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徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

『砂の器』の名前の話

2019-04-02 23:14:27 | 雑考
大澤真幸の『現実の向こう』(春秋社)を読んでの発見。
この本は社会学者の大澤が、2004年の春から夏にかけて、東京の神田三省堂と池袋ジュンク堂で、「現代」をテーマに行った講演を収録したものである。その内容は多岐にわたっているのだが、松本清張の『砂の器』に言及している箇所がある。つい先月にも東山紀之主演でドラマ化された、国民作家である清張の代表作については、いちいちあらすじを説明するまでもないと思うので、省略させていただく(ご存じなければ各自調べたうえでお読みください)。大澤は、2004年に制作されたドラマ版の『砂の器』をみて、今まで誰も気付かなかった原作の秘密を発見したという。以下にその箇所を引用するが、今回はほぼ引用のみで、僕の私見は付け加えられておらず、また、引用がだいぶ長いことをあらかじめお断りしておく。
大澤は、登場人物の名前に注目し、2004年のドラマでは、原作からの名前の変更がいくつか見られると表をあげて指摘する。


原作(1961年) → ドラマ(2004年)

和賀英良 → 和賀英良・犯人(若手音楽家)
本浦千代吉 → 本浦千代吉・父
成瀬リエ子 → 成瀬あさみ・恋人
田所佐知子 → 田所綾香・婚約者
関川重雄 → 関川雄介・ライバル(評論家)
三浦恵美子 → 扇原玲子・ライバルの恋人
今西栄太郎 → 今西修一郎・刑事
吉村弘 → 吉村雅哉・刑事部下
三木謙一 → 三木謙一・犠牲者(元巡査)


中心人物の「和賀英良」という名前は、原作もドラマも同じです。でも成瀬の名前は、原作では「あさみ」じゃない。「リエ子」です。婚約者もドラマでは田所「綾香」ですが、原作では「佐知子」だった。ドラマの脚本家が、名前を変えたくなる気持ちはわかりますね。一九六一年の原作なので、たとえば、女性には「子」がつく名前が多かったりして、なんとなく古めかしい。二〇〇四年らしくするために、今ふうの名前に変えているわけです。名前が変わったのは、女性だけではありません。たとえば、和賀のライバル関川は、原作では「重雄」ですが、ドラマでは「雄介」に、中心的な刑事は、今西「栄太郎」から今西「修一郎」に、それぞれ変わっている。
(中略)
変わらなかった人はほんのわずかしかいません。変わらなかった最大の人は、和賀英良その人です。
現代の脚本家が、この名前を変えなかった気持ちもよくわかりますね。「和賀英良」。カッコいい名前です。これが古めかしい名前なら「もっとカッコつけたほうがいいんじゃないの、音楽家だしさあ」みたいなことになったかもしれないけれど、その必要はまったくない。
しかし、こう考えたとたんに、僕には、ひとつの疑問が浮かんできたんです。このようになるということは、和賀の名前は、一九六一年の段階で相当モダンな名前だったということです。(中略)いまでも「英良(えいりょう)」なんて、そうある名前ではない。ほかのみんなは一九六一年っぽい名前だから、いま見ると何か変えざるをえないというので、和賀と並ぶ主人公格の刑事の名前ですら変わっているのに、和賀だけは、「いいじゃん。一番大事な人だしさあ、カッコいい名前だし、いまでも通用するよ」ということになる。
そこで逆に、疑問が生じてしまうのです。松本清張はなぜ、犯人にこんな名前をつけたんだろう。他の人は六一年っぽい名前なのに、この犯人にはきわめて変わった、言ってみれば奇抜な名前をつけたことになる。
しかもさらに考えてみると、この名前は、ストーリーの上で、たいへん不自然な名前だということに気づきます。ドラマでは他人になりかわるという方法で戸籍をつくりますけれど、原作では、大阪の某地区が空襲で壊滅し、役所の資料も焼失する。それに乗じて、「和賀英良」という架空の名前で届けでて、そのまま戸籍ができたことになっている。つまり、「和賀英良」というのは、ドラマの本浦秀夫にとっては、与えられた名前ですが、原作の方では、自分が創作した名前です。
そこで本浦秀夫の気持ちになってほしい。自分のニセの戸籍をつくるとき、「私の名前は和賀英良です」というだろうか。考えてみると変です。そういうシチュエーションで自分が名前をつくるとしたら、絶対、平凡な名前にするはずです。そうでしょ。だって、いくら激しい空爆を受けたところだとしても、何人か生き延びているかもしれない。どこかに、その地区のことに詳しい人がいるかもしれない。そんなとき「和賀」なんて、結構めずらしい苗字ですから、「和賀さんって家、あったっけ?記憶にないぞ」ということになる。「和賀英良」なんていう個性的な名前にしてしまえば、生き延びた町内会長が、「町内には和賀なんて苗字の人はいなかった」とか、たまたま生存した同じ年頃の人が、「同級生に英良君なんていう人はいなかったぞ」とか、いうかもしれない。こんなときには、絶対に、平凡で、埋没しやすい名前をつくるはずです。(中略)
そこで、僕は思う。松本清張はこの名前にこだわったのだ。この名前に、どうしても、したかったのだ。松本清張には、ミステリーの筋の自然さを犠牲にしてでも、どうしてもこの名前にしたかった、何か理由があったのだ。
そして、僕は、松本清張の熱心なファンである脚本家や番組のスタッフたちが見逃した、名前に隠されている決定的に重大な秘密を、ついに発見したのです。(中略)
鍵は、「英良」を「えいりょう」と音読みにするところにある。よく考えてみれば、この字であれば、普通だったら「ひでよし」でしょう。こういうふうに音読みするのは「吉本隆明」を「よしもと・りゅうめい」と呼ぶように、よく知らない人が相手を呼ぶときに使うもので、僕(大澤真幸)も「おおわさ・しんこう」なんて呼ばれることもある。だけど、友だちだったら「しんこう」くん、なんてことはまずいわない。吉本さんも「たかあき」さんであって、「りゅうめい」さんとは、近しい人はいわない。とすると、「和賀英良」も、普通は「ひでよし」なんですよ。ということは、松本清張はこの名前の読みかたにもこだわったわけです。
実は、この名前には、原作にしか通用しない寓意がこめられているのです。(中略)
松本清張は読みにこだわったわけだから、名前を、ローマ字で書いてみる。

  WAGA EIRYO

これから「R」を脱落させてみます。そうすると、

  WAGA EIYO

になる。これは、

  わが栄誉

と読めます。つまり、「和賀英良(わがえいりょう)」とは、「わが栄誉」に「R」が混入した名前なのです。それならば、「R」とは何か。もちろん「癩(RAI)病」の頭文字の「R」なんです。つまりこの名前には、「癩病」の痕跡が混入しているがために、「わが栄誉」が台なしになってしまったという寓意がこめられているのですよ。これこそ、この作品のストーリーそのものではないですか。
つまり、「和賀英良」という名前は、父との関係を断つために創作されたものなのですが、結局は、父の痕跡を、父の幽霊を、その内部に留めているわけです。この名前は、和賀が、結局は、父の呪縛から逃れ得なかったことを、暗に示していることになる。そして、父こそ、父との放浪こそが、結局は、三木謙一との関係を作り出し、また三木を過去から呼び寄せていることを思えば、「R」は、あの死者が、戦前・戦中の死者が、和賀にとりついていることの徴ではないでしょうか。


松本清張ファンに「どうよ?」と聞かせてみたい話である。

桃太郎はなぜ桃から生まれたのか

2019-02-28 23:20:04 | 雑考
外山滋比古の『お山の大将』(みすず書房)を読んでの気付き。
同書はエッセイで、著者の外山は英文学を専門とする、大学教授や評論家も務める文学博士で、おもにベストセラーになった『思考の整理学』で知られている。外山は、この本に収録された「気はやさしくて、チカラモチ・・・・・・されど」の中で、「昔の話にはPRを目的としたらしいものがすくなくない」として、おとぎ話の桃太郎を次のように分析してみせる。


川から流れてきた桃をおばあさんがひろってくる。(中略)
流れてきたのはくだものではなくて、女性だったとしたらどうか。流れものと言っては人聞きが悪いが、よそから迎えたお嫁さんというように考えれば、さしさわりがない。モモとは桃のことではなくて、人間の体の一部のことだと思ってみてはいかが。
(中略)
どうして流れてきた女、遠くからのお嫁さんがいいのか。
同じ部族の間で代々、同族が結婚を重ねていると、生まれる子が虚弱になりやすい。危険である。いまの法律が三等親以内の婚姻を禁じているのも、そのためである。同種繁殖(インブリーディング)がよくないというのは優生学の常識であるが、大昔から、そんなことがわかっていたわけがない。
いたましい犠牲がたくさん出て、どうしたら、こういうことが避けられるか、みんなが考えた。そして、遠くからきた女の産む子が強く育つことを発見した。
せっかくの新発見である。世間に広めたい。しかしテレビ、ラジオは言うまでもなく、新聞、週刊誌、雑誌もなければ、本すら一般の人たちの手の届かないところにあった時代である。口コミによるほかはない。それで桃太郎の話が生まれた。


目からウロコとはまさにこのこと。
桃太郎の設定には以前から疑問の声があった。桃太郎が桃から生まれる必然性がわからない、という疑問である。たとえば、桃太郎が「口から桃汁を噴き出す」とか、「肌が桃でできている」などの身体的特徴を備えているならともかく、ただ単に「元気がよくて力持ち」というだけなら、普通に人間から生まれていてもよかったのではないか、というわけだ(マツコ・デラックスもどこかでそんなことを言っていた)。
外山の説明は、この疑問へのきれいな回答になっている。
人類は村落共同体を築いて以降、極めて閉鎖的な生活を営んできた。特にその傾向が強い共同体では、部内者同士での婚姻が繰り返され、結果として集団全体がひとつの家族のように均質化されることになった。そんな時に外部から自分たちとかけ離れた遺伝子を持ちこんで、血の活性化を図る必要がでてきたわけだ。
補足させてもらえば、大きな桃とは、出産適齢期にある女性のお尻の比喩で、特に元気な赤ん坊を産むことができる安産型のそれを指しているのだろう。また、外山は引用箇所のあとで、桃太郎の母にはお婿さんがいない点に触れているが、これはつまり、重要なのはよそからお嫁さんを連れてくることであって、その相手は(共同体内の男であれば)誰でもいい、という暗黙のメッセージなのだと思われる。
さらに外山の分析は続き、桃太郎はすぐれた政治家で、イヌ族とキジ族とサル族が三国志よろしく争っていたのを、キビダンゴという褒美をあたえて配下においた。そしてそのあと、三派が連合してクーデターを起こさないように外部に共通の敵をしつらえた。それが鬼ヶ島征伐だ。・・・という解釈を施しているのだが、正直こちらは今ひとつ説得力に欠けるというか、先に引用した遺伝学的解釈のほうが遥かに魅力的に感じる。
なんだか、彼にならって昔話の分析に乗り出してみたい衝動に駆られてしまう話である。

狂乱の時代

2019-01-18 21:34:44 | 雑考
毛利嘉孝の『ストリートの思想――転換期としての1990年代』(日本放送出版協会)を読んでの気付き。
この本は毛利が、「新しく生まれてきた若者たちの運動を、「ストリートの思想」という観点から捉えなおす」ために、政治と思想と文化の流れを80年代から説き起こしたものである。毛利が転換点とする90年代に話がさしかかった時、次のような記述が出てきた。


バブル期は経済的には株価が下落する一九九〇年に終わったが、時代の雰囲気としては九二~九三年くらいまでは楽観的な雰囲気が残っていた。たとえばけばけばしいファッションやテクノ、ユーロビートとともに刹那的な盛り上がりを見せたディスコ「ジュリアナ東京」がオープンしたのは、バブル崩壊後の九一年(閉店は九四年)であるにもかかわらず、どことなくバブル景気と重なって見えるのは、その浮ついた雰囲気がどこかで残存していたからだろう。こうした空気が一気に変わるのは、急激な円高、阪神淡路大震災やオウム真理教事件などで、突然パニックにも似た社会不安が訪れる九五年になってからだ。


・・・・・・え、そうなの?
テレビでバブルの話題になるときは必ずといっていいほどジュリアナの映像が流れる。露出度の高いボディコンファッションで、下着が見えるのも厭わずに踊り狂うさまが、カネに浮かれ溺れた「狂乱の時代」を象徴しているようで、イメージの上で結びついちゃったんでしょうね。
毛利も「浮ついた雰囲気がどこかで残存していた」と指摘しているように、ジュリアナを「バブルの余韻が残る中での最後のひと暴れ」だとすれば、ぎりぎりバブルの文化に含めてもいいかもしれない。あるいは、今になって振り返れば、バブルの終焉に懸命に抵抗する無駄な悪あがきがジュリアナであった、と総括することもできるだろうか。
なんにせよ、「時代の徒花」という形容がぴったりとくるカルチャーではあった気がする。

絵のような現実・写真のような現実

2018-12-29 21:21:53 | 雑考
前回に引き続き飯沢耕太郎の『写真の力〔増補新版〕』より。
本書収録の「旅の眼・旅のテクスト――「横浜写真」をめぐって」の中で、飯沢は「横浜写真」に触れている。横浜写真とは、「幕末から明治末に至る時期に、主に横浜にスタジオを構えていた写真家たちによって撮影・製作され」、「旅行者(特に外国人)向けの土産物として売り出されたもの」である。その中の一人「イタリア・ヴェネチア出身の帰化イギリス人フェリックス・ベアト」によって撮影された「その一枚一枚の写真には横浜在住の軍人ジェイムズ・ウィリアム・マレーによる解説シートがつけられていた」という。
以下に引用するのはその解説シートの特徴分析。文中にはルビがふられている箇所があるが、ここではルビ入力ができないので、その文字の後に括弧〔 〕で記載する。


マレーの文章に特徴的なのは、ひんぱんに「絵のような」〔ピクチュアレスク〕という形容詞が登場してくることである。たとえば「ビケット・フォースター(イギリスの風景画家)がじっと見つめたくなるような緑の小道が見え、簡素な鄙びた橋と全体が絵のように美しい前景がある」(飯山 VIEW AT EIYAMA)、「この素晴らしい場所の絵のような美しさは、間違いなく、夏に訪れる多くの人々を魅了する」(十二社の滝 CASCADE AT JIU‐NI‐SO)といった具合である。
高山宏の詳細で華麗な分析を引くまでもなくピクチュアレスクは十八世紀から十九世紀にかけての大英帝国の美意識を支配した「感受システム」であった。この「文字通り絵になる風景を自然の中に見出していこうとする――つまりはつくり出していこうとする――アントロポモルフィックな〈視〉のモード」は、写真という新しい視覚システムの中にも浸透していた。ベアトの写真の風景は、幕末の日本をそのままコピーしたものではなく、あらかじめピクチュアレスクの美学に適合するように選択され「つくり出された」ものなのである。


そもそも絵や写真のほうが現実の模倣としてあるものである。それなのに、人は現実の風景を見て、「絵のようだ」「写真のようだ」と感じてしまう。(そしてここには、現実そのものではなく、現実を切り取った風景写真に「絵のような風景」という解説が付されているという転倒もある)
以前「爆笑レッドカーペット」というお笑いネタ番組があって、ある時、誰だったか忘れてしまったが、一組の芸人がネタ披露した後、ゲストの矢口真里が「衝撃映像でしたね」と感想を漏らしていたことがあった。目の前で起きた出来事に対して、である。
もちろんタレントの愚かしさを言挙げしているのではない。人間の認識能力とはそのようなものだという話をしているのである。(ただし、矢口が肉眼ではなく、モニターでネタを鑑賞していた可能性も排除できないし、意図的に視聴者の立場に合わせた言葉使いをしていたのかもしれない)
我々は新しいメディアに接することで、それまでになかったフレームワークを手に入れる。絵画に触れることで「絵画の見方」を、写真に触れることで「写真の見方」を身に付ける。そして、そのフレームワークで現実を眺めるようになるのだ。映画やテレビのなどの動画もまた人類にフレームワークを提供した。
人間は絵画や写真に触れてのち、絵画や写真を見る目で現実を見るようになり、映画やテレビに触れてのち、映画やテレビを見る目で現実を見るようになる。だから、「絵画を見る目で現実を見る」のみならず、「絵画を見る目で映画を見」たり、「映画を見る目で絵画を見」たりすることだって日常当たり前のように起こっている。
多くのメディアに接するほどフレームワークは増えてゆき、その視点は重層化・多層化されてゆく。今では「ニコニコ動画のフレームワーク」や「Tik Tokのフレームワーク」もあるだろうか。
視点が増えるということは、現実を見る目が豊かになるということである。「虚構と現実の区別がつかない云々」といった、退屈で非生産的な繰り言をつぶやいている暇があったら、増えた視点をどう有効に扱うかを考えたほうが遥かに前向きだろう。

写真と死

2018-11-30 23:46:39 | 雑考
飯沢耕太郎『写真の力〔増補新版〕』(白水社)を読んでの気付き。
この本は、写真評論家の飯沢が写真について書いたコラムをまとめたものである。収録された一編、「Memento Mori――死者たちの肖像」と題された章で、飯沢は写真と死、および死者についての考察を展開している。その中で、写真術は発明以後、生者だけでなく死者もその対象としてきたと述べた後、イギリスの小説家ナイジェル・ニールの「写真」というショートストーリーが紹介されている。
以下にその箇所を引用するが、最初が飯沢の地の文で、一行空けて小説の文となっている。また、ルビがふられている部分があるが、ここではルビ入力ができないので、その文字の後に括弧〔 〕で記載する。


ある母親は、彼女の死にかけた息子を医者や司祭ではなく写真家のところへ連れていこうとする。

どうぞ思い出して下さい、先生。わたしがあの子の母親だってことを。わたしは何よりも、ずっととっておくことができるあの子の記憶〔メモリー〕がほしかったんです。

そして息子は、写真に撮られることで自分が死にかけていることを、もはや彼の「魂が宿る家」が定められた以上、彼の肉体は必要なくなってしまったことを悟る。

涙が彼の目からあふれだした。彼はまるで自分のからだの一部が失われたような怒りと恐れを感じた。

写真は死につつある者(しかし考えてみればわれわれはすべて死につつある者ではないか)から魂を、生命力を奪い去る。それらは矩形の小さな柩のなかに封じこまれ、記憶の蜜蠟によってしっかりと封印される。


本章にはロラン・バルトの「実際、その瞬間〔引用者注・撮影の瞬間〕には、私はもはや主体でも客体でもなく、むしろ、自分が客体になりつつあることを感じている客体である。その瞬間、私は小さな死(括弧入れ)を経験し、本当に幽霊になるのだ。」という言葉や、バルザックの「生きた肉体はいずれも無数のスペクトル(分光)からできている。スペクトルはごく小さな片鱗ないしは薄膜状をして、肉体を四方八方からとり囲んでいる。・・・・・・それゆえダゲレオタイプにあっては、写される肉体の一つの層がつかみとられ、剥ぎとられ、感光板に封じこめられる。」という言葉も紹介されているし、飯沢本人も「考えてみれば、写真は死者たちによく似ている。」と述べている。
写真が日本に入ってきたばかりの頃、撮影されると魂を抜かれるという噂が立ったことがある。また、1980年代だったと思うが、3人で写真を撮ると真ん中の人が早死にする、という都市伝説が流行ったことがあった。これらは、必ずしも根も葉もない迷信とは言えない。
写真の被写体となるということは、多かれ少なかれ死を意識せねばならない、ということだ。写真という無機物にその姿を転じれば、自分の死後も、その空間で生き続けることができる。しかしその代わり、有機体である自身は死ななければならない。それは、自分の生命を、わずかながら写真に刻み付ける、というふうに感じられることだろう。
写真を撮れば、自分の死後も、写真が代わりに生き続けてくれる。それはつまり、自分の命を写真が生きるということ、自分の生を写真にとって代わられるということだ。より強い言い方をすれば、写真が生きるために自分が殺される、ということになるだろう。
写真という物体に印刷されれば、損壊を免れる限りにおいて、永久に生き続けることができる。しかし、生身の肉体を有する自分自身は、死ななければならない。写真の被写体となるということは、自分が死すべき存在であることを否が応にも自覚せねばならないということだ。
「自分が自分の体を離れて生きている」。初めて写真の被写体となった人類の感想は、このようなものだったかもしれない。その衝撃は、如何ばかりであっただろうか。
写真を撮られることを極度に嫌がる人もいるが、彼等は写真によって喚起される死の切迫にとりわけ敏感な人達であるのかもしれない。