ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

「異境の中の故郷」上映会と鼎談のご案内(1)

2015年03月31日 | 游文舎企画
 4月19日(日)、游文舎開館七周年記念企画として映画「異境の中の故郷」上映会などを行います。会場は游文舎から徒歩5分、柏崎駅から徒歩7分ほどの市民プラザです。午後1時半開場、午後2時開演です。
 映画は、作家・リービ英雄さんが幼少期を過ごした台湾・台中の“その場所”を52年ぶりに訪れる姿を追ったドキュメンタリーです。気鋭の映像作家・大川景子さんが、幾重にも積み重なった記憶の層を丹念にめくり、その度に揺れ動くリービさんの心の襞さえも映し取るように、繊細で、しかもきりりとした52分の映画に仕上げました。
 当日は上映後、リービ英雄さん、大川監督、そして旅に同行した作家の温又柔(おんゆうじゅう)さんの鼎談も予定しています。会場の皆さんとの質疑応答の時間の他、游文舎に移ってサイン会、懇談の時間もあります。ぜひお出かけ下さい。
 1950年にアメリカで生まれたリービさんが、父の赴任先・台中で過ごしたのは1956年から1960年までのことでした。1967年に初めて来日し、新宿歌舞伎町でアルバイトをしながら日本文学に目覚めます。その後は日米を往還し、アメリカの大学で日本文学の教授として、『万葉集』の研究や翻訳などをしながら、1987年、新宿時代の体験をアメリカで書いたのが「星条旗の聞こえない部屋」です。日本語を母語としない欧米人による、初めての日本語の小説でした。以降、「天安門」「千々にくだけて」など多くの小説を書く一方、「大陸」=中国を頻繁に訪れ、中国、アメリカ、日本についての紀行やエッセイも、日本語で書き続けています。それらの文章からは、たとえ日本の「私小説」のような形式をとっていても、日本語に対して極めて自覚的で、鋭敏で張り詰めた空気を感じないではいられません。そして複数の言語の渦をくぐりながら日本語で書くことによって、複眼的な思考や、生まれた国・アメリカを相対化する視線も獲得しています。
 昨年の講演については舎友通信などで紹介しましたので割愛しますが、熱のこもった、密度の濃いお話に会場も大変な熱気に包まれていました。そんな講演の前後の、スタッフとの懇談の中で、映画「異境の中の故郷」が制作されたことを伺い、いつか柏崎で上演しようと約束したのでした。
 それにしてもあれほど頻繁に「大陸」を訪れながら、なぜ対岸の国の“その場所”を訪れようとはしなかったのでしょうか。“その場所”とは、リービさんにとって、どのような場所なのでしょうか。 (霜田文子)

後藤信子さんの舞台美術─「道具たちの同窓会」

2015年03月23日 | 展覧会より


 りゅーとぴあ4階ギャラリーで開催されている後藤信子さんの「道具たちの同窓会」展を見た。後藤さんとは、2009年游文舎スタッフを中心とした実行委員会が携わり、柏崎で復活初演した古浄瑠璃「越後國柏崎弘知法印御伝記」の越後猿八座のメンバーとして知り合った。人形遣いだけでなく、小道具も担当されていた。人形遣いの中心を担った西橋八郎兵衛さんをして「そこに行けば何でも揃っている」と言わしめたアトリエ・ロマネスク工房で、創作人形作家、舞台美術家として活躍されていたのだった。
 「弘知法印御伝記」では、主人公・弘友(後の弘知法印)の妻、柳の前がいまわの際に産み落とした嬰児が、ぐにゃぐにゃで、生っぽくて、それでいてユーモラスで、決して「玉のような赤ちゃん」でなかったことが印象的だった。
 その後北方文化博物館で創作人形展「鬼子母神」を見る機会があった。案の定、可愛い人形たちではなかった。意地悪で、不気味で、妖しくて、どこか愛嬌のある人形たちが斜めの視線を向けてくる。見る人の心をちくちく刺激する。仮面を付けたら、仮面の“人格”が乗り移ってきそうだ。こんなに強烈な個性を持った人形たちを生み出し続ける後藤さんの想像力とエネルギーってすごい、と思ったものだ。
 今展では、舞台で使われた人形や道具や衣装などが大集合した。小道具とはいえ、空間展示のスケールは大きい。舞台の復元ではなく、実際の舞台を見ていなかったのが悔やまれるが、生き生きとした表情の人形と、対照的に虚ろな仮面や機械のような手を無数に並べたインスタレーション的な展示が圧巻だった。自分なりの物語がむくむくと立ち上がってくる。APPRICOTなど、キッズコースのものも多く手がけるが、仮面たちの大きくえぐられた眼窩は、大人の心をも取り込んでいく。舞台美術という制約の中でも、なお一貫した主張を持つ“役者”の魂を持つ道具たちだ。3月25日まで。(霜田文子)

多和田葉子『献灯使』を読む(3)

2015年03月20日 | 読書ノート
実は本書を一読したとき、多和田の奔放な想像力と、平板で駄洒落にすぎない言葉とのギャップにがっかりしたことを告白しなければならない。それが危機的状況と日常との回路がつながらない原因でもあった。しかし、それは多和田のもう一つの問題提起であったことに気づく。
 例えば「突然変異」は差別用語だから「環境同化」にする、というとき、私たちは現実に、形だけ耳障りよく置き換えられた言葉をいくらでも思い出すことが出来るだろう。また、「国民の祝日」とは、良かれ悪しかれ、国家の理念を表すものであったはずだ。しかし「川の日」だとか「枕の日」だとか、国民そろっての幼児化、退行現象のようだ。政府が大局を見据えた未来のビジョンを持てないからに他ならない。(と、思っていたらなんと、平成26年5月30日、新たに8月11日を「山の日」という祝日にすることが公布されており、28年1月1日施行だという。迂闊だった。いずれ「川の日」もできるかもしれない。)そして言葉は急速に劣化して死語となり、外来語は安直な言い換えに堕す。
 多和田葉子という作家は、言語に対して極めて意識的な作家だ。「献灯使」の中で教師が「言葉を耕す」と言っているが、多和田にとって言葉とはまさに「耕す」ものだ。『エクソフォニー』では「多言語を意識的、情熱的に耕していると単言語とは比較にならない精密さと表現を獲得する」と、外国語に触れることの重要性を言うと共に、「〈恋愛〉が〈色事〉より高級に見えたのは、現代人が近松の描いた人間達より高級なのではなく、西洋からの輸入品だからありがたがったのだろう」と、西洋追従も厳しく批判している。
 言語とは歴史を背負っているものでもある。死語とともに記憶や歴史も失われていく。置き換えによって微妙な変質、歪曲は免れない。それは責任の放棄にもつながりかねない。義郎はその危機感を自覚している人だ。無名は言う。「曾おじいちゃんは死んだ言葉、使われない言葉も全部頭の中に入っている。」「使わない言葉をたくさん脳の引き出しにしまっていて、捨てようとしない。」一方、義郎は無名の言語感覚に驚嘆する。絵本さえ翻訳出版されなくなった時代に「そのような翻訳調の挨拶をどこでおぼえたんだろう。」
 原発事故直後とは立ち位置が変わったという多和田にとって、過去の責任と未来を憂えながら死ぬことが出来ずに生き続けなければならない老人と、近い死を予想しながらも気高くけなげに生きている少年とは、書くほどに生き生きと輝きを増していったのではなかっただろうか。だが、ずっと揺るぎなくこだわり続けた「言葉」が、ここでももう一つの主役として、警鐘を鳴らしている。
(この項終わり)   (霜田文子)

多和田葉子『献灯使』を読む(2)

2015年03月17日 | 読書ノート

 「不死の島」では、原発事故後の日本政府が、得体の知れないグループに乗っ取られ、海外への情報が断たれ、さらなる大震災で放射能に汚染された国として海外からの渡航も途絶える。ブラックユーモアに満ち、読後は震撼とさせられる。これを膨らませて長編にするつもりだったという多和田は、その後福島を訪れ、立ち位置が変わり、その結果「献灯使」という、自分でも意外な作品が出来た、と何かで語っていた。
 とはいえ、外枠は大きく変わってはいない。義郎と無名ら、具体的な登場人物が現れ、歪んだ、不自由な日常生活が描かれている。当然、飛躍しすぎている部分もある短編を補って、日常との回路がより開けるものと思っていた。ところが、言葉を尽くせば尽くすほど、全体像や、本質的なものが見えにくくなっていくのだ。若者たちの将来を憂える義郎の不安は、社会問題として共有される気配がない。世界はどうなっているのか。なぜこのようになったのか。これからどうなるのか。まるで独裁者小説のように言葉は制約を受け、日々変わる法律に踊らされ、人々は声を潜める。民営化された政府が公共のビジョンを打ち出すはずがない。人々の関心もどこかずれていて、淡泊で、個人的だ。ある日、義郎は耐えきれずに義憤に駆られる。「思い出せそうで思い出せない昔の大きな過ちが胸を内側からかきむしる。その過ちのせいで自分たちは牢屋に閉じ込められている」―このもどかしさ、風通しの悪さ、行き場のない憤りこそが、災厄後の日本を支配しているのだ。
 ところで、本文中には「置き換えられた言葉」が頻出する。多和田葉子が得意とするところだ。ここでは差別用語や、外来語ばかりか、古くさくなった言葉が次々と置き換えられたり、死語になっていく。ここにこそ、多和田の痛烈な皮肉が籠められている。
(霜田文子)

多和田葉子『献灯使』を読む(1)

2015年03月14日 | 読書ノート
 多和田葉子の想像力が炸裂する。大災厄に襲われた後の、未来の日本。鎖国となり、外来語は禁止され、インターネットも使えない。政府は民営化され、法律は頻繁に変わる。老人は死ぬ能力を奪われ、若者は長生きすることが出来ない。野生の動物はいなくなり、子供たちは野原で遊んだことがない。曾祖父・義郎と暮らす無名は、ひ弱だが、美しく賢い。やがて15歳になった無名は、若者を密かに海外に派遣する「献灯使」に選ばれる・・・。表題作「献灯使」である。
 ドイツに在住し、日本語とドイツ語で詩や小説を書く多和田葉子の鋭利な言語感覚と、そこから展開される伸びやかで豊かなイマジネーションに目を離さずにはいられない。各紙で評判になっているこの本も、かねてよりの多和田ファンとして手にしたまでだから、東日本大震災や原発事故に関わる小説を読んできたわけではないが、ここまで具体的に災厄後の近未来を描いたものはなかったのではないか。
 尤も、教師が言いかけた「日本がこうなってしまったのは、地震や津波のせいじゃない。自然災害だけなら、もうとっくに乗り越えているはずだからね」という災厄を、福島原発事故に限定して読むのは早計かもしれない。ただ、私にはそれを超える大災厄を想像することが出来ないのだ。もちろん、自然災害や原爆や空襲の写真から、大惨禍をイメージすることは出来るし、終末論的光景もいつも脳裏にある。しかしあり得べき現実として、ここまで想像したことはなかった。安全神話を信じていたわけではない。いつかチェルノブイリを超える事故があるだろうとは思っていた。しかしいきなり日本で、これほどの事故が起きたことが、いまだに信じられないでいるのだ。しかも現状だけではない、いつ収束するか全く予測できず、今後なお想像を絶する事態が起こるかもしれないということを含めて。だからフクシマを念頭に置いて読まなければ多和田の想像力に付いていくことが出来ないし、そうであれば近未来小説としてしかあり得なかったことも肯ける。
 本書には最も長い表題作の他、いくつかの短編が含まれている。その中の一つ「不死の島」は、原発事故直後の2011年夏に書かれた。事故後の日本の近未来のイメージスケッチのようなごく短い小説で、おそらく海外にいたままで書いたのであろうが、妙にリアリティがある。    (霜田文子)