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奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

テレビドラマ「夢千代日記」吉永小百合

2015-05-05 16:26:45 | 映画・テレビ


今回は、吉永小百合さんの、テレビドラマ「夢千代日記」のお話をします。
 このドラマは、NHKの制作で、「夢千代日記」が、1981年に全5話、「続 夢千代日記

」が、1982年に全5話、そして、「新 夢千代日記」が、1984年に全10話、放送

されています。
 舞台は、山陰にある鄙びた温泉街、湯里で、夢千代(吉永小百合)は、家業の置屋「はる

屋」を営みながら芸者をしていて、彼女の周りの人の生き様を描きながら、ストーリーが進

んでいきます。
 そして、3部ともストーリーは、夢千代が、原爆症の治療のために、神戸からの帰り、山

陰線の列車が、余部鉄橋に差し掛かる辺りから始まります。
 まず、列車が、山あいの線路を奥へ奥へ進みながら、武満徹作曲のテーマ曲が流れるタイ

トルロールが素晴らしいです。
 このタイトルロールで、すんなり、ドラマの舞台に入っていける趣向になっています。

 第1部の「夢千代日記」は、夢千代のもとで働いていた芸者、市駒が殺人を犯し、それを

追って、神奈川の川崎から来た山根(林隆三)が湯里に捜査にやってきて、自首するまでの

お話を描いています。

 第2部の「続 夢千代日記」は、列車で乗り合わせた家出した少女の面倒を見るところか

ら始まります。
 家出した俊子は中学生で、好きな先生(石坂浩二)を探しに来たと、夢千代に語るのです

が・・・

 第3部は、元ボクサーで記憶喪失になった青年(松田優作)の面倒を見るところから始ま

ります。
 また、はる屋で、長年、働いてきたおスミさん(夏川静江) が、敗戦後、中国から引き揚

げる際、生き別れた息子(せんだみつお)と、再会を果たして、夢千代との別れがあったり

、芸者の菊奴(樹木希林)と旅役者(ピーター)の顛末とか、金魚(秋吉久美子)と船会社

の社長(小坂一也)の末路など、夢千代に関係する人のエピソードがいくつも語られます。
 それと同時に、夢千代が、戦争中、亡くなったと、母に聞かされていた父親らしい人物、

有田久三(田崎潤)が現れたり、母の友人、玉子(鈴木光枝)によって、戦争中の母親のエ

ピソードが明かされます。
 
このドラマを観ると、まず誰もが思うのは、吉永小百合さん演じる夢千代の儚さと、美しさ

と、優しさでしょう。 
 とくに、夢千代の、誰にでも手を差し伸べる優しさや、思い遣りには、心惹かれる人が多

いと思います。
 でも、吉永小百合さんは、なぜ、そこまで優しく出来るのかが不思議で、最初のうちはマ

リア様なのか、観音様なのか、よくわからないまま、夢千代を演じておられたようです。
 その意味がわかったのは、「新 夢千代日記」の、こんなセリフにあったそうです。

 「私は治らない病気を持った人間です。
 助けばかり、呼んでいる人間です。
 だから・・・誰かの力になりたいのです。
 誰かを助けられたら、助けたいのです。
 助けられる間は、私はまだ大丈夫なんです。」  

 
 このセリフに、吉永小百合さんは、テレビのインタビューで「夢千代は、実際に、戦争に

遭遇してる訳じゃないけれども、お母さんのお腹の中で、大変な被害を受けて・・・そして

、何とか、頑張って生きていこうという思いの中にいるんですよね。つまり、人に対して、

優しくすることで、自分を鼓舞しているというか、命も限られているけれけども、しっかり

生きなきゃというふうに思うんだって」と答えられています。

 
 そして、この「夢千代日記」に出たことで、それを観ていた被爆者団体の方から、平和集

会で、原爆詩の朗読をしてほしいという依頼があり、それがライフワークとしての活動のき

っかけになったそうです。

 それでは、ここで、吉永小百合さんが朗読している原爆詩を二篇ご紹介しますね。

 
 「帰り来ぬ夏の思い」    作 下田秀枝

 黒い雨のふりしきるなか

 ぼくは母さんを探している

 のどがカラカラ

 水がほしいよ 母さん

 やけどの手足がひりひり痛いよ 母さん

 さっきの青空 どこへ消えたの 母さん

 母さん 母さん 母さん

 お願い 返事をしてよ 母さん

 なんだか、ぼくはもうぼくでなくなるよ


 炎の雨のふりしきるなか

 ぼくは母さん探しています

 周りがだんだん熱くなってくるよ 母さん

 ぼくのお家はどこへ行ったの 母さん

 さっきの話の続きをしてよ 母さん

 母さん 母さん 母さん

 早く ここへ来て ぼくを抱いて

 もうじき ぼくはもうぼくでなくなるよ



 目を閉じてごらんなさい

 見えるでしょう

 炎と灰に埋もれる街

 聞こえるでしょう

 母の子供のすすり泣き

 帰り来ぬ夏のあの呪い あの思い




 そして、もう一篇は、林幸子作の「ヒロシマの空」で、吉永小百合さんは、この詩をとく

に何度も朗読してこられたそうです。

 「ヒロシマの空」  林幸子
 
 夜 野宿して

 やっと避難さきにたどりついたら

 お父ちゃんだけしかいなかった

 「お母さんと ユウちゃんが死んだよお・・・」

 
 八月の太陽は

 前を流れる八幡河に反射して

 父とわたしの泣く声をさえぎった

 その あくる日

 父は からの菓子箱をさげ

 わたしは鍬をかついで

 ヒロシマの焼け跡へ

 とぼとぼと あるいていった

 やっとたどりついたヒロシマは

 死人を焼く匂いにみちていた

 それはサンマを焼くにおい


 燃えさしの鉄橋を

 よたよた渡るお父ちゃんとわたし

 昨日よりも沢山の死骸

 真夏の熱気にさらされ

 体が ぼうちょうして

 はみだす 内臓

 渦巻く腸

 かすかな音をたてながら

 どすぐろい きいろい汁が

 鼻から 口から 耳から

 目から とけて流れる

 ああ あそこに土蔵の石垣がみえる

 なつかしい わたしの家の跡

 井戸の中に 燃えかけの包丁が

 浮いていた

 
 台所のあとに

 お釜が ころがり

 六日の朝たべた

 カボチャの代用食が こげついていた

 茶碗のかけらが ちらばっている

 瓦の中へ 鍬をうちこむと

 はねかえる

 お父ちゃんは 瓦のうえにしゃがむと

 手でそれをのけはじめた

 ぐったりとした お父ちゃんは

 かぼそい声で指さした

 わたしは鍬をなげすてて

 そこを掘る

 陽にさらされて 熱くなった瓦

 だまって

 一心に掘りかえす父とわたし

 
 ああ

 お母ちゃんの骨だ

 ああ ぎゅっとにぎりしめると

 白い粉が 風に舞う

 お母ちゃんの骨は 口に入れると

 さみしい味がする

たえがたいかなしみが

 のこされた父とわたしに

 おそいかかって

 大きな声をあげながら

 ふたりは 骨をひらう

 菓子箱に入れた骨は

 かさかさと 音をたてる

 
 弟は お母ちゃんのすぐそばで

 半分 骨になり

 内臓が燃えきらないで

 ころりと ころがっていた

 その内臓に

 フトンの綿がこびりついていた



 「死んでしまいたい!」

 お父ちゃんは叫びながら

 弟の内臓を抱いて泣く

 焼け跡には鉄管がつきあげ

 噴水のようにふきあげる水が

 あの時のこされた唯一の生命のように

 太陽のひかりを浴びる

 

 わたしは

 ひびの入った湯呑み茶碗に

 水をくむと

 弟の内臓の前においた

 父は

 配給のカンパンをだした

 わたしは

 じっと 目をつむる

 お父ちゃんは

 生き埋めにされた

 ふたりの声をききながら

 どうしようもなかったのだ

 

 それからしばらくして

 無傷だったお父ちゃんの体に

 斑点がひろがってきた

 
 生きる希望もないお父ちゃん

 それでも

 のこされる わたしがかわいそうだと

 ほしくもないたべ物を 喉にとおす

 
 「ブドウがたべたいなあ」

 「キウリでがまんしてね」



 それは九月一日の朝

 わたしはキウリをしぼり

 お砂糖を入れて

 ジュウスをつくった

 

 お父ちゃんは

 生きかえったようだとわたしを見て

 わらったけれど

 泣いているような

 よわよわしい声



 ふと お父ちゃんは

 虚空をみつめ

 
 「風がひどい 嵐がくる・・・嵐が」

 といった

 ふーっと大きく息をついた

 そのまま

 がっくりとくずれて

 うごかなくなった


 ひと月も たたぬまに

 わたしは

 ひとりぼっちになってしまった



 涙を流しきったあとの

 焦点のない わたしの からだ

 
 前を流れる河を

 みつめる


 
 うつくしく 晴れわたった

 ヒロシマの

 あおい空






 この詩「ヒロシマの空」は、原爆でなくした肉親の深い悲しみがあふれていて、心を打た

ずにはいられないですね・・・
  
 
 

 あと、「夢千代日記」で気にかかるのは、女性の性を取り上げている点です。
 まず、湯里という温泉街には、アサ子(緑魔子)という名のストリッパーがたびたび登場

しますし、第1部に出てくる市駒は、好きだった男性と、表日本での暮らしに憧れて、湯里

をあとにするのですが、生活に困り、やがてお金が尽きると、体を売れと男性に言われてし

まいます。

 第2部に登場する家出少女、俊子は、美術の教師、上村洋一(石坂浩二)の絵のモデルを

していたのですが、突然、「私の裸を描いて下さい。先生が好きなんです」と言って、服を

脱ぎ出すのです。
 
 第3部では、記憶喪失の元ボクサー岡崎孝夫(松田優作)の記憶を取り戻させようと、結

婚まで誓い合ったかつての恋人が、ひと糸まとわぬ体になり、「私を見て。私を思い出して

」と言って、迫るのです。


 なぜ、女性の性を扱ったエピソードがいくつも出てくるのでしょう?

 その訳は、女性は性をしっかり見つめる事の大切さを説いているように、私には思えてなら

ないのです。
 言うまでもなく、性欲は、食欲と睡眠欲と並んで、人間の三大本能の一つですし。

 だから、戦争中、出征する直前に、夢千代の母親、安代のもとに、有田久三が訪ねてきた

時、「もう、生きては帰れないだろう。でも、たとえ、海に中に沈んでも、あなたのことは

忘れません。」と言われた言葉に、「私を抱いて下さい。抱いていって下さい。そうすれば

、たとえ、あなたが死んでも、あなたは私の中に生きています。」と、安代は言ったのでは

ないでしょうか?


 そういう私が、女性の性は、とても大切だと考えるようになったのは、動物学者のデズモ

ンド・モリスの説を知ったからです。
 彼によると、猿のメスは、尻を赤く充血させる事で、オスに発情を知らせると同時にセッ

クスアピールするが、直立歩行を覚え、衣服で性器を隠すようになった人間の女性はそれが

出来なくなってしまったので、その代わりに口紅をぬるようになったという説を提唱してい

るそうです。
 女性の胸が、男性から見えやすいところにあり、膨らんでいるのは、男性を誘惑するためと

も言っています。

 そして、性を、しっかり見つめ、大切さを認識した女性こそ、男性の目に、魅力的な女性

として映るのではないでしょうか?

また、性に関して、苦手だと言って、ないがしろにしていると、屈折した形で噴出してくる事があるのではないでしょうか?
 実際、私はそういう女性を何人か知っています。

 それに、私はある男性に、こう言われたことがあるんです。

 「女性の役目は、魅惑の肉体で、戦士に快楽を与え、彼らを勇者に仕立てることなのです。
 男たちはその筋肉と武器で、女や乙女たちの住む地の平和を守るために戦うのです。」

 そう言われた私はもう何も躊躇する事はないと思いました。
 
 いいえ、それどころか、男性にすべてを捧げても悔いはないとさえ思ったのです・・・



 そこで、私は、吉永小百合さんの魅力について考えてみたくなり、映画を中心に沢山、ご

出演された作品を観てみました。
  
 すると、意外にも、キスシーンはおろか、ラブシーンが多いのに気づいたのです。

 だけど、いやらしさは、全然なく、それどころか、神々しいまでに気品に満ちているように感じられるのです。

 吉永小百合さんは、独身の頃に「戦争と人間」で、早くもラブシーンを演じてますが、エ

ポックメイキングになった作品は、「青春の門 筑豊編」で間違いないと思います。

 この映画の話が、浦山桐郎監督から来た時、吉永小百合さんは、シナリオを読んで、自分

には無理だと、何度も断ったそうです。
 しかし、浦山桐郎監督は「キューポラのある街」でお世話になっているし、監督の「非行

少女」「私が棄てた女」も観て感動していて、何度も懇願されるうちに手助けをしたいという

気持ちが生まれて、出演に応じたとか。

 この「青春の門 筑豊編」は、吉永小百合さんのただならぬ雰囲気に圧倒され、相当な勇

気と覚悟を必要としたというのが痛いほど伝わり、見るのが辛くなるほどです・・・ 

 しかし、ここまで生々しく、女性の性を演じきれたから、演技に深みが出て、女性として

の魅力が増していったのではないでしょうか?

  そうして私は、吉永小百合さんの女性としての魅力を表現するのに相応しい言葉はない

だろうかと、ずっと思案し続けていました。

 すると、ある日、ルネッサンス期に活躍した画家ボッティチェリの名画「プリマヴェーラ

」が脳裏に浮かんできたのです。

 
 春の花々が咲き乱れるオレンジの森に、遠い神話の国の女神やニンフたちがにぎやかに集

い、華やいだ祝祭的気分を満ちわたらせている。
 中央に立つのは愛と美の女神ヴィーナス。 その左には、優雅な三美神が舞い、ヴィーナ

スの頭上を飛ぶキューピッドが、愛の矢を三美神の一人に放とうとしている。左端ではメリ

クリウスがその伝令杖で樹間に漂う靄を払っている。
 右側に目を転じると、空を舞う西風の神ゼフュロスが逃げる花の女神フローラを抱きとめ

ようとし、その左では、鮮やかな花模様の衣裳で包まれた「春」の女神プリマヴェーラが婉

然と微笑んでいる。
講談社刊・NHK美術館「名画への旅」より

 この本によると、名画「プリマヴェーラ」は感覚美とエレガンスの極致と評され、こう書

いてあります。

 なぜこの作品はこんなにも人気があり、こんなにも私たちを魅了してやまないのだろうか


 それは、ボッティチェリの繊細巧緻な筆によって描き出された複雑な形象の織物が、主題

のある種の難解さを超えて、あまりにも甘美で鮮烈な美のアウラを発散しているからである

。理屈抜きの感覚的喜びと豪奢な装飾美、そして芸術的洗練の極致とも言えるエレガンスと

ソフィストケーションの感覚にあふれているからである。
 神話の女神たちのイメージは、ボッティチェリの数々の洗練された女性像のなかでも、き

わだって美しく、優雅で、文字どおり印象的なものである。知的な品位と女性的優美さにあ

ふれる聖母マリアのようなヴィーナス、フィレンツェ的なアイロニーと貴族的妖艶さをたた

えた「春」の女神プリマヴェーラ、楽しげなダンスに陶酔する純真無垢で官能的な三美神た

ち。どの人物の表情にも、ジェスチャーにも、コスチュームにも、研ぎ澄まされた耽美的な

エレガンスの感覚が満ちている。

 
 この作品自体の比類のない美的ビジョン、その全形象を特徴づけるきわだった美的特質。
 輝かしい感覚的・官能的な美の横溢と超越的・天上的イデアへの霊的観照が共存するヴィ

ジョン。
 それ自体にこそ、このロマン主義的な詩的宇宙観の反映と浸透を見出すべきだろう。かく

して私たちは、再び、知的想像と推理を超えた美とファンタジーの世界に戻ってゆくことに

なるのである。




 つまり、私が言いたいのは吉永小百合さんは、名画「プリマヴェーラ」に見られるように

、純真無垢で官能的な三美神の特質や、プリマヴェーラの貴族的妖艶さを持ち、それに一旦

は惑わされそうになりますけれど、加えて聖母マリアのような知的な品位と女性的優美さも

兼ね備えていて、最後には粛然とした気持ちにさせられるという事なのです。



 私は、この「夢千代日記」で、女性の儚いまでの美しさや、優しさや、魅力と同時に、性

の大切さをあらためて考えさせられた思いでした。




 

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2 コメント

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Unknown (ちはる)
2015-06-19 22:54:09
そして、性を、しっかり見つめ、大切さを認識した女性こそ、男性の目に、魅力的な女性

として映るのではないでしょうか?

また、性に関して、苦手だと言って、ないがしろにしていると、屈折した形で噴出してくる事があるのではないでしょうか?

奈々さん、なるほど・・・
私、この年になってやっと分かりました。

友人で別れても直ぐにまた彼氏が出来る人を何人か知っています。
最近もまたそんな事がありました。
どうして直ぐに出来るのだろう・・・と不思議に思っていたら
その人達に共通するところがありました。
一人になった寂しさに耐えられないのです。
何が一番耐えられないかと言ったら、性の関係がなくなってしまう事が耐えられないようです。
それで直ぐに別の男性と関係を持ってしまいお付き合いすることになるようです。
性から始まる愛なのでしょうか・・・

私にはそれがないからなかなか彼氏が出来ないような気がします。
だって男友達はいっぱいいるけど、恋愛感情を持てない男性とは、たとえ誘われてもそんな気持ちにはなれないでしょう?

男と女の関係で性の部分が重要だとしたのなら私は一生一人で良いと思っています。
だって心の結びつきが一番大事だと思っているのですから
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ちはるさんへ (奈々)
2015-06-20 06:14:03
ちはるさん、私はこのドラマの主題が、性にあったのを知り、この歳になって、ようやく、その重要性が分かるようになったんです。
だけど、歳を重ねるごとに、性欲が減退するのも分かるんですヨ。(笑)
だから、お色気と言い換えてもいいのですが、お化粧とか、ファッションに気を使う程度のことは、いつまでも大切にしていたいですよね。
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