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徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

顔、この動的なるもの

2020-06-09 21:52:25 | 雑考
佐々木正人の『からだ――認識の原点』(東京大学出版会)を読んでの気付き。
これは認知心理学者の佐々木が、「誰もがこの手でふれることのできる日常的な「からだ」が、知ること、考えることといった認識の世界と深くかかわりあっていることを明らかにする」ために、「いつも分析の対象として「語られる」ものであった」からだ自身に、認識の世界について「語らせた」・・・平たく言えば「からだ感」の刷新を図った本である。
この中で、『百年の孤独』の作者ガルシア・マルケスのルポルタージュ『戒厳令下チリ潜入記』に記された、映画監督ミゲル・リティンの事例が取り上げられている。リティンは、軍政下にあるチリに密入国するため、自分自身に徹底した身体加工を施した。さらに、チリの反体制組織から派遣された2人の心理学者らによって、「金持ちのウルグアイ人にふさわしい話し方、歩き方、身振りのすべて」をたたきこまれた。
外見上リティンはまったく別人になり、変装は成功したかに思えた。しかし変装のエキスパートたちは、リティンに「笑ったら死ぬぞ」と忠告する。
このエピソードの紹介のあとに佐々木は、我々が他者の顔に見ているものは、静止した顔ではなく、表情をつくりだす表面の動きのほうなのだとして、次のように述べている。


顔の印象にとってその動きの要素が、いかに本質的な部分を成しているかは簡単に内省することができる。毎日会っている家族、あるいは懐かしい誰かでもいい、いま目の前に居ない者の顔を思い出して見ると容易にわかることだが、我々が知識として持っている「顔」はいつも、いくばくかの表情を帯びている。表情のない顔と言うものを思い浮かべることはできない。たしかに無表情という表情もあるが、それも動きが顔につくりだす表情の一種だろう。顔の見えはいつも表情のなか、すなわち動きのなかにある。しかし、顔面の筋肉の表情をつくるための動きはあまりにも微妙である。通常、我々は顔を見るということが、その動きを見ることでもあることに気づかない。我々が表情と呼ぶ顔のもっとも本質的な特徴のひとつが、動きに他ならないことを忘れている。


僕は自分の写真を見るときに、いつも感じている違和感がある。そこに写っているのが自分自身であるのは理解できるのだが、しかし自分ではないような気もするというか、普段鏡で見る自分の姿とは決定的に異なっているように見えるのである。(厳密には鏡に映った顔も自分の顔ではないのだが、話がややこしくなるのでそこは措く)
顔というものが、佐々木が指摘するように、常に変転し続ける動的なものだとするならば、「動き」を剥奪された顔はすでに、顔の特徴を備えていないことになる。
世の中には、写真を撮られることをひどく嫌う人がいる。そして、「自分は写真うつりが悪い」と称する人もいる。これらの人々は、「動きを剥奪された顔」に、強い違和感を感じずにはいられないのではないだろうか。動きのない顔に、言いようのない不気味さを感じてしまい、それをうまく言語化できないから写真を遠ざけようとするのではないだろうか。
写真は不気味だ。「心霊写真」というジャンルもある。それは詐術者が日銭を稼ぐ手管として、あるいはひねくれ者の現実逃避の受け皿としてあるのかもしれない。3つの点の集合を人の顔と認識してしまうシミュラクラ現象で説明するのも可能だ。しかしひょっとしたら、写真の持つ本来的な不気味さが局所的に集約されたものが心霊写真であるのかもしれないのだ。
写真によって切り取られ、永遠の静止空間に閉じ込められた顔は、顔であって、顔ではない。しかし、それは一体なんなのだろう。

ダメ、ゼッタイ?

2020-04-21 22:00:14 | 雑考
鶴見済の『檻のなかのダンス』(太田出版)を読んでの気付き。
これは社会問題にもなった『完全自殺マニュアル』で知られるフリーライター(当時)の鶴見が、自身の覚醒剤所持による逮捕の体験記を中心に、ダンス、レイヴ、ドラッグ、神経症などにかんするルポとコラムを収録したエッセイ集である。その一節「青少年のための覚醒剤入門」の中に、次のような記述がある。


覚醒剤と言えば「一度手を出したらやめられなくなり、いずれ幻覚・妄想や凶悪犯罪に行き着く」恐怖のクスリのはずだ。(中略)なのに錯乱してるヤツとか、覚醒剤凶悪犯なんて全然いないのはなぜなんだ?
実は「覚醒剤=幻覚・妄想・凶悪犯罪」というのは、世界でも日本だけの“常識”なのだ。ヨーロッパへ行ってドラッグの本や雑誌を見て気づいたが、薬害としての「幻覚・妄想」は「不眠」なんかと一緒に「やめて数日寝れば治る」と軽く扱われていた。これが欧米の研究者の一般的な見方なのだ。
しかし日本の研究者だけが、「幻覚・妄想は少しずつ蝕まれた脳の致命的な損傷のせい」という独自の説を主張しつづけて、国際学会でも孤立しているらしい。しかもその説は、50年代のヒロポン・ブームの頃、つまり脳のことなど何もわかっていない時代に、特に根拠もなく提唱されたものだ。
確かに幻覚・妄想が長引いたり再発する人はいるし、それは欧米でも認められている。「パーセンテージ」の問題なのだ。おそらく使用者全体の1%未満であろう幻覚・妄想例や、さらにその1割程度の「再発(フラッシュ・バック)」の症例ばかりを取り上げて発表しまくり(欧米ではむしろ、覚醒剤によるフラッシュ・バックは否定されている)、専門書をよーく見ると「(幻覚・妄想の)80%を超える大部分の患者は断薬により1ヵ月以内(その多くは10日以内)に精神病像が消褪する」なんて書いてあるわけだ。
「再発」ケースにこだわる理由はまず、最初に「脳の損傷説」を唱えた人が、今も日本の覚醒剤研究の神様扱いで、今さらそれが間違いだとは言えないから。引くに引けず、その説に合うような再発例ばかり調べてるわけ。
さらに大きな理由は、そもそも研究者が撲滅運動をやっているから。それなら「寝れば治る」より「致命的」のほうが都合がいい。これはもう研究というより「撲滅運動」の一環なのだ。世界では相手にされない説でも、何も知らない国民に信じさせるのは簡単だ。こうして悲惨な例ばかり、さらに誇張して徹底的に広め、今あるイメージを作り上げたのだ。
(中略)
では、なぜチェック機能が働かないのか?運動組織の構造を見ればわかりやすい。
撲滅運動は、厚生省、警察庁、研究者集団が三位一体となって推進されている。犯罪に関する情報は警察が握り、医学・薬理学的情報は研究者集団が厚生省の研究費で作り出す。つまり覚醒剤に関する情報はここに集中してしまっているため、外からのチェックができず、それを信じるしかなく、自由自在な世論操作、法改正、捜査・逮捕、重罰化・・・等々ができるようになってるのだ。


ほかにも気になった個所をいくつか抜き出しておく。

・鶴見の計算によると、薬物使用者のうち事件や事故を起こすのは全体の0.1%未満で、しかもその大半が「やり取りをめぐって刺したとか、買うカネほしさに盗んだとか」いう、薬物の直接の影響とは言えないものだそう。

・オランダの大学で一般人を対象に毎年行ってるアンケートによれば、覚醒剤の「生涯使用率」は例年4%くらいで、「ここ1年の使用率」は例年0.1%くらい。つまり、クスリを切らさず使い続けてる人は少数派で、大半は休み休み長期間使っているとのこと。酒と同じように「みんな中毒にもならずに一生」使い続けているらしい。

・戦時中に国が軍と工場で半ば強制的にやらせていた覚醒剤の残りが、戦後民間に放出されヒロポンブームになった、という歴史的事実も紹介されている。初めて聞いたぞ、そんなの。

・覚醒剤の依存度はアルコールより高いものの、アルコールは「中毒になると幻覚・妄想や凶悪犯罪も誘発するし、さらには痴呆になったり、内臓がやられたりする」のに、飲酒は禁止されておらず、社会も乱れていないのはなぜなのか、という問いかけもなされている。

・また、精神依存は思い込みに影響されるため、「手を出したらやめられない」と思えばやめられなくなるし、「被害妄想になる」と思えばそうなるという。薬物を遠ざけるために喧伝されてるイメージが精神依存を作り出しているというのだ。


さて、この主張をどう受け止めたらいいのだろう。
僕は以前の時事「これが薬物中毒者の生きる道?」(2・15)の中で、薬物の使用が「もし刑法で罰せられることなく、野放しにされているならば、大酒飲みやギャンブル狂いなんかと同じように、「ちょっと困ったところのある人」と認識される程度で、よっぽどの社会的逸脱がない限りは周囲に許容されてなんとか生きていけるはず」だと述べた。その考えは、基本的に変わらない。
著名人を例に見ればいい。清原和博、ピエール瀧、沢尻エリカ。この3者は、種類は違えど、薬物を長期間使用していた点で共通している。そして、長期間の使用にもかかわらず、錯乱することなく、社会人としてまともな活動を続けていた(キヨとエリカ様は言動に困ったところのある人だったが、それは彼らの性格に起因するもので、薬物の影響ではない)。もし逮捕されていなければ、芸能活動・音楽活動を今も変わらず続けていて、それでなんの問題もなかったはずだ。
ただこれまでは、「薬物使用者」と「薬物中毒者」を混同していたので、そこは訂正したい。お酒が好きな人がみんなアルコール中毒ではないように、薬物使用者の全員が薬物中毒なわけではない。

以上の議論を踏まえても、にわかに「覚醒剤OK!」とは言えまい。鶴見の見解も、あくまで特定の立場の意見に過ぎない。
ただ、ひとつだけはっきり言えることがある。法律だから、決まり事だからといって、無批判的に正しいと信じこむのは馬鹿げている、ということだ。
「悪法も法」と言ったのはソクラテスだが、法律は人為的に作成されたものであり、だからこそ人間と同じように誤りうるし、なんらかの偏向が入り込むことがある。法律で禁止されているというだけで、絶対にその禁を犯してはならず、反した者はみな非難に値すると考えるのは、法律を盲目的に崇拝しているに等しい。
僕は法律の奴隷ではない。国家の奴隷でもない。法律を、法律だからというだけで信奉するつもりはない。
何も考えずに法律を受け入れている人たちは、法律の隷従者である。「法律様、法律様」とペコペコしているのだ。拝跪したい人はしていればいいと思うが、僕はついていけない。
鶴見も指摘していることだが、覚醒剤の使用は50年くらいの間で「強制→合法→微罪→重罪」と変化しているわけで、つまりは為政者の思惑次第でいくらでも改正しうるものなのだ。
麻薬を合法化するか否かといった議論は議論として、それとは別に、法律を批判的・懐疑的なまなざしで注視することは忘れるべきではないだろう。

タイトスカートの政治学

2020-03-03 22:45:23 | 雑考
石井達朗の『異装のセクシャリティ――人は性をこえられるか』(新宿書房)を読んでの気付き。
これは慶應義塾大学教授で演劇論を専攻している石井が、男装や女装といった“異装”を、おもに演劇の場を中心として、LGBTらセクシャルマイノリティの問題なども絡めて描き出した本である。
石井はこの中で、服装には男女間で明確な性差があるのがどの文明にも普遍的にみられるが、おもに日本を含めた欧米では、20世紀初頭の服装革命以降、1960年代以来の女性運動を経て、徐々に女性が男性の服装を着こなすようになったことに触れ、次のように述べている。


女性の服は確かにひと頃より自由になった。しかし、その自由さに逆行しそうな現象が一方にはあることも確かだ。長髪を更に引き立たせるストレート・パーマ、ハイヒールにタイトスカート――このような出で立ちで職場で働く女性は、自分が女性であるという強力な信号を発しているが、男性に比べて可動性の点ではるかに劣るその服装は、自分は男ほど仕事をできる立場にいない、という暗黙のサインも同時に送っている。


以前の雑考「ガラスの靴なんかいらない」(2019・9・5)にもつながってくる話だが、このくだりを読んだとき、幼少のころの疑問を思い出した。小学校に入る前から、女性のタイトスカート姿を見て、「なぜこんな窮屈な格好をしてるんだろう。足を動かしにくいはずなのに、よく我慢できるな」と不思議に思っていたのだ。
「ガラスの靴なんかいらない」では、「#KuToo」に言及した。そこで、「#KuToo運動は職場でのヒールの着用義務に異を唱えているが、今後はさらに拡がりを見せ、化粧やスカートなどの規定にも異議申し立てしていくだろうし、そうなるべきだ」と述べたが、この本を読んでその思いがさらに強くなった。
動きにくい服装こそが女性らしい服装であるとされているのは、男性側からの「性の政治学」による、巧妙な印象操作なのではないか。美的であるとか、セクシーだとかの甘言によって、女性を劣位に置きたいという願望を覆い隠し、ヒールやタイトスカートを良きものとして受け入れさせてきたのではないか。
しかしながら、これを悪しきものとして一掃することができないのは、たしかにヒールもタイトスカートも美的であって、女性の魅力を引き立てているのは間違いないからであり、また、女性の側の多くもこれを好意的に取り入れているからである。安易に「男女同権にもとるからダメだ」とするなら、単細胞のフェミニストの烙印を免れることはできないだろう。
やはり問題は、そうと気付かせないうちに男女の非対称性を助長・かつ固定化する制度の存在のほうにある。ヒールにせよタイトスカートにせよ、着用を義務付けられていることが女性性の抑圧のもとなのであって、問題は「選べない」という制度のほうにある。
ヒールもタイトスカートも、着用したい人はすればいい。義務化するから抑圧になる。
女性が自分の好み・感性に応じて、自らの選択でヒールとタイトスカートを身に着けるようになるとき、そのときにこそ、“女性らしさ”は純粋に美的な輝きを放つようになるはずだ。

つまらない正しさと楽しい嘘

2020-02-11 22:32:03 | 雑考
宮台真司の『正義から享楽へ――映画は近代の幻を暴く』(blueprint)を読んでの気付き。
これは以前の雑考「「懐かしさ」の正体」(2019・11・19)で取り上げた『絶望 断念 福音 映画』に続く、――間に『〈世界〉はそもそもデタラメである』を挟んだ――宮台の実存映画批評シリーズ第3弾である。
本書のあとがきで、宮台は2016年のアメリカ大統領選の際、ドナルド・トランプの当選を希望していたと明かす。そしてその理由のひとつが「正しいだけで楽しくないリベラルの愚昧への気付き」であったとして、詳細を次のように述べている。


世界中でリベラルや左翼が退潮する理由は簡単だ。「正しいけど、つまらない」からである。「正義」の軸と「享楽」の軸がある。「正しさ」と「楽しさ」と言ってもいい。昨今のリベラルは「正しいけど、つまらない」。享楽が欠けているという事実に鈍感なのだ。
河野太郎と洋平の区別も付かずに河野談話問題で太郎を批判するウヨ豚や、発言の75%が事実無根との調査もあるトランプを支持するオルタナ右翼を持ち出す迄もなく、享楽に向けた(疑似)共同性の樹立が賭けられている以上、「正しくない!」との批判は痛くも痒くもない。
正義と享楽の一致は稀だというこの問題を、伝統的な大衆社会論が主題化してきた。一致の条件は分厚い中間層が支えるソーシャル・キャピタル(人間関係資本)だ。仲間に自分が埋め込まれているという感覚があれば、仲間を傷つける連中に憤ることが、正義であり享楽になる。
中間層が空洞化し、個人が分断され孤立した状態で、貧困化「しつつある」との脅えがある場合、正義と享楽は分離し、正義ならぬ享楽へとコミットするようになる。「権威主義的パーソナリティ」を論じたフロムが、絶対的貧困度とは別に見出した全体主義の主観的条件だ。
だから、中間層が分解「していく」過程では、自動的にリベラルよりもウヨクが有利になる。この流れの中で「正しさ」に固執すると、“「正しさ」を口実にマウンティングしたいだけの浅ましい輩”に見える。それが分からずに「正しくない!」と批判し続けるだけならば、能天気だ。
夏の参院選で解散したSEALDsの奥田愛基氏――大学入学前から知り合い――に言ってきたのは、人々が「正しさ」から離れているのは、「正しさ」をベースにマウンティングするだけで、周囲に少しも「享楽」の輪を拡げられない〈クソ左翼〉のせいだ、ということだ。
私は言ってきた。必要なのは「正義」と「享楽」の一致だ。でも「正しいけど、楽しくもある」じゃ駄目。「楽しいけど、正しくもある」が必要だ。多くの人は鬱屈して「享楽」が欲しいのだから「同じ楽しむなら、正しい方がいいぜ、続くし」と巻き込むのがベストだ、と。


ポスト・トゥルースが進行する理由がまたひとつわかった気がする。フェイクニュースなんて楽しさ満載だもんね。
でもさ・・・楽しさと正しさの両立って難しくない?

左は何をする人ぞ

2020-01-28 21:30:21 | 雑考
國分功一郎と互盛央の『いつもそばには本があった。』(講談社選書メチエ)を読んでの気付き。
これは哲学者の國分と、言語学者の互が、これまでに読んできた書物を、それにまつわる思い出とともに往復書簡形式で書き綴った本である。この中で、話題が国家に及んだ時、國分が次のように発言している。


たとえば、今となっては信じられないだろうが、私が学生の頃〔引用者注・1990年代中頃〕は終身雇用制度が批判されていた。とある有名な経済学者が終身雇用制度は悪くないと言っているという話を聞いて、「そうか、そういう見方もあるのか」と思ったのをよく覚えている。
つまり、安定がくびきと感じられていた時代なのであり、社会の流動性を高めることが重要課題であると考えられていた。批判的勢力、いわゆる左派もまたこの安定の中にいた。国家は個人の自由を縛る存在として考えられており、その権力をとにかく批判することが左派の課題だった。


んん・・・、そうなのか?
2000年代に小泉純一郎政権が推し進めた「聖域なき構造改革」と称する規制緩和によって、派遣社員やフリーターなどの非正規雇用が増大した。「下流」が流行語になり、格差やワーキングプアが社会問題として大きく取り沙汰されるようになった。
これら雇用形態とそれに基づく経済状況は、自民党政権下にもたらされたものであり、だから右派の責任とされている。自民党が、おそらくは経団連あたりの要請を受けて推し進めてきたことであって、貧しい若者が増加しているのは右派のせいだと。
しかし、だ。2000年代に先立つ1990年代に左派が終身雇用制度を批判していたのだとすると、それは「聖域なき構造改革」を受け入れるための下地作りをしていた、ということになるのではないか。具体的な雇用政策を決定したのは右派(=自民党)である。しかし、その政策を国民が了承するための「時代の空気」を左派があらかじめ用意していたとするならどうだろう。
左派が終身雇用制度を批判していたからこそ「聖域なき構造改革」がありえたということにならないだろうか。非正規雇用が増大した現在の雇用状況は、左派と右派の共同作業によって形作られた、ということにならないだろうか。
一般的には経済成長を優先し、国民(労働者)の暮らしを軽んじた保守反動のせいで今があるというふうに思われているし、現在の左派もそう喧伝しているが、それは正しくないのではないか。左派にも少なからずその責任があるのではないか。
今述べたように、現在の左派は右派(=自民党)の過去の雇用政策を批判しているし、経済格差を是正すべく正規雇用の増大を訴えてもいる。しかし、それがもともと自分たちの求めていたものだったとするならば。
たしかに、〈終身雇用制度の解体=所得の減少〉ではない。あくまで左派が望んでいたのは「雇用の流動化」であって、「労働者の収入減」ではなかったのだろう。だが、勤務年数が長くなるほど年収が多くなる年功序列の終身雇用制を基盤として安定的な所得が生み出されていたのだから、そこを突き崩せば必然的に労働者の収入も不安定化する、というのは容易に想像できることだ。左派は、そんなことも気づかずに終身雇用制を批判していたのだろうか。
仮にこの先、現在の左派が望むように正規雇用が増加したならばどうだろう。彼らはまた、過去の自分たちの発言をコロリと忘れて終身雇用制度の解体を呼号するのだろうか。
忘却とは恐ろしいものだ。「総括」や「自己批判」といった言葉は新左翼の凋落とともに忘れ去られてしまったのかもしれない。