豊洲市場の地下空間に盛り土がされていなかった問題に関して、9月30日に内部調査の結果を公表した小池百合子都知事は、「盛り土をしないことが段階的に固まって」いき、「いつ誰が」決定したのかを特定できず、「それぞれの段階の中で、空気の中で進んでいった」と述べた。責任の所在が特定できない、という結論であった。
これまでに幾度となく繰り返されてきた光景である。
無責任体質日本社会の結論、「責任の所在がわからない」。
そして、この結論が呼び起こすのが、こちらもやはりうんざりするほど繰り返されてきた役人批判の言説である。曰く、「公務員はなまけものでいい加減だ」。
しかしながら、これは役人だけの問題ではない。空気に支配されているのは役所のみならず、日本列島全域であるからだ。つまり、明確な意思決定を行う主体、いざという時に全責任を負う主体が存在せず、空気の中で帰趨が決してゆく図式は、日本中のあらゆる組織の中に見出すことができるということである。
ただし、親方日の丸は資本主義の競争原理に晒されているわけではないので、そのぶん民間よりはいい加減になりやすい、ということは言えるかもしれない。しかしそれも程度問題というか、50歩100歩だろう。
それに、役人も公務を離れれば一市民として生活しているのである。仕事でおかしなことをしでかせば、それが自らの生活に跳ね返ってくることも充分あり得るわけで、そうそう手を抜こうとは考えないはずだ。仮に自分の生活に影響が出ない範囲の仕事にしたところで、「どうせやるならできるだけ質の高い仕事をしたい」とか、「ミスを少なくしたい」などと考えるのが普通のはずで、役人であっても「給料貰えてさえいればそれでいい。日本社会がボロボロになろうが知ったこっちゃない」という極論を持つほど人格の捻じくれた人物はそうそういないだろう。
また、これはもっと単純に組織論の問題でもある。組織が一定度以上の大きさになると、一元的な意思決定能力を保つことが困難になるのだ。様々な担当部署が設立されて専門が細分化され、それぞれの持ち場で仕事に打ち込む中で、隣で何をやっているかがわからなくなってゆく。ヨコの連携を取って意思の疎通を図ればいいのだが、大きすぎる組織でそれをやろうとすると、意思の疎通を行うだけで膨大な時間を取られ、本来の業務をこなせなくなってしまう。
つまり、どうにかしたくてもどうにもならない、ヤル気ではなく構造上の問題なので、組織外からの批判は、現場の事情を知らない者の能天気な言い分でしかないのだ。
「空気」のほうをもう少し論じたい。
日本社会は空気に支配されている。意思の決定を行い、世論を形作るのは、個々人ではなく空気である。人々は個人の意思を表すことなく空気の読みあいに終始し、もし空気を読もうとしない者がいたら、みんなで寄ってたかって叩いて押さえつける。誰も前に立とうとせず、誰も目立とうとせず、ただひたすら横並びであることを良しとする。
以上がここで言う「空気」なるものの特質、一般的な理解である。
「空気」と言ったときにまず思い起こされるのが、山本七平の『「空気」の研究』だろう。山本は同書で旧日本軍の空気を論じ、明確な意思決定が成されないまま、なんとなくの流れの中で太平洋戦争に突入していった経緯を指摘している。
税金の無駄遣い程度であればまあ、笑って済ませることもできる(それに、「税金の無駄遣い」と言うと、あたかもお金が消えて無くなったかのような印象を受けるが、実際にはお金は国から民間に流れただけであって、消えてなどいない。景気上昇はお金の循環(流れ)によってもたらされるものであるから、税金が消費されることそれ自体は決して悪いことではない)。だが、多くの人命が失われ、国土や文化に甚大な被害が生じる戦争という営為を、なんとなくの流れで引き起こすなど、あってはならないことである。
戦争以外にも、この日本社会を覆う空気によってもたらされる弊害は、これまで散々指摘されているのだが、それでもなお、相も変わらず空気は存在している。なぜだろう。
空気に抗うには、強靭な意志、もしくはある種の愚鈍さが必要である。逆境にもめげずに立ち向かう力、さもなくば逆境を逆境と知覚することのできない愚鈍さによって、人は空気と対峙することができる。
例えるなら、小泉純一郎のごとき人物がその典型である。自民党員でありながら「自民党をぶっ壊す」と言い放ち、反対勢力をものともせずに郵政民営化を実現させた、あの、良くも悪くも空気を読めない(読まない)人物。
しかしながら、小泉ほどの人材はそうそう出てくるものではない。稀少であるからこそ政治史の中であれほどのインパクトを与えることができたのである。(念のために断っておくが、小生は小泉の政治業績を肯定的に評価しているわけではない。彼が空気を読まない(読めない)ことで強力なリーダーシップを発揮できたという端的な事実に言及しているのである)
それに、空気を読まない(読めない)者にできることと言ったら、せいぜい空気を攪拌することぐらいであって、空気を消滅させるまではいかないのだ。
空気を消滅させるには、「空気を読むのはやめようよ」と提言し、共同体の成員すべての了承を取り付けねばならない。言葉で説明すればただそれだけの話であって、理論的には決して難しいことではない。
だが、「出る杭は打たれる」なることわざもある通り、空気を読まない(読めない)行為のみならず、「空気を読むのはやめよう」と主張することそれ自体もまた「出る杭」になることを意味する。
つまり、「空気を読むのはやめよう」と発言すること自体が空気に反しているので、その発言により空気を読んでないヤツと見做された発言者は、出る杭として周囲に叩かれ、黙らされてしまう。ゆえに、発言は合意を取り付けるには至らず、発言者が沈黙を強いられることで空気は再び平穏を取り戻す。かくして、今日も空気は活発に機能している。
これが空気がなくならない理由である。
そして、さらに言えば――この点が特に空気というものの一番厄介な性質だと思うのだが――、仮に日本人全員が「出る杭は打たねばならないというのは思い込みに過ぎない。空気によってそう思い込まされているだけだ。自分の意思ではないから従う必要などないのだ」と理解できたとしても、それでもなお空気は変わらず存続・機能し続けるのである。
これは推測であるが、原理的に考えて間違いないと思う。
「空気によってそうさせられているだけ」と理解できても、「空気を読むのをやめよう」という合意を全体と取り付けないと空気は無くならない。でも、打たれるかもしれないと思うと、誰も合意を取り付ける主体になろうとしない。みながみな「誰か合意を取り付ける主体になってくれないかな」と期待しながら、自らは合意を取り付ける主体になろうとはしない、いわば逆チキンレースのごとき状況が出現するのみである。結局、空気には何の影響も与えることができない。
小泉ですら空気を壊すには至らなかった。首相という、この国で一番社会的影響力の高い立場にありながら、である。
確かに首相といえども、その影響力の及ぶ範囲は限定的であるし、任期も限られている。だから、たった一人の小泉だけでは、一時的に空気を搔き乱すことはできても、空気を消滅させるまでには至らないのだ。
そう、おそらくは100万人の小泉純一郎が必要なのである。
100万人の小泉純一郎が同時に出現し、政界のみならず、財界、法曹界、行政、学界、その他各種民間団体で辣腕を振るい、一斉に日本社会の空気を搔き乱すこと。それによってしか空気を消滅させることはできないのだと思う。
小生のこの推論が正しいとしよう。そうすると、そこから導き出される方策は次の2つである。
いかにして100万人の小泉純一郎を生み出すかに官民挙げて取り組む、というのがひとつ。もうひとつは、100万人の小泉純一郎など理論的に望むべくもないと断念し、今後も日本社会の空気は存続し続けることを前提としたうえで、それによってもたらされる弊害を最小限度に抑える術を計量的に考えるか、である。
小生は、後者しかないと思う(100万人の小泉純一郎を生み出すことは可能だ、と言う方がもしおられたら、ぜひその法をご教示いただきたい)。
それに、ここまで空気は有害無益でしかないかのような書き方をしてきたが、必ずしもそういうわけではない。物事には何でも一長一短があるように、空気にも長所はある。
世界からたびたび称賛されている、日本人が礼儀正しく、ルールをよく守るという点がそれである。横並びを旨とする空気の下では、ルール遵守が第一条となるからだ。
なので、空気を消滅させてしまうと、この長所までもが同時に失われてしまう。だから、空気を無くすのではなく、空気によってもたらされる害悪をいかに最小化するかに取り組むほうが遥かに建設的、かつ現実的だと思う。(ただし、この空気の長所にも注意が必要である。何らかの拍子に空気が反転し、「ルールを守らないのが空気に従うこと」になってしまう場合があるからだ。一人がゴミを捨てたのをきっかけに、皆一斉にゴミを捨て始める、という現象がそれに当たる)
では、その方法はどのような形をとるのか、と言うと・・・・・・。申し訳ないが、小生にはそれについての具体的なアイディアがないのである。
それに、これはおそらく各組織ごとの形状に応じて設計せねばならないものであり、一元的・汎用的な「これ」という方策はないのだと思う。
本当に申し訳ないのだが、小生に言えるのはここまでである。
後はおのおの各現場で試行錯誤していただきたい。
オススメ関連本・柄谷行人『日本精神分析』講談社学術文庫
これまでに幾度となく繰り返されてきた光景である。
無責任体質日本社会の結論、「責任の所在がわからない」。
そして、この結論が呼び起こすのが、こちらもやはりうんざりするほど繰り返されてきた役人批判の言説である。曰く、「公務員はなまけものでいい加減だ」。
しかしながら、これは役人だけの問題ではない。空気に支配されているのは役所のみならず、日本列島全域であるからだ。つまり、明確な意思決定を行う主体、いざという時に全責任を負う主体が存在せず、空気の中で帰趨が決してゆく図式は、日本中のあらゆる組織の中に見出すことができるということである。
ただし、親方日の丸は資本主義の競争原理に晒されているわけではないので、そのぶん民間よりはいい加減になりやすい、ということは言えるかもしれない。しかしそれも程度問題というか、50歩100歩だろう。
それに、役人も公務を離れれば一市民として生活しているのである。仕事でおかしなことをしでかせば、それが自らの生活に跳ね返ってくることも充分あり得るわけで、そうそう手を抜こうとは考えないはずだ。仮に自分の生活に影響が出ない範囲の仕事にしたところで、「どうせやるならできるだけ質の高い仕事をしたい」とか、「ミスを少なくしたい」などと考えるのが普通のはずで、役人であっても「給料貰えてさえいればそれでいい。日本社会がボロボロになろうが知ったこっちゃない」という極論を持つほど人格の捻じくれた人物はそうそういないだろう。
また、これはもっと単純に組織論の問題でもある。組織が一定度以上の大きさになると、一元的な意思決定能力を保つことが困難になるのだ。様々な担当部署が設立されて専門が細分化され、それぞれの持ち場で仕事に打ち込む中で、隣で何をやっているかがわからなくなってゆく。ヨコの連携を取って意思の疎通を図ればいいのだが、大きすぎる組織でそれをやろうとすると、意思の疎通を行うだけで膨大な時間を取られ、本来の業務をこなせなくなってしまう。
つまり、どうにかしたくてもどうにもならない、ヤル気ではなく構造上の問題なので、組織外からの批判は、現場の事情を知らない者の能天気な言い分でしかないのだ。
「空気」のほうをもう少し論じたい。
日本社会は空気に支配されている。意思の決定を行い、世論を形作るのは、個々人ではなく空気である。人々は個人の意思を表すことなく空気の読みあいに終始し、もし空気を読もうとしない者がいたら、みんなで寄ってたかって叩いて押さえつける。誰も前に立とうとせず、誰も目立とうとせず、ただひたすら横並びであることを良しとする。
以上がここで言う「空気」なるものの特質、一般的な理解である。
「空気」と言ったときにまず思い起こされるのが、山本七平の『「空気」の研究』だろう。山本は同書で旧日本軍の空気を論じ、明確な意思決定が成されないまま、なんとなくの流れの中で太平洋戦争に突入していった経緯を指摘している。
税金の無駄遣い程度であればまあ、笑って済ませることもできる(それに、「税金の無駄遣い」と言うと、あたかもお金が消えて無くなったかのような印象を受けるが、実際にはお金は国から民間に流れただけであって、消えてなどいない。景気上昇はお金の循環(流れ)によってもたらされるものであるから、税金が消費されることそれ自体は決して悪いことではない)。だが、多くの人命が失われ、国土や文化に甚大な被害が生じる戦争という営為を、なんとなくの流れで引き起こすなど、あってはならないことである。
戦争以外にも、この日本社会を覆う空気によってもたらされる弊害は、これまで散々指摘されているのだが、それでもなお、相も変わらず空気は存在している。なぜだろう。
空気に抗うには、強靭な意志、もしくはある種の愚鈍さが必要である。逆境にもめげずに立ち向かう力、さもなくば逆境を逆境と知覚することのできない愚鈍さによって、人は空気と対峙することができる。
例えるなら、小泉純一郎のごとき人物がその典型である。自民党員でありながら「自民党をぶっ壊す」と言い放ち、反対勢力をものともせずに郵政民営化を実現させた、あの、良くも悪くも空気を読めない(読まない)人物。
しかしながら、小泉ほどの人材はそうそう出てくるものではない。稀少であるからこそ政治史の中であれほどのインパクトを与えることができたのである。(念のために断っておくが、小生は小泉の政治業績を肯定的に評価しているわけではない。彼が空気を読まない(読めない)ことで強力なリーダーシップを発揮できたという端的な事実に言及しているのである)
それに、空気を読まない(読めない)者にできることと言ったら、せいぜい空気を攪拌することぐらいであって、空気を消滅させるまではいかないのだ。
空気を消滅させるには、「空気を読むのはやめようよ」と提言し、共同体の成員すべての了承を取り付けねばならない。言葉で説明すればただそれだけの話であって、理論的には決して難しいことではない。
だが、「出る杭は打たれる」なることわざもある通り、空気を読まない(読めない)行為のみならず、「空気を読むのはやめよう」と主張することそれ自体もまた「出る杭」になることを意味する。
つまり、「空気を読むのはやめよう」と発言すること自体が空気に反しているので、その発言により空気を読んでないヤツと見做された発言者は、出る杭として周囲に叩かれ、黙らされてしまう。ゆえに、発言は合意を取り付けるには至らず、発言者が沈黙を強いられることで空気は再び平穏を取り戻す。かくして、今日も空気は活発に機能している。
これが空気がなくならない理由である。
そして、さらに言えば――この点が特に空気というものの一番厄介な性質だと思うのだが――、仮に日本人全員が「出る杭は打たねばならないというのは思い込みに過ぎない。空気によってそう思い込まされているだけだ。自分の意思ではないから従う必要などないのだ」と理解できたとしても、それでもなお空気は変わらず存続・機能し続けるのである。
これは推測であるが、原理的に考えて間違いないと思う。
「空気によってそうさせられているだけ」と理解できても、「空気を読むのをやめよう」という合意を全体と取り付けないと空気は無くならない。でも、打たれるかもしれないと思うと、誰も合意を取り付ける主体になろうとしない。みながみな「誰か合意を取り付ける主体になってくれないかな」と期待しながら、自らは合意を取り付ける主体になろうとはしない、いわば逆チキンレースのごとき状況が出現するのみである。結局、空気には何の影響も与えることができない。
小泉ですら空気を壊すには至らなかった。首相という、この国で一番社会的影響力の高い立場にありながら、である。
確かに首相といえども、その影響力の及ぶ範囲は限定的であるし、任期も限られている。だから、たった一人の小泉だけでは、一時的に空気を搔き乱すことはできても、空気を消滅させるまでには至らないのだ。
そう、おそらくは100万人の小泉純一郎が必要なのである。
100万人の小泉純一郎が同時に出現し、政界のみならず、財界、法曹界、行政、学界、その他各種民間団体で辣腕を振るい、一斉に日本社会の空気を搔き乱すこと。それによってしか空気を消滅させることはできないのだと思う。
小生のこの推論が正しいとしよう。そうすると、そこから導き出される方策は次の2つである。
いかにして100万人の小泉純一郎を生み出すかに官民挙げて取り組む、というのがひとつ。もうひとつは、100万人の小泉純一郎など理論的に望むべくもないと断念し、今後も日本社会の空気は存続し続けることを前提としたうえで、それによってもたらされる弊害を最小限度に抑える術を計量的に考えるか、である。
小生は、後者しかないと思う(100万人の小泉純一郎を生み出すことは可能だ、と言う方がもしおられたら、ぜひその法をご教示いただきたい)。
それに、ここまで空気は有害無益でしかないかのような書き方をしてきたが、必ずしもそういうわけではない。物事には何でも一長一短があるように、空気にも長所はある。
世界からたびたび称賛されている、日本人が礼儀正しく、ルールをよく守るという点がそれである。横並びを旨とする空気の下では、ルール遵守が第一条となるからだ。
なので、空気を消滅させてしまうと、この長所までもが同時に失われてしまう。だから、空気を無くすのではなく、空気によってもたらされる害悪をいかに最小化するかに取り組むほうが遥かに建設的、かつ現実的だと思う。(ただし、この空気の長所にも注意が必要である。何らかの拍子に空気が反転し、「ルールを守らないのが空気に従うこと」になってしまう場合があるからだ。一人がゴミを捨てたのをきっかけに、皆一斉にゴミを捨て始める、という現象がそれに当たる)
では、その方法はどのような形をとるのか、と言うと・・・・・・。申し訳ないが、小生にはそれについての具体的なアイディアがないのである。
それに、これはおそらく各組織ごとの形状に応じて設計せねばならないものであり、一元的・汎用的な「これ」という方策はないのだと思う。
本当に申し訳ないのだが、小生に言えるのはここまでである。
後はおのおの各現場で試行錯誤していただきたい。
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