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徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

「懐かしさ」の正体

2019-11-19 21:52:13 | 雑考
宮台真司の『絶望 断念 福音 映画――「社会」から「世界」への架け橋』(メディアファクトリー)を読んでの気付き。
これは社会学者の宮台が、近代成熟期にある日本社会に適応し、生き残っていくための代替的な実存形式のモデルを、映画を中心としたサブカルチャーの中に求めた――平たく言うとつまり、生きづらさを抱えている人たちのために、こういう生き方もあるよっていう指標を提示することを目的とした――評論集である。
2005年公開の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』がヒットした時、不思議な社会現象が生じたことがある。映画の舞台となった時代のことを知らない若者が、「懐かしい」という感情にとらわれたのだ。昭和30年代にはまだ生まれておらず、時代の空気も知らなければ、文物もほとんど見聞きしたことがない若者たちが、なぜか「懐かしい」と感じた。
これまで、この現象を理論的に説明した言説に触れたことはなかった。しかし宮台のこの本の中に、それを見事に説明してくれている箇所があった。
ちなみに、宮台が分析しているのは『ALWAYS 三丁目の夕日』ではなく、鈴木清順監督の『殺しの烙印』(67)なのだが、その理論はそのまま『ALWAYS~』にも当てはめることができる。


「記憶なき世代」は、目に見える個別の文物に「萌えて」いるのではなく、これらの文物の背後に想像される、奥行きのある「昭和30年代的世界」にこそ「萌えて」いる。
(中略)
ある学生が私に述べたことだが、60年代の文物から「60年代的世界」を想像するのは容易でも、80年代の文物から「80年代的世界」を想像するのは困難で、せいぜい80年代のディスコ等を想像するのが関の山だという。
この話で90年代のレトロ・フューチャーのブームを想い出した。要は「未来を懐かしむ」ブームだ。銀色のロケット、テープが回転する電子計算機など、60年代までは「未来」が想像可能だった。「未来」を想像可能だった過去を懐かしむのがレトロ・フューチャーだ。
60年代には生まれていない「記憶なき世代」が、数少ないヒントから「60年代的世界」を想像可能な理由と、60年代には「未来」が想像可能なイメージに溢れていた理由は、同一だろう。実は、そこで想像されているのは、共同体であり、共同体的な共通感覚なのだ。
重化学工業が主要産業だった「近代過渡期」には「モノの豊かさ」という国民的な目標があった。ところが砂利道が舗装され、下水道が整備され、どぶ川は暗渠となり、家には炊飯器・掃除機・洗濯機・テレビが入り、米国製ドラマの如き生活が送れるようになった。
これら耐久消費財が一巡した70年代前半から「近代成熟期」が始まった。もはや「モノの豊かさ」は国民的目標にはなり得ない。そこから先「何が幸いなのか」は人それぞれ分岐し、それゆえに「心の時代」とも呼ばれて、共同体的な共通感覚が急速に失われていく。
更に十年後、お茶の間にテレビが置かれて家族が同じ番組を見た時代が終わる。テレビの個室化と共に歌謡番組やクイズ番組も廃れた。同じ頃、電話の個室化が起こり、家族は各人の個室から各自の別世界(テレクラ!)へと繋がるようになり、動きに拍車が掛かった。
レトロ・フューチャー・ブームの立ち上がりはその数年後。もう明らかだろう。60年代までの先進国には、同じものを同じように見る「体験枠組の共有」があった。社会学的に定義される文字通りの「共同体」があった。憧れられているのは、この「共同体」なのだ。


どうだろうか。
個人的には、すんなり腑に落ちるとまではいかないのだが、これほど説得的な分析は他にはないと思う。

仮想通貨は電脳世界の夢を見るか

2019-11-06 22:01:59 | 雑考
野口悠紀雄の『仮想通貨革命――ビットコインは始まりにすぎない』(ダイヤモンド社)を読んでの気づき。
これは経済学者の野口が、仮想通貨とは何か、どのようなシステムで運営されているか、私たちの暮らしをどう変えるのか、今後はその形態をどう変容させていくのか、について解説した一冊である。野口はこの中で、2014年当時大きく報道された、マウントゴックスの取引停止事件を次のように説明している。


二〇一四年の二月末、ビットコインの私設両替所であるマウントゴックス(Mt. Gox)が取引を停止した。
多くのマスメディアは、これを、ビットコインの取引そのものが停止されたかのように報じた。「取引停止」「ビットコインの脆弱性露呈」等々の見出しが紙面に躍った。
人々は、ビットコインが崩壊したと誤解したことだろう。私の周りの、実にすべての人が、そのように誤解した。
多くの識者のコメントも、「中央銀行なしで通貨制度を維持できるはずがない」という趣旨のものだった。「似非電子マネー円天と同じだ」と誤解した人もいる。報道によれば、麻生太郎財務大臣は、「いつかは崩壊すると思っていた。あんなものが長続きするはずはないと思っていた」と語った。
しかし、崩壊したのは、ビットコインと通貨を交換する両替所の一つにすぎず、ビットコインそのものではなかった。(中略)麻生大臣の言う「あんなもの」が、ビットコインなのかマウントゴックスなのかは明らかでないが、文脈からすれば前者だ。つまり、「ひどい取り違え」である。日本のマスメディアは、ビットコインそのものと、その外にある両替所を混同させるような誤解を広げたのである。
たとえて言えば、つぎのようなことだ。アメリカ旅行から帰ってきて、ドルの使い残しがあった。成田空港の両替所で円にしようとしたら、事故で閉鎖されていた。このことをもって、「ドルは崩壊した」と言うようなものである。
重要なのは、「両替所は、ビットコインの維持システム(取引をブロックチェーンに記録し更新するシステム)の外にある」ということである。両替所はビットコインシステムの利用者であり、運営者ではない。だから、マウントゴックスが破綻しても、ビットコインの運営そのものには影響が及ばない。
システムの外で起きたことがシステムの運営に影響を与えないというのは、日本銀行券についてつぎの事例を考えれば、明らかだ。いま、銀行強盗があって日銀券が盗み出されたとしよう。この場合、「銀行は広い意味での通貨制度の一部だから、日銀券の脆弱性が明らかになった」と言うだろうか?
普通は、そうは言わない。ガードが甘かったのは、被害にあった銀行である。日銀はそこまでは責任を持てない(ましてや、個人が自宅で保管している日銀券の盗難までは、到底責任を持てない)。「これは、日銀券維持システムの外で起きた事件であり、日銀券の信用が失われたわけではない」と考えるのが普通だ。


うーん、実にわかりやすい。
世の中には、新しいものにひとくさり難癖をつけないと気がすまない人や、自分がよく理解できないものはすべて胡散臭いと考えがちな人がいる。そんな人たちにとって、このマウントゴックスの騒動は、「ほらみたことか」とか「ざまあみろ」などと口にしたくなる、留飲の下がる出来事だったんだろうね。
この騒ぎ以降、仮想通貨のこれといった事件は起きていないので、そのシステムはある程度安定しているとみていいだろう。
僕が過去に書いた論考「貨幣は仮想化する以前から仮想であるということ」(2017・10・4)もご一読くださいね。

ガラスの靴なんかいらない

2019-09-05 22:35:53 | 雑考
小谷真理の『おこげノススメ――カルト的男性論』(青土社)を読んでの気付き。
この本は、評論家の小谷がフェミニズムの視点で様々な映画や文学作品を読み解いた評論集である。その中の一章、『Shall We ダンス?』を代表とするダンスを主題とした作品群を取り上げ、ダンスと足の関係を論じた「四〇にしてマドンナ」の中で、小谷は足治療学ウィリアム・A・ロッシの著書『エロチックな足――足と靴の文化史』を引きながら、次のように述べている。


そもそも足とは、肉体的現実を形づくりながら、その一方で歴史的文化的隠喩構造を日夜再構築させつづけている結節点である。ロッシの指摘するエロティックな器官としての足は、まず何よりも足こそ性的器官の代替物として考えられてきた足の歴史を浮かび上がらせた。しかも、しばしば精神分析学的発想から語られ、フロイト自身がコメントを残しているように、「足」とは男性の性的器官を象徴し、「靴」とは女性のそれを象徴する。身近にある素朴なフォークロアでも、男性の性的器官を「第三の足」と呼称する向きもあるが、実際にそうしたシンボリズムは意外に古く、しかも世界各地に出没しているという。したがって、古代エジプトの時代から延々とさまざまなヴァリエーションが収録されている「シンデレラ」という寓話関連の集積体は、フェミニズム批評をほどこすならば、小さな靴という制度に押しこめられ成型されていく女性性の逸話と解釈されるのである。ロッシ自身、第一五章「シンデレラはセクシーな女」のなかで、「シンデレラ」類似の寓話が中国の躔足奨励のプロパガンダとして流布されたという説を紹介しながら、なぜシンデレラがセクシーな女、つまり小さな足でなければならなかったかを考察した。ガラスの靴にフィットする足とは女性の二本の足ならぬ性的器官を意味し、それこそ「小さいことは良いことだ」という男性優位主義的イデオロギーを示唆していた。対する男性の場合、「大きいことが良いこと」であり、男性性の権威を象徴するものであった。


このすぐ後で小谷は「もちろん、フェミニズム理論の進展にともない、何より政治的経済的諸問題から、ハイヒールがスニーカーへと転換を計りつつある現代において、足と靴の関係性は――むろん一掃されたとはいえないにせよ――それほど古典的性差構造を反復しているわけではあるまい」とも述べているがしかし、昨今の就労現場における女性へのパンプスの着用義務付けに反対する「#Ku Too」運動の盛り上がりを見るにつけ、まだまだ問題の根は深いと言わざるを得ないのではないか。
女性をなんらかの「カタ」に嵌めこもうとするのが男性の習い性なのだろうか?ただ、ひとつ注意すべきなのは、「カタ」というのは至る所にあり、真夏にも背広にネクタイを着用しなくてはならないという馬鹿げた「カタ」も未だに健在であるということ。「カタ」に押しこまれているのは女性ばかりではないし、「カタ」があるからといって必ずしもそれが差別的であるというわけでもない。
ただ、ここで言えることは、引用したシンデレラの解釈と「#Ku Too」運動を重ねて考えると、パンプス着用に反対する「#Ku Too」運動の推進者たちは、「私こそはシンデレラ」と、ガラスの靴を自らの足に合わせるべく列をなした玉の輿希望の町娘たちとは異なり、「私たちはシンデレラじゃない/シンデレラを目指さない」と高らかに宣言していることになるだろう。「シンデレラの拒絶」こそが、男女平等のための必要不可欠なステップなのだろうか。
ガラスの靴とは「制度」のことだ。制度の内側にいれば、シンデレラよろしく何不自由のない暮らしが保証される。その窮屈さを我慢する限りにおいて。だが、現在の制度(=パンプスを着用しなければならない職場)は、日本経済の低迷や、社会の不安定化などによって、魅力的なものではなくなってしまった。ならば、無理してガラスの靴を履き続ける理由などない。窮屈な制度に閉じ込められ、足の痛みに耐えねばならない道理などない。
「制度=シンデレラとしての暮らし=パンプス着用の職場」は、もはや現代の女性を「ガラスの靴の内側」に閉じ込めておくことはできない。ある程度の豊かさによって覆い隠されていた女性への押し付け=「カタ」は、不況によってその愚かしさが暴き出されてしまったのだ。
おそらく、「#Ku Too」運動は前触れでしかない。これからも様々な「カタ」の否定が行われるだろう。「スカート履きを義務付けられたくない」とか、「毎日化粧したくない」といった、これまで自明のものとされてきた習慣を拒絶する動きが出てくるであろうと推測される。個人的には、それはいいことだと思う。日本社会には、決まり事=「カタ」が多すぎるからだ。ありとあらゆる場面にマナーや作法や礼儀があって、それに反すれば即座に「非常識」とされるこの社会は、実に息苦しい(僕はこの息苦しさが引きこもりやニートの増加の一因であるとすら思っている)。女性だけでなく、男性もどんどん「カタ」を拒絶するべきだ。「カタ」がなくなれば社会に風穴があく。そうやって風通しをよくしていくべきだ。
「目の前のガラスを割れ!」ってことだね。「ちがうか!」(by.ものいい)

アイ・アム・ロボット

2019-06-28 22:10:15 | 雑考
宇野常寛の『静かなる革命へのブループリント――この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)を読んでの気付き。
これは評論家の宇野と、「産業の、研究の、そしてエンターテインメントの現場で」「これからの日本と社会を変えうる/既に変えている」「静かな革命」を進行させている7人のイノベーターとの対談集である。
この中の、NPO法人フローレンス代表理事の駒崎弘樹との対話で、日本の市民社会についての話題になった時、「西洋近代に範を置くリベラルな学者たち」がよく口にする一般論に反する形で、宇野が次のように述べている。


でも僕のような文化論の人間から言わせると、社会にコミットするときの主体のあり方は、西洋と日本とでは全然違う。たとえば、人が乗り込むロボットって日本にしかないんですよ。
(中略)
ロボットって、定義上は人工知能を持っていないといけないから、マジンガーZやガンガムは本来はロボットではないんです。あれは単に、人の乗り物に過ぎない。


そ、そうなんだ!
些細なことと言えば些細なことなのかもしれないが、これにはけっこう衝撃を受けた。ガンダムはロボットではない!
SF作家アイザック・アシモフが提唱した「ロボット3原則」っていうのがある。第一条が「ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない」、第二条が「ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、命令が第一条に反する場合はこの限りでない」、第三条が「ロボットは、第一条および第二条に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない」。この原則をロボットが遵守しなければならないとされているのだが、そのためには、ロボットが主体的な判断を行えなければならないわけだから、たしかに前提として人工知能が不可欠だ。
前に高校生のロボットコンテスト、通称ロボコンをつかまえて、「こんなのはロボットではない」とぼやいている人がいた。「あれをロボットというのなら、トースターはパンを焼くロボットだし、掃除機はゴミを吸いこむロボットだ」・・・そんな意味のことを話していた。
それを聞いた時、僕は「確かにその通りかもしれないけど、そんな細かいことに目くじら立てなくてもいいじゃないか」と思ったんですけど、仮にその人に「ほんとそうですよね、ガンダムや鉄人28号みたいなのじゃないとロボットとはいえませんよね」って尋ねたら、「当然だろう」って答えてたんじゃないかな。
そうかー、「敵に渡してはいけない大事なリモコン」で動く鉄人28号はラジコンの同類で、ガンダムやマジンガーZは自動車や飛行機の同類なんだね。

ちなみに宇野は、上の引用箇所のあとで、「「自分ではない大きなものに一度同一化して、自分ではなくその依代がコミットする」という日本人の精神性をこれらのロボット・アニメは表しているわけだけど、それってつまりは天皇でしょう?世の中に直接コミットするのではなく、依代に同一化することで社会にコミットするという身体感覚が、日本人にはあるのではないか。」とも述べている。こちらもなかなか示唆深い。

サクラサク?サクラチル?

2019-04-16 21:33:03 | 雑考
皆さんは今年はお花見に行かれましたか?新緑の季節に、桜が大好きな日本人向けの話題をお届け。
今回は福岡伸一の『動的平衡2』(木楽舎)を読んでの発見。
これは生物学者の福岡が、「生物は変化し続けることによって均衡を維持している」という生命観を打ち出した『動的平衡』の続編である。本書も、生命と生物に関する様々な話題が盛り込まれているのだが、その中でソメイヨシノに関する衝撃的な説が紹介されている。


私たちが春に目にする桜のほとんどはソメイヨシノである。この桜は葉よりも花が先に咲き、その満開ぶりが美しいことから、今では日本のあらゆるところにある。
ソメイヨシノは一代雑種である。一代雑種とは異なる系統をかけ合わせて出来る交配種のことで、ソメイヨシノはコマツオトメとオオシマヒガンを交配したもの。その起源は諸説あるが、江戸時代後期に天然の交配が発見されたか、あるいは人為的に作り出された。その後、明治期に入り、江戸の染井村(今の東京都豊島区)の造園業者によって育成され、全国に広まった。
一代雑種は多くの場合、子孫を残す能力が劣ってしまう。ヒョウとライオンのかけ合わせによって作出された一代雑種レオポンは生殖能力がなかった。
(中略)
では、発芽するタネができないのに、日本の春を彩っているソメイヨシノはいったいどのようにして全国に広まっていったのだろうか。それはクローン化による。でもそんなに不気味に思う必要は全然ない。植物のクローンはごく普通の現象である。挿し木、接ぎ木はすべて植物のクローン化である。
(中略)
驚くべきことは、日本のほとんどすべてのソメイヨシノは、もともとたった一本のソメイヨシノに由来するらしいという事実である。北海道のソメイヨシノも九州のソメイヨシノも、DNAを分析してみると同じ特徴(DNA指紋)を持つという。つまり日本のソメイヨシノはすべて同じ個体のクローンだということになる。
ここから様々な憶測が流れ出ることになった。その最大のものは、日本のソメイヨシノは同一のクローンなので、みな同じ寿命を持つのではないかという説である。山に咲く大きなヤマザクラに比べて、ソメイヨシノには老木がない。
近い将来、日本のソメイヨシノは、もとの樹であれ、そこからの挿し木であれ、同じ寿命を迎え一斉に枯れる。(中略)つまり日本の春から桜が消える日が来るのではないか。そういう説である。


このくだりを読んだとき、日本中の桜が消えて無くなる光景を想像してゾッとしてしまった。
ソメイヨシノはすべて同じ個体であるため、同じ場所に植わっているものは、みな一斉に花が咲く。それゆえに開花予想が成立する。この説が正しいとすれば、一斉に開花するのと同じように、一斉に寿命が尽きて枯れてしまう、という事態が起こりうるわけだ。
福岡自身は、「植物は基本的に不死である」ので「私はこの説に与しない」と述べている。しかし、絶対にありえないと言い切れるだろうか。
もちろんソメイヨシノだけが桜ではないので、ソメイヨシノの消滅イコール桜の消滅ではない。だけど、桜と言えばソメイヨシノというくらい、現代の日本人にとってソメイヨシノはなじみ深い。そんな状況において、もしソメイヨシノが絶滅してしまえば、日本人の桜に対する意識や、お花見の習慣、そして春のイメージは、大きな変容を余儀なくされてしまうかもしれない。