徳丸無明のブログ

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ガラスの靴なんかいらない

2019-09-05 22:35:53 | 雑考
小谷真理の『おこげノススメ――カルト的男性論』(青土社)を読んでの気付き。
この本は、評論家の小谷がフェミニズムの視点で様々な映画や文学作品を読み解いた評論集である。その中の一章、『Shall We ダンス?』を代表とするダンスを主題とした作品群を取り上げ、ダンスと足の関係を論じた「四〇にしてマドンナ」の中で、小谷は足治療学ウィリアム・A・ロッシの著書『エロチックな足――足と靴の文化史』を引きながら、次のように述べている。


そもそも足とは、肉体的現実を形づくりながら、その一方で歴史的文化的隠喩構造を日夜再構築させつづけている結節点である。ロッシの指摘するエロティックな器官としての足は、まず何よりも足こそ性的器官の代替物として考えられてきた足の歴史を浮かび上がらせた。しかも、しばしば精神分析学的発想から語られ、フロイト自身がコメントを残しているように、「足」とは男性の性的器官を象徴し、「靴」とは女性のそれを象徴する。身近にある素朴なフォークロアでも、男性の性的器官を「第三の足」と呼称する向きもあるが、実際にそうしたシンボリズムは意外に古く、しかも世界各地に出没しているという。したがって、古代エジプトの時代から延々とさまざまなヴァリエーションが収録されている「シンデレラ」という寓話関連の集積体は、フェミニズム批評をほどこすならば、小さな靴という制度に押しこめられ成型されていく女性性の逸話と解釈されるのである。ロッシ自身、第一五章「シンデレラはセクシーな女」のなかで、「シンデレラ」類似の寓話が中国の躔足奨励のプロパガンダとして流布されたという説を紹介しながら、なぜシンデレラがセクシーな女、つまり小さな足でなければならなかったかを考察した。ガラスの靴にフィットする足とは女性の二本の足ならぬ性的器官を意味し、それこそ「小さいことは良いことだ」という男性優位主義的イデオロギーを示唆していた。対する男性の場合、「大きいことが良いこと」であり、男性性の権威を象徴するものであった。


このすぐ後で小谷は「もちろん、フェミニズム理論の進展にともない、何より政治的経済的諸問題から、ハイヒールがスニーカーへと転換を計りつつある現代において、足と靴の関係性は――むろん一掃されたとはいえないにせよ――それほど古典的性差構造を反復しているわけではあるまい」とも述べているがしかし、昨今の就労現場における女性へのパンプスの着用義務付けに反対する「#Ku Too」運動の盛り上がりを見るにつけ、まだまだ問題の根は深いと言わざるを得ないのではないか。
女性をなんらかの「カタ」に嵌めこもうとするのが男性の習い性なのだろうか?ただ、ひとつ注意すべきなのは、「カタ」というのは至る所にあり、真夏にも背広にネクタイを着用しなくてはならないという馬鹿げた「カタ」も未だに健在であるということ。「カタ」に押しこまれているのは女性ばかりではないし、「カタ」があるからといって必ずしもそれが差別的であるというわけでもない。
ただ、ここで言えることは、引用したシンデレラの解釈と「#Ku Too」運動を重ねて考えると、パンプス着用に反対する「#Ku Too」運動の推進者たちは、「私こそはシンデレラ」と、ガラスの靴を自らの足に合わせるべく列をなした玉の輿希望の町娘たちとは異なり、「私たちはシンデレラじゃない/シンデレラを目指さない」と高らかに宣言していることになるだろう。「シンデレラの拒絶」こそが、男女平等のための必要不可欠なステップなのだろうか。
ガラスの靴とは「制度」のことだ。制度の内側にいれば、シンデレラよろしく何不自由のない暮らしが保証される。その窮屈さを我慢する限りにおいて。だが、現在の制度(=パンプスを着用しなければならない職場)は、日本経済の低迷や、社会の不安定化などによって、魅力的なものではなくなってしまった。ならば、無理してガラスの靴を履き続ける理由などない。窮屈な制度に閉じ込められ、足の痛みに耐えねばならない道理などない。
「制度=シンデレラとしての暮らし=パンプス着用の職場」は、もはや現代の女性を「ガラスの靴の内側」に閉じ込めておくことはできない。ある程度の豊かさによって覆い隠されていた女性への押し付け=「カタ」は、不況によってその愚かしさが暴き出されてしまったのだ。
おそらく、「#Ku Too」運動は前触れでしかない。これからも様々な「カタ」の否定が行われるだろう。「スカート履きを義務付けられたくない」とか、「毎日化粧したくない」といった、これまで自明のものとされてきた習慣を拒絶する動きが出てくるであろうと推測される。個人的には、それはいいことだと思う。日本社会には、決まり事=「カタ」が多すぎるからだ。ありとあらゆる場面にマナーや作法や礼儀があって、それに反すれば即座に「非常識」とされるこの社会は、実に息苦しい(僕はこの息苦しさが引きこもりやニートの増加の一因であるとすら思っている)。女性だけでなく、男性もどんどん「カタ」を拒絶するべきだ。「カタ」がなくなれば社会に風穴があく。そうやって風通しをよくしていくべきだ。
「目の前のガラスを割れ!」ってことだね。「ちがうか!」(by.ものいい)


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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
足がエロいかどうかは別として (和田ヶゐ)
2019-09-05 22:59:25
シンデレラの足が小さいことをはじめて知った(@_@)
和田ヶゐさん江 (徳丸無明)
2019-09-06 22:18:35
物理的な小ささというより、制度的・象徴的な小ささといったほうが正確かもしれませんね。
中国の纏足が典型ですけど、エロスの追求として小さい足を望んだのではなく、抑圧・管理のしやすさとして小さい足を求め、のちにそこからエロスを見出すようになった、ということではないかと。
なるほど (和田ヶゐ)
2019-09-06 23:05:21
ただ、シンデレラの話からはエロスは感じなかった悲しみ(@_@)
和田ヶゐさん江 (徳丸無明)
2019-09-07 22:44:41
ひとつには、僕らが見聞きする昔話というのは、民間に語り継がれていた物語を子供向けの形にアレンジした「童話」だということ。
グリムもアンデルセンもそうですけど、編纂の過程で「猥褻」や「残酷」の要素は注意深く削除されます。
もうひとつは、僕の見立てが正しいとするなら、「小さい足にエロスを感じる男=女を抑圧・管理するのを良しとする人」ということになります。
なので、和田さんは女性の抑圧・管理に批判的だからシンデレラにエロスを感じないのではないかと。
いや!!多分!!! (和田ヶゐ)
2019-09-07 23:16:45
シンデレラの露出が全然少ないからだと思います!!!(@_@)
和田ヶゐさん江 (徳丸無明)
2019-09-08 23:02:18
たしかに、単純に露出の度合いの問題でもあるのかもしれませんね。
でも、唇やうなじといった部分にエロスを感じる人もいるように、露出とエロスは必ずしも相関関係にないんですよね。
「裸より服を着てるほうがいやらしい」って人もいますので。
確かに・・・ (和田ヶゐ)
2019-09-10 22:52:33
なら多分、ちょっと子供じみてるからかな?(@_@)
和田ヶゐさん江 (徳丸無明)
2019-09-11 22:36:42
まああくまで感覚や嗜好は人それぞれなわけですが。

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