらくは本人にも――止められないわけで、「差別は考えるだけでもダメ」というのは潔癖症すぎるし、原理的に不可能だと思う(心の中で「殺したい」と思うことと、実際に殺人を犯すことの間には千里の径庭があるのと同様)。だから、それならば積極的に利用しよう、とするのは一つの方法としてアリだと思う。
だが、本論で取り上げてきたのは、「発現」ではなく、「発露」のほうの差別なのである。こちらはどうしたらいいのだろう。
ホーキングは、この点にも言及している。


人を「差別」することで、自分より劣っている部分があると思ったその人にも自分にはない良さが絶対に一つ以上あることにも必ず気づけるようになる。相手に良いところがあると分かれば、自分との差異を認められるようにもなるだろう。そうしたときにはじめて「差別」は無くなるはずだ。
だから、「差別」を無くすために「差別」をしよう!
(ホーキング青山『差別をしよう!』河出書房新社)


要するに、「発現の差別」を通じて「発露の差別」がなくなる、ということなのだが、少し楽観的過ぎるというか、個人的にはあまり説得力を感じない。
では、「発露の差別」はどうしたらいいのだろう。
話を「障害者とそれを取り巻く状況」に戻したい。
周囲が差別を過剰に回避しようとするせいで、障害者は腫れ物扱いされてしまい、それがかえって差別的な状況を生み出している、という話であった。この状況を打破する術はあるのだろうか。
これは、障害者側がこの問題をどう考えているかによる。障害者側が「別にこのままでいい」と言うのであれば、敢えて変える必要はない。健常者側の勝手で「何とかしなくては」と動き出すのは余計なおせっかいである。
では、仮に障害者側も何とかしたいと考えているとして話を進めよう。
この問題は、健常者側の、「障害者にはどう接したらいいのかわからない」という思いが起点となっているので、理論的には接し方が理解できれば問題は解消する。では、どうすれば理解できるのかというと、ありきたりな提案になってしまうが、やはり健常者と障害者がこれまで以上に関りあいを持つことが最善だと思う。
健常者が障害者を理解できていないわけだから、初めは嫌な思いをしたり、衝突することもあるはずだ。だが、それを乗り越えてこその理解であるわけだから、これは少し酷な言い方になってしまうかもしれないが、障害者もある種の覚悟を持たねばならないだろう。
この点にもやはりホーキングは言及している。
ホーキングは、「自分は障害者だが、障害者が嫌いだ」と公言している。それはなぜかというと、障害者は幼いころから弱者であるという教えを擦り込まれていて、過剰な被害者意識を持っており、同じ被害者意識を持つ障害者同士で固まってしまい、結果として社会全体が見えなくなっているから、だそうだ。
先に「差別をしたくないがゆえに、障害者を社会の片隅に押しやろうとする」と書いたが、それは障害者との共同作業というか、お互い望むところであったのかもしれない。
ホーキングは、「障害者と健常者との間の差別感情は、お互いが真の意味で知り合うことで、絶対に無くせる」し、「そのためには障害者のほうから歩み寄らないとダメ」だとも述べている。
やはりこれは、「健常者と障害者」という二項対立の図式だと、責任があるのは健常者の側で、障害者は常に被害者だという、固定観念というか、硬直した議論があるせいで、真の理解が阻まれている、ということだろう。単純な二元論で捉えてはならないという命題は、ここでも当てはまる。
障害者に対しても、言うべきは言わなくてはならない。だが、ヘタにそれをすれば差別者呼ばわりされてしまうので、誰もその役回りを引き受けようとはしない。やはり、内部告発者のごときホーキングの存在は貴重である。

さて、残念ながらこれ以上は小生の頭が回らない。あらかじめ予見していたように、具体的な解決策も提示しきれておらず、中途半端な内容となってしまった。
話が錯綜してわかりづらかったと思うが、それは小生の文章能力の未熟さのみならず、ここまで散々書いてきたように、差別の構造の複雑さ故でもある。
一応、これまでの議論の論点をまとめておく。

①差別を受けている(または受けていた)集団に帰属している者が、何かしらの不当な仕打ちを受けたとしても、それを安易に差別によるものだと判断してはならない。
②差別には複雑な背景があるので、正しく理解するためには、その複雑さを単純化することなく、複雑なまま受け止めねばならない。
③差別感情は、人種や職種などの集団に帰属するものではなく、あくまで属人的なものである。
④差別を過剰に回避しようとすることが、逆説的に差別的な状況を生み出してしまう場合もある。
⑤差別者と被差別者は截然と分かれてはおらず、誰しもが差別者にも被差別者にもなりうる。
⑥被差別者を絶対的善(もしくは正)とすることで、歪めてしまうものもある。

差別の解消は、差別を正しく理解することから始まるとするならば、本論も少しはその足しになるのではないかと思う。
差別についてはまだこれからも考えていくつもりなので、機会があればまた書くこともあるだろう。
何か意見があるならば、批判や反論も含めてぜひお寄せいただきたい。