徳丸無明のブログ

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愚痴から始まる現代思想批判のようなもの・後編

2016-10-18 21:23:51 | 雑文
(前編からの続き)

小生自身の言論の出発点は何かと言うと、「ワクワク感」である。マンガ描いているのも同じ動機からなのだが、頭の中であれこれ想像(創造)するのが好きで、その中から公開に値するものを選び「すごいこと気付いちゃったよ、聞いて聞いて!」と呼びかけることで、自分のワクワクを共有してもらいたいと思っている。
第二の動機は、先に述べた「より良き社会をもたらすため」である。面白がって好き勝手書き散らしているわけだが、それが少しでも世の役に立てればと思っている。
「社会のため」よりも「ワクワク感」のほうが動機として先行しているというのは、不純というか、いい加減に聞こえるかもしれない。面白いか、面白くないかが判断基準となってしまうのだから。だが、「ワクワク感が第一の動機」というのはあながち悪いことではないと思っている。
なぜなら、いい加減さは思想から適度な距離を取ることができるからである。
距離を取ることで、己の思想に入れ込むことなく、冷静に眺めることができる。それは、内省的な視点を持つことができるということであり、自己批判という節度を保つために不可欠な要素である。
翻って、真剣に言論を行っている人は、自身と思想との距離が近い。中には距離が0の人もいる。これはつまり、思想が自分自身になっているということである。
この手の人々は、とかく頑なになりがちである。思想が自分自身ということは、思想の誤謬を指摘されることが、イコール自分が傷つけられることになってしまう。なので、傷を負わないように、真剣に思想を守り通そうとする。
対して小生は、自分の思想など、より良き社会をもたらすための手段に過ぎないと考えているので、もし、自分の思想と対立する思想のほうがより社会に資すると了承されれば、過去の自分の思想など、ドブに捨てても構わないと思っている。
真剣に言論を行っている人は、なかなかこうはいかない。
そして、最大の問題は、自分の思想を第一とする人のそれが、社会の行く末を左右するほどの大きな利益に反する事態に陥った時に生じる。
自分の思想を曲げなければ、社会全体の利益が損なわれてしまう状況に立たされた時、彼等は一体どうするか。それは、自分の思想を堅守するために、社会の利益を毀損する方を選ぶのである。
とんでもない話だが、このようなことは実際に数限りなく行われている。しかも、その手の人々は決して少なくない。いや、むしろ現代においては多数派と言った方が正確かもしれない。
また、問題が生じるのは「思想を守るか、社会を守るか」の二者択一の場面のみに限られない。通常の言論の場においても問題は生じうる。
頭の良さを示す方法は多々あるが、手っ取り早いのは他人を批判し、いかにそいつが愚かであるかを立証する法である。ゆえに、頭の良さを示すことを最大の目的とする人は、自分の思想を組み立てるよりも、他人のそれを批判することを優先する。つまり、攻撃ばかりしているのである。
ただし、批判と言っても一様ではない。建設的な批判もある。
哲学用語の中に、「止揚」という概念がある。
ひとつの命題に対して反命題を立て(批判)、それによって命題を高次の段階に押し上げる、というものである。つまり、命題を彫琢することでより優れた理論に仕立て上げるか、あるいは元の形とは違うより優れた命題に生まれ変わらせるか、の営為のことを指す。
この批判は有益である。相手の知性を認めたうえで、「協力してより良き思想をもたらしましょう」という協調姿勢がみられるからである。
相手の知性を認めるというのは、相手に敬意を払うということでもある。
では、非建設的な批判とはいかなるものか。
それは、相手に一切敬意を払わず、命題を完全に破壊することを目指す批判である。
批判相手がどれだけ愚かであるかを証明すればするほど、相対的に自分は賢いということになる。頭の良さを誇示したい人にとっては、これが一番手っ取り早い。自分で命題を築くよりも、他人のそれを攻撃する方が労力が少ないのである。
また、破壊的な批判を見世物として好む人もいるので、彼等のパフォーマンス(批判)はそれなりに需要がある。批判が激しければ激しいほど、命題の破損具合が高ければ高いほど、パフォーマンスを見学している観客は拍手喝采を送る。
しかし、あとに残されるのはただのガレキの山である。そこには社会に資するものは何一つ残されていない。
批判している当人にしてみれば、有害な対象を駆逐しているつもりなのかもしれない。「俺は言論界の汚れを洗い落とす掃除人なのだ」と。
でも小生は、「せっかく知的労力を使うのであれば、壊すよりも築く方に使えばいいのに」と思わずにはいられない。
思想家の内田樹は、『困難な成熟』の中で、現代の日本人が全体として知的に不調であると指摘し、その対処策として「僕たちに立てられる有効な問いは「どうして私たちはこんなに頭が悪いのか?」という問いだけです」と述べている。これを至言と呼ばずして何と呼ぼう。


自分が選択したこと、自分がやっていること、自分が考えていることの適切さについて第三者的、価値中立的な視点から吟味できないことを僕たちは「頭が悪い」と言います。そして、第三者的、価値中立的な視点から自分自身の推論や判断を吟味するというのは、言い換えると「自分の頭の悪さを点検する」ということなのです。
つまり、「頭の悪さ」と「頭の良さ」を分岐するのは、「自分はもしかすると頭が悪いんじゃないか?」という自己点検の装置が起動しているか起動していないか、それだけの違いなんです。
(内田樹『困難な成熟』夜間飛行)


上記の内田の発言は世代間格差論の文脈から出てきたものではあるが、現代思想に対しても充分当てはめることができる。
論壇紙に寄稿したり、単著を発表したりしている言論人にせよ、ブログにあれこれ好きなこと書き散らしている一般人にせよ、「自分はどうして頭が悪いのか」ではなく「誰々はどうして頭が悪いのか」を証することに躍起になっている。そして先程も述べたように、この手の人々は、現代日本においては多数派を占めているのである。
つまり、みんながみんな築くことより壊すことに汲々とし、ガレキを大量に生み出しては「どいつもこいつもバカばかりだ」と嘆息しているのである。自分で不毛な言論状況をもたらしておきながら、その不毛さを嘆いていれば世話はない。
小生は上から目線で「嘆かわしい」と言えるほどの人物ではないのだが、それでもため息の一つくらいはつきたくなる。
では、この状況を変えるにはどうしたらいいか。
たとえ耳を傾けてくれる人がいなくても、少しでも声が届くことを信じて呼びかけ続けなければならないだろう。
「ねえ、もう壊してばかりはやめようよ」
・・・・・・いや、違う。こんなことを言いたいんじゃない。本当に言いたいのは・・・・・・。
「俺のブログをもっと見てくれーっ。もっと多くの人に見てもらいたーいっ。人気ブロガーになりたーいっ」
・・・・・・ってことなんだよ、うん。