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ゆるキャン△の聖地を行く6 その5  早川の赤沢宿にて

2019年05月06日 | ゆるキャン△

 早川町の赤沢宿は、中世から近世にかけて身延山と七面山の両信仰拠点を結ぶ参詣ルートの宿場として栄えたところです。全盛期は江戸期の半ば頃で、徳川幕府が七面山の女人禁制を解いたことにより、女性の参詣客が急増し、山岳信仰の富士講や身延講などの講が盛んになったといいます。
 また、身延山の開祖日蓮に関しても、中世期には反政府勢力としての批判および思想的制約があったのが、徳川幕府においては思想史の先人と再評価するスタンスがあったため、身延山久遠寺に対しても保護を与えています。それがさらに参詣客の増加と宿場の隆盛を招いたことは想像に難くありません。

 かかる歴史を伝えてなお往時の面影を残す赤沢宿は、国の文化財保護法改訂にともなう保護対象区分の選定を受け、国内では類例が稀な山岳内村落の遺構として平成5年7月に重伝建に指定されました。それにともなって殆どの指定建造物が修理および補修を施されて近世の景観になるべく戻され、歴史的風致地域としても有意義な状態になっています。

 その赤沢宿は、場所的に行きにくいところにあり、アクセスも容易でないため、全国各地の重伝建のなかでは一般の知名度も低く、歴史マニアでもなかなか行かない、行きたくても行けない、というような所であったそうです。
 それが、「ゆるキャン△」にて志摩リンが訪れた地の一つとして登場したことにより、一気に全国区の知名度を得られる状態が整いました。アニメ2期で登場すれば、間違いなく全国から巡礼ファンが訪れることでしょう。

 しかし、大勢がやってきても気軽に入れるようなエリアではないため、駐車場一つとっても問題が発生しますし、飲食店も最低限であるうえに、トイレすら自在に使えません。色々と不都合が発生するのは目に見えています。何よりも国指定の重伝建でありますから、文化財保護の観点による観光客立ち入り制限も有り得ます。
 なので、地元赤沢地区および早川町当局におかれては、今からでも遅くは無いので、巡礼者が殺到した場合の諸問題に対する対策および情報発信に努めていただければ、と思います。

 さて、「ゆるキャン△」に登場している赤沢宿の景観は、原作コミック第7巻の33ページから38ページまでの範囲に色々と登場していますが、重伝建地区のなかで俯瞰すると妙福寺門前参道エリアから下の清水屋付近までの約200メートル範囲のみに限られており、赤沢宿のなかでも古い時期の建造物が集まっている区域に当たります。赤沢宿を代表する建造物群の外観および景観の殆どがそのなかにおさまっているため、志摩リンの足跡をたどるだけで、赤沢宿の大体の雰囲気、歴史的風情を味わえます。

 上図は、原作コミック第7巻の33ページ3コマ目の元景観です。左の建物はかつて旅籠を務めていた大黒屋、右手奥の建物はこれもかつて旅籠を営んでいた喜久屋の建物です。いずれも伝統的建造物の指定を受けています。

 

 大黒屋の軒下にずらりと並ぶ、「板マネギ」と呼ばれる標札です。これは、かつてここを参詣の定宿とさだめた全国各地の講中が自らの講名および代表者名を記した板です。
 講中とは、全国各地にあった、講(集会、集まり)を作って神仏にもうでたり、祭りに参加したりする信仰者の団体のことで、「こうじゅう」と読みます。

 甲斐国つまり山梨県エリアは、富士山を霊峰と崇める富士信仰の中心的位置を占め、近世のピーク期には全国に約3000の富士講があったといいます。講ひとつの参加者が多くて100人、少なくても20人は居た時代ですので、講中で参詣に行くというのは、現在でいうと社寺参拝観光ツアーにあたります。その関係者が甲斐国へ祈りの旅を行う際には、たいてい身延山や七面山にも寄るのが普通でしたから、赤沢宿のような拠点に定宿をさだめておくことになります。宿のほうでも、講中の参詣客は年中入れ替わり立ち代わり来てくれる上得意さんですから、優先的に対応することになります。
 つまり、「板マネギ」とは、簡単に言うと常連客の標札であるわけです。ある地方の講の人が身延山参詣を思い立った場合、宿はどこかと講中の世話役に相談し、「赤沢宿なら〇〇屋だ」と教えられるわけです。そして現地に着いて泊まる際に、自身の講の標札を確認して、宿の人に「ウチの講の札です」と言えば、割引料金で泊まれたわけです。

 

 大黒屋さんの庭先には、このように大黒天の像が祀られています。たぶん、これが大黒屋の屋号につながったのであろうかと推察します。
 この大黒天像は、そのまま原作コミック第7巻の33ページ4コマ目に出ています。

 

 こちらの建物は、かつて旅籠をつとめた喜久屋ですが、このアングルで原作コミック第7巻の33ページ5コマ目に出ています。

 

 喜久屋の建物は、現在は休憩処として公開されていますが、私が訪れた時には戸を全て閉めきってあって、公開しているという雰囲気では無かったので、中には入りませんでした。その軒下の水溜めを見たにとどまりました。

 

 萬屋、吉田屋、とかつての旅籠屋が並びます。このあたりは傾斜地で、御覧のように左の萬屋の地面の高さが、隣の吉田屋の屋根のあたりになっています。石垣を段段に積んで敷地を確保していますが、その段差が最も大きい区域です。

 

 いっぺん、下りてきた道を振り返りました。右手前が萬屋、奥の二階建てが大黒屋です。

 

 萬屋が旅籠屋であったことは、この軒下の「板マネギ」からも分かります。講中の名称も色々にあったようで、江戸期の日本各地の講の形態がさまざまに在ったことを伺わせます。右端の白っぽい標札は近代のもののようで、「神心会」という、いかにも宗教的な集まりといった感じの団体名称が記されています。

 

 喜久屋と萬屋の間の石畳道が、一気に傾斜度を増して急な下り道になっています。

 

 その先の景観はこんな感じです。カーブの向こうの建物は市下家住宅です。急坂には、見学客の安全のために階段が設けられており、おかげで歩きやすくなっています。
 そして、その階段を志摩リンが下りています。このアングルで、原作コミック第7巻の34ページ1コマ目に出ています。

 

 集落内の各所で見られる、格子状の板塀です。これらも伝統的建造物の一部に含まれています。外側に支え柱を設け、透かし窓を多く取って風通しを図っているのは、現地が山中の降ろし風の強さに悩まされてきた歴史をうかがわせます。完全な密閉式の板張にすると、風の抵抗が強くなって破損や倒壊のリスクが増すので、このような造りになっているのでしょう。

 

 急坂カーブ地点を下から見ました。石の大きさを揃えて緻密に積み上げられた石垣が、その堅牢さを示しています。こういうタイプの石垣が地震に最も強いです。中世戦国期を通じて飛躍的に発達した石積みの技術が、城郭だけでなくこのような山岳地域の集落の構築にも如何なく発揮されています。

 

 坂道を下りながら、車で登ってきた下の道を見ました。

 

 重伝建エリア内では唯一の飲食店である、蕎麦処の武蔵屋の店先階段です。この日は休業日にあたっていました。

 

 石畳道の急坂を下り切ると、私も車で登ってきた下からの車道に出ました。だいたいこのアングルで、原作コミック第7巻の34ページ2コマ目に出ています。次のコマで志摩リンがスマホで写真を撮っています。  (続く)

 


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