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徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

靴と婚姻と二足歩行

2022-05-10 22:22:31 | 雑考
前回に引き続き、金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)から。
この中の一章「海南島の黎族」で、中国の少数民族、海南島に住む黎族(リー族)の、独特な文化が紹介されている。特に僕の目を引いたのは、靴に関する風習。


女の子が十四歳くらい、つまり見るものを見るころになると、両親は住家をはなれた畑の中に、娘のための小屋をつくってやる。(中略)日がくれると、村の若い衆がこれを訪問する。女よりさきにはいって待っている。一番乗りの男に、その夜の優先権がある。
こうした交際でできた幾人かのボーイフレンドの中から、結婚の相手をきめる方法がおもしろい。娘が下駄の片方をつくる。ボーイたちもそれぞれ片方の下駄をつくる。それを合せてピッタリとサイズの合うものが選ばれる。歌合せでなくて、下駄合せだ。(中略)
この下駄合せの方法は、きわめて賢明な方法で、娘は自分の好きだと思う男と、あらかじめ下駄のサイズをしめし合せておけばいいわけだ。自分のもっている片方の履物にピッタリ合うのが結婚の相手だ、というのは、シンデレラの話をはじめとして、古来いろいろな物語にある。案外こうした原始民族の風習を反映しているのかも知れない。現に唐代の『酉陽雑俎』には南方シナの話としてこの履き合せのシンデレラ譚があった。


実に興味深い。なんとなく、サイズをしめし合わせるのは後代になってから、つまり儀式が形骸化してからで、当初はしめし合わせなしで伴侶を選んでいたのではないか、という気がするのだが、同時に、なぜ合わせるのが靴なのか、という疑問もわく。
衣服にせよ装飾品にせよ、人が身に着ける品は色々ある。なのになぜ、結婚相手選びのサイズ合わせに用いられるのが靴なのか。それは単なる偶然ではなく、何かしらの必然があるように思うのだ。
その理由はなんなのか。僕の知識の範囲で思いつくのは次の説明。
人類は、四足歩行から二足歩行に進化したことで、大きな発展を勝ち取った。前足は手となり、様々な道具を高度に使いこなせるようになった。そのことが現在の人類の繁栄に貢献したわけで、つまり、二足歩行が重大なターニングポイントであった。
文字通り二足歩行を支えるのは、2本の足である。大いなる繁栄を手に入れた人類は、両足に感謝した。足は、己の上体だけでなく、文明をも支えているのだ。
であれば、その足を保護する靴に対しても、特別な意味を付与せずにはいられないだろう。
人の体と文明を共に支える足。その足を守りいたわる靴。
共同体によっては、ほかの衣服や装飾品よりも、靴に重要性を見出した。両足の支えがあって、今の人類がある。その両足を保護する靴は、文明をも保護している、と考えることもできる。
だから、ほかの衣服や装飾品より靴に高い価値を置く共同体も生まれた・・・とまあこういう解釈。
この推測が当たっているかどうかはともかく、靴はなかなか興味深い。オシャレとしてではなく、文化としての靴。人類史の反映としての靴。
そこには、我々が忘れてしまった意味がいくつも込められているのではないか。興味は尽きない。

骨と音楽と呪術

2022-04-26 21:44:41 | 雑考
金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)を読んでの気付き。
この本は、考古学・人類学・民族学を専攻し、発掘調査も行う金関が、様々な媒体に発表した、おもに考古学に関する論考をまとめたものである。その中の一章「髑髏盃」で、インド洋アンダマン島のオンギ族や、台湾の高砂族、ヒマラヤ地方などに、人の骨を加工して様々な道具を作る「人骨文化」があるとして、次のような具体例を挙げている。


また、人の大腿骨や脛骨で、笛をつくって、祭りのときに演奏したりする。(中略)
この、人骨で笛をつくる風習は、しかし、この地方だけではなく、近東からアフリカにまでひろがっていて、例えば古代エジプト人は、人間の脛骨で笛をつくり、これを、その骨の名をとって、シビと呼んだ。これは今の脛骨の学名であるラテン語のチビアと同語であり、またその笛が唐代に中国に伝わって、尺八ともなった。「尺八」はチバ、すなわち脛骨からきた西来の名前だといわれている。このように、われわれがいま何気なく使用している品物や言葉にも、人骨文化の遺残はあるのである。


てっきり笛というのは、木をくりぬいて作ったのが始まりとばかり思っていた。しかしこのような文化の存在は、人骨を用いたものが笛の始まりである可能性を示唆している。
原始社会とは、呪術に覆われた社会である。人はみな、この世の理の説明を欲する。なぜこの世界があるのか、なぜ人は死ぬのか、なぜ天変地異は起こるのか。現代の我々には、科学がその疑問に答えを提供してくれるが、科学を知らない社会は、代わりの何かに解釈を求めねばならない。人間は、「わからない」ままではいられないのだ。
そして、科学以外の説明体系となると、基本的には呪術となる。この世は目に見えない力に満ちており、その不可視の力こそが理として万物に働きかけているのだと。
当然、人にも呪力は宿っている。腕力が強かったり、頭がよかったり、権力を有していたりする人ほど、呪力は強いとされる。そういった人々が死後、骨を加工されるのだ。彼らの秘めたる力を我が物とすべく、骨を身近な道具へと加工して身につける。脛骨の笛もまた、そのような意味合いのものであったのだろう。
そうすると、音楽の意味もまた、現在の我々が考えるようなものとは違っていたおそれがある。祭りや儀式などの特別な日にしか音楽を演奏しない部族もあるからだ。
それはつまり、現代日本にとっての娯楽としての音楽、スマホにアプリをダウンロードして、ブルートゥースイヤホンで四六時中気軽に聴けるような音楽とはまったくの別物としてある、ということだ。
儀式としての音楽は、時と場所と手順を慎重に選んで開催される。恐らくは、そうしないと力を正しく使えないから、もしくは、力が誤った方向に流れ、暴発してしまうから、なのだろう。呪術としての「音楽の力」が。
仮に、音楽は元々呪術としてあったとすると、毎日イヤホンから浴びるように音楽を聴いている我々は、少なからず呪力の影響を被っている、ということになる。
「呪力」と言うと、悪しきイメージしか湧かないかもしれないが、必ずしもマイナスの効果ばかりをもたらすものではない。しかし、その力に無頓着すぎると痛い目に合うかもしれない。「骨の笛」は、そんな警告を発しているようにも思える。それとも、骨の楽器を用いない音楽からは、呪力はきれいに祓われているのだろうか。
ちなみに「髑髏盃」には、次のような記述もある。


真偽はわからないが、わが国でも、水戸の常福寺の什宝の髑髏盃について、同じような話が伝わっている。『甲子夜話』などによると、徳川光圀が、自分を裏切った家臣の某を憎むのあまり、年月を経てその死体を掘り出させ、頭骨に金箔をほどこして、盃にしたという。
この盃は一升を容れた。光圀は酒豪であったとみえて、在世中、常にこれを用いて酒を飲み、酔うと、「蓮の葉にやどれる露は釈迦の涙かありがたや。そのとき蛙とんででて、それは己が小便じゃ」と歌っていたそうである。


徳川光圀、つまり水戸黄門ね。光圀って若い頃はけっこうヤンチャで、どこまで本当かはわからないが、ケンカで相手を斬り殺したり、女性を手籠めにしたりしていた、という話も聞いたことがある。
もちろんドラマの「水戸黄門」は史実とは違うんだけど、それにしても実像とのギャップが激しすぎる。
盃にされてしまった家臣は、助さん格さんに懲らしめられたのだろうか・・・ってんなわきゃねえ。

免疫のはらわた

2021-04-29 22:33:16 | 雑考
キャスリン・マコーリフの『心を操る寄生生物――感情から文化・社会まで』(インターシフト)を読んでの気付き。
これはサイエンスライターのマコーリフが、寄生生物の生態をまとめた本で、寄生生物は宿主に取りつくのみならず、行動を操り、時には命を投げ出すことさえさせてしまうという話が記されており、人間の行動も寄生生物に操作されているかもしれないということ、そうなると自由意志というものがどこまで明確に存在するかが曖昧になってしまうという、生物学の領域にとどまらない大きな問題を含む議論が提示されている。
この中の一章「偏見と行動免疫システム」の中で、「嫌悪」が人に与える影響について、様々な研究や調査が引用されている。嫌悪とは、人が自分の身を守ろうとするときに起こる感情であり、差別や偏見の元でもあるが、病の感染を防ぐために免疫力を高める働きもあるとして、心理学者のマーク・シャラーが行った次のような実験が紹介されている。


以前のたくさんの実験と同様、被験者には嫌悪を感じさせるようなスライドショーを見てもらったが、今回は大きな違いがひとつあった。その直前と直後に血液サンプルを採取して、それを試験管で病原体の表面マーカーと混ぜ合わせ、被験者の白血球がどれだけ積極的に敵に対抗しているかを判別したのだ。具体的には、被験者の嫌悪の感情が高まると、その人の白血球がインターロイキン六(IL‐6)と呼ばれる病原体と戦う物質を生産する量が増えるかどうかを調べた。
増えていた。しかも二四パーセントという、桁外れの増え方だった。(中略)
イギリスで実施された同様の実験では、一九七四年製作の恐怖映画『悪魔のいけにえ』を見せて被験者の感覚を血、殺戮、切断という吐き気を催すイメージでいっぱいにし、その前後に血液サンプルを採取した。すると、それらの参加者の感染と戦う白血球の数が急増し、それは映画上映のあいだに平凡な読み物を読んで過ごした対照群では見られない変化だった。


「笑い」が免疫力を高めることはよく知られている。笑うのは体にいいことだと。療養中の人が積極的にコメディー映画を観ていたら病状が大幅に改善されたという話も聞いたことがある。
しかし、笑いだけでなく「恐怖」(=嫌悪)もまた、免疫を高める効果を有していたのだ。
ということは、病に罹ったときにはコメディー映画ばかりでなく、ホラー映画も観たほうがいいということだろうか。コメディーばかりだと飽きるだろうから、コメディーとホラーを交互に観るようにしたらいいだろうか。
「笑いと恐怖は紙一重」というが、免疫を高めるという点でも極めて近い感情だったわけだ。
この事実が広く知られるようになれば、病院からホラー映画の悲鳴がしょっちゅう響いてくるのが当たり前の光景になるかもしれない。

バニラの語源

2020-10-20 21:42:53 | 雑考
21世紀研究会編の『食の世界地図』(文春新書)を読んでの気付き。
21世紀研究会とは、歴史学、文化人類学、考古学、宗教学、生活文化史学の研究者9人が集まって設立された研究会であり、この本は、食材や料理の起源について、世界地図を通して書き出した、『民族の世界地図』『地名の世界地図』をはじめとする「世界地図」シリーズの一冊で、古今東西、様々な「食」に関する興味深いエピソードが盛り込まれている。
この中の一節「バニラは最高の媚薬」に、次のような記述がある。


カカオとともに新大陸からもたらされたバニラは、やがてチョコレート飲料以外の飲み物やさまざまな菓子に使われるようになった。バニラの実体はラン科の細長い莢で、収穫後、発酵、乾燥させると特有の甘い香りを放つ。(中略)この不思議な莢をスペイン人は、「莢」を意味するバイナvainaに縮小辞をつけてバイニーリャvainillaとよんだ。その英語名がバニラvanillaで、フランス語もイタリア語も同系だ。
ところで、さきにカトリーヌ・ド・メディシスが好んだアーティチョークは媚薬とみなされたと書いたが、希少で高価なものや新規なものについ特別な効き目を期待してしまうのは、どうやら人間の性らしい。古くからリンゴなどの果物や蜂蜜、そして東洋から運ばれた、ありとあらゆる種類のスパイス、さらにトリュフやアスパラガスなどの高価な野菜まで、ぜいたくな食べ物にはおしなべてエロティックな連想がつきものだった。
媚薬といっても滋養強壮の意味でなら、たしかに役立つ食物は少なくないだろう。だが人びとが話題にしたのは、もっとあからさまな「催淫効果」ともいうべきほうである。(中略)
バニラはその芳香とエキゾチシズムで、フランスはもとよりヴィクトリア朝時代のイギリスでも媚薬の筆頭にあげられていた。ちなみに、バニラの語源のスペイン語「莢」vainaは、もっとさかのぼると同じ意味のラテン語のヴァギナvaginaにいきつく。いまでは解剖学用語としてのほうがずっと知れ渡っていることは、付け加えるまでもないだろう。


なんということでしょう。バニラの語源はヴァギナだったのです。
たとえば、ペットにバニラって名前つけてる人けっこういるでしょうし、キャバクラ嬢で源氏名をバニラにしてる人なんかもいるでしょうけど、「それはあなた、アレですよ、アレを名乗ってるんですよ」ってことになっちゃいますよね。風俗嬢だったらちょうどいいのかな・・・。
いやー、しかしすごい話だ。皆さんもバニラアイスを食べるたびに思い出してくださいね。

車に乗ってレストランへ行こう

2020-10-06 22:51:16 | 雑考
松田久一の『ジェネレーショノミクス――経済は世代交代で動く』(東洋経済新報社)を読んでの気付き。
これは、ジェイ・エム・アール生活総合研究所代表取締役社長兼、日本マーケティング研究所代表取締役会長(肩書長すぎ!)の松田が、世代論で経済を読み解くにはどうしたらいいか、世代交代によって経済はどう動くか、世代ごとの消費動向や労働意欲はどう違うかなど、世代と経済の関係について論じた本である。
この中で松田は、今後の経済成長を牽引するのは「生産起点の製品別成長ではなく、製品、情報、コンテンツ、サービスが融合した消費起点の融合産業」だとして、次の例を挙げている。


タイヤメーカーである「ミシュラン」が、レストランの格付けを行っているのはある意味「不思議」だと感じないだろうか。実は、ミシュランがレストランの格付けを行っているのは、レストランへのドライブを促進し、タイヤ需要を拡大するためである。そのため、パリなどの都市部よりも、ドライブの必要な南フランスに掲載レストランが多いといわれている。このようにあらゆる分野で、商品やサービスの利用される本来の目的へのアプローチが進んでいる。


おお~、そうなのか・・・。だとすると、日本の場合はどうなんだろ。それ以外の、ミシュランガイド出てる国は?
日本はもう10年くらい前から「自動車が売れない、特に若い人は車を買わない」って言われてるけど、そのこととミシュランは関係あるのだろうか。たとえば、「自動車販売台数の落ち込みを補うためにミシュランガイドが出版されるようになった」とか。(日本で最初にミシュランガイドが発刊されたのは2007年)
ただ、国内の自動車売り上げの減少は、「若い人が買わなくなってる」のではなく、単純に「少子化のせいで購買者の総数が減少してるため」だとの見方もあるんですけどね。
あと、日本におけるミシュランタイヤのシェアがどれほどなのかも気になる。仮に日本人がほとんどブリヂストンのタイヤしか買わないとすれば、ミシュランガイドは自社のタイヤの販売数をほとんど伸ばさないでしょう。そう考えると、ミシュランガイドがミシュランタイヤの売り上げを伸ばしうるのはフランスだけなのかもしれません。
仮に松田の見立てが国内にも当てはまるとするならば、日本の場合は繁華街より郊外のお店が優先的に掲載されてることになるんでしょうけど、僕はミシュランガイド読んだことないからわかんないんですよね。もし詳しい方いらっしゃいましたら情報をお寄せください。