ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

毒素の秋Ⅲ 4日から

2017年10月31日 | 游文舎企画


2017年11月4日(土)~12日(日)
10:00~17:00(最終日:16:00まで)
※11月6日(月)休館

●11月4日(土)16:00? 出品者によるギャラリートーク

●出品者
井上英子、井上智子、猪爪彦一、季村江里香、佐藤美紀、柴野穀実、霜田文子、たかはし藤水、高橋洋子、藤井芳則、星野健司

――もし私になんらかの才能があるとすれば、それは陰欝なものをいやましに暗くし、悲しいものを発展させ、人生をその極限において描き、そして魂が不法かつ?神的なものの深淵の縁でうちふるえるときの情熱の葛藤を表現する才能である。(チャールズ・ロバート・マチューリン)

直喩から暗喩へ

2017年10月25日 | 展覧会より


10月19日から新潟市のアートサロン「環」で、游文舎企画委員の霜田文子がボックスアート展「ダ・ヴィンチの卵あるいはものがみる夢」を開催している。
ボックスの中にはダ・ヴィンチの描いた頭蓋骨のデッサンを貼り付けた、割れた卵が集積されている。21日のギャラリートークで霜田が言うように、それは自らの脳の代替物であり、思考する主体を示している。背景に貼り付けられた文字もダ・ヴィンチの鏡文字であり、作品が言葉の世界と密接につながっていることを暗示している。
 では、線香で和紙を焼いてつくった地図のようなものは何を表しているのだろうか。実物の地図なら、それはボックスの中で〝もの〟が生起する場所を直喩的に指示するが、地図ならぬ〝地図のようなもの〟であることで、〝もの〟が生起する場所が暗喩的に指示されるのだと言えるのではないか。
 割れた卵を中心にさまざまな〝もの〟が呼び寄せられてくる。それは赤い糸であったり、銅線であったり、錆びた鉄の欠片であったりする。脳がさまざまな〝ことば〟を呼び寄せるように〝もの〟が〝もの〟をたぐり寄せ、〝ものがみる夢〟の世界が作品として形づくられていく。
「無意識は言語のように構造化されている」とジャック・ラカンは言っているが、〝ものがみる夢〟の世界もまた〝言語のように構造化されている〟。夢の世界は直喩と暗喩から成り立っている。〝○○のような〟という近似的なイメージと〝○○のような〟という指標をもたず、より言語類推的なイメージが、夢にあっては混交して出現するのだ。
 だから霜田文子のボックスアートも直喩と暗喩の入り混じった世界として現れるのだと言いうるだろう。全体の構文を支えているのが作家としての霜田の主体だとしても、直喩や暗喩を導入するのは霜田自身ではない。そうではなくむしろ〝もの〟こそが直喩や暗喩を導入していくのだ。
 つまりボックスの中の〝もの〟と〝もの〟との関係は直喩的であったり、暗喩的であったりする。それは詩の世界、とりわけ現代詩と呼ばれる世界における〝ことば〟と〝ことば〟の関係と相即なのであって、霜田文子のボックスアートの世界は〝もの〟で書かれた現代詩なのだと言わなければならない。
 初期の作品も展示されている。2011年の東日本大震災と原発事故に動揺させられてつくった作品、あるいはその直後に書かれた長谷川龍生の「鹿、約百頭の」という詩編に触発されてつくった作品もある。この頃の作品は言ってみれば具象的であり、〝もの〟と〝もの〟との関係はほとんど直喩的なものであった。
 しかし、最近の霜田のボックスアートはより抽象化の方向へ向かっている。そうなるに従ってボックスの色が黒から白に変わっていったのは単なる偶然ではないだろう。背景としての白は黒よりも、より抽象的な場所として相応しい。黒はそれだけで意味を派生させるが、白はそうではないからである。
〝○○のような〟という直喩の指標は、限りなく意味に接近するが、指標を欠落させた暗喩は意味それ自体から遠ざかろうとする。霜田の作品が抽象化していくということは、〝もの〟と〝もの〟との関係がより暗喩的になっていくことを意味している。それは現代詩の趨勢と同様の傾向なのである。
 それにしても何という緊張感だろう。とりわけホワイトボックスの抽象的な作品は、地上の世界を超えた緊張感を漂わせている。抽象美の極致がそこで達成されているのだと思わざるを得ない。(柴野毅実)

イタミ、ニタエル・・・

2017年10月12日 | 游文舎企画

(14日 金子光晴の詩「洗面器」に合わせたセッション 堀川さん、西村さん
鈴木さん、早川さん、本間さん)


(真山有希さん、古田木綿子さん、権藤真弓さん)

(堀川久子さん)

本間恵子さんの個展が始まった。オープンスペース、ギャラリーとも使った意欲的なインスタレーションである。
吊り下げられた大きな長方形の布に、等身大の人の形が浮かび上がる。無駄なものを削ぎ落とした痩躯な人型はまるで影法師のようだ。ギャラリースペースは白い布を使った白い部屋。短く切り刻んだ糸で作られているという人型は、血液や細胞が流動するような奇妙なざわめきを感じさせる。一方オープンスペースには、人型に切り抜かれた新聞紙が黒い布に挟み込まれている。無いはずの目が、闇の中で目を凝らすようにして確かな視線を放っている。
初日には即興演奏と身体表現が行われた。かすかな音に目覚めさせられたかのように始まった堀川久子さんの舞踏は、イタミを抱えたヒトが何かを探し、追い、求め、影法師の間を、さまよい、歩き、駆ける。通り抜ける風のようでもあり、老婆のようでもあり、少女のようでもある。地底から響く声や、鳥のような声にならない声を発し、闇を抜け、朝の光の中で、突然詩のような言葉が生まれる。林立する影法師の中で、いつのまにかどちらが実像でどちらが虚像か見失いそうになる。
本間さんの作品には、「芯」だけになった「ヒト」の、毅然とした意志を感じる。まるで沈黙が言葉を生み、静止が動きを促すかのように。
即興による演奏と身体表現は14日(土)午後2時からも行われる。出演は堀川久子、西村憂輝、鈴木正美、早川美穂、本間恵子の各氏。

本間恵子個展 7日から

2017年10月06日 | 游文舎企画


10月7日から長岡市在住の本間恵子さんの個展が始まる。
ギャラリーだけでなく、フリースペースも使ってのインスタレーションである。
また、7日と14日午後2時からは即興演奏と身体表現によるパフォーマンスも行う。

  (本間さんの2015年「新潟の美術家たち」展の作品)