ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

倉持至宏展「降り積もる罰よ、略奪者を圧し潰せ。」(2)

2023年11月05日 | 游文舎企画

「私だけが、この世界で慈悲深くある必要はない」

倉持至宏 —侵略を拒む聖性の孤独
                                 
                 魚家明子(詩人、北方文学同人)
倉持至宏の作品には世界というものをリアルな実在むきだしの塊で見せてくるような迫力がある。おそらくはアニメや漫画の影響も世代的に大きく受けながらも、もうひとつ皮膜を突き破る表現を求めて底知れぬ深さと暗さをもくるんだ作品に仕上げようとしている。彼の作品に付けられたタイトルはどれも詩的で、そして安寧を拒むような鋭さがある。彼は「天国」という名のものに身を預けきって自身を放棄し、弛緩した安らかさのなかにいようと願いながら絶え間なく裏切られるようなあり方を拒む。イノセンスを讃えながらも、肉体をもちこの現世に生きる私たちがいつまでもイノセントでいることはできないこと、また、そうしようとすることが堕落へとつながりかねないことをさりげなく描く。欲望とエゴイズムのうずまく世界のなかで、侵食もせず、侵食されもせず、お互いが垂直に天と地獄の間に立つ存在そのものとして形を確かにあらわしてゆく。そういうあり方にしか自分は関係性を求めたくないと思っているのかもしれない。そしてそもそも自明の関係性、というところを疑うところから、ものごとはリアルに立ち上がってくると思っているのではないか。ことばや視覚による世界の捉え方が予定調和的に収まるとき、その陰に必ず排除され、涙を流すものがいるかぎり、そうしたあり方に両手を広げて反発する鋭敏な感性をもっているように感じる。
その立ち方は、人は孤独に自律して初めて天に、神聖なる存在に対峙することができるというようなストイックな姿勢であり、地獄に立つことを宣言しながら聖的な境地を求めるアンビバレントな立ち位置である。それが私たちにこの複雑な現代を生きる、なまなリアリティを突きつけ、距離をもった不思議な共感となぜか少しの安堵をもたらすのだ。侵食されることを拒むものとして目の前に立つこの作品は、同時にこちらを侵食することも注意深く避けようとし、異なった方法で鑑賞者の存在にさわりながら、静謐に存在そのままであり続けようとする。モチーフとするデザインは暴力性もはらんでいるようでありながらも、その筆致に乱暴さはない。下地の塗りにも迷いのない確かさを感じるのは、長い鍛錬に定まっていった技術力の高さを感じさせる。すばらしい作品群は、観るものの心に静かに泉の波紋のように印象を広げ、残像を残してゆくだろう。


「死んだら天国へ逝けると思うな 1」