ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

トニ・モリスン『ビラヴド』とその時代(9)

2022年03月27日 | 読書ノート
その後もなお苦闘を続けながら、ポールDはそれらの記憶を「刻みタバコの缶に封じ込め」ていく。ゆっくりと時間をかけて。だから再びこじ開けることなどほとんど不可能なのだ。そしてこじ開ける代わりに、セサに向けて「お前自身がお前のかけがえのない宝なんだ」と言う時、自身にも言い聞かせたことだろう。こうして自分を取り戻し、再生していこうとする二人を描ききっているのだが、作者はここで終わらせてはいない。この後、文庫本にして3頁あまりの、散文詩のような章がある。
 124番地で起きたことを思わせる、しかしおぼろな夢のような断片。誰かがいた、けれどすぐに消えてしまう足跡。そしてリフレインされる「これは人から人へ伝える物語ではなかった」――訳者の解説がなければ知らなかったのだが、「伝える」の原語は「pass on」であり、これは「忘れる」という意味ももつ。ならば「伝える物語ではない」はまた「忘れてはならない物語だ」と、正反対の意味になる。これは黒人たちが自分たちだけに伝わるように歌に込めたダブル・ミーニングを踏まえてのことだろうか。「伝えたいこと」がそのまま「忘れたいこと」でもある矛盾、葛藤を思い知らされる。黒人たちと共有する記憶を持たない私たちは、思い出すことは出来ないけれど、想像することはできる。
 本書は「124番地は悪意に満ちていた」という文章で始まる。セサたち家族の住むところだ。執拗に繰り返される124という数字――なぜ3がないのだろう。1,2とは長男と次男、そして4は末子のデンヴァーにあたるのではないか。そうなのだ。3とは殺された赤ん坊に違いない。
 
 「誰もが、彼女がなんと呼ばれていたかを知っていたのに、何処の誰も、彼女の名前を知らなかった。」

ほとんど登場することのない二人の男の子にさえ、ハワードとバグラーの名前が与えられていたのに、私たちは赤ん坊の本当の名前を知らされていなかった。「もうはいはいしてんの子ちゃん」という愛称は、無垢で可愛い盛りだったことを思わせはしても成長していくはずの彼女に呼びかける本当の名前を誰も知らないのだ。「ビラヴド」とは、セサが体と引き替えに石工に彫らせた「墓碑銘」である。だからビラヴドの存在はセサに子殺しの記憶を突きつけるが、その響きは屈辱と悔恨と、それでもやむを得なかったという思いと、さらには石工にもっと時間を与えれば「かけがえのない」まで彫ってもらえたかもしれないと思ったことまで蘇らせるのだ。

「自分の鎮魂の成就に気を取られ、彼女はもう一つの魂のことを忘れていた。赤ん坊だった娘の魂を。ほんの小さな赤ん坊がこれほど激しい怒りを抱くことが出来るなどと、誰が想像しただろう。」

これを責めることは誰にも出来ない。けれどもセサに、ビラヴドの際限のない欲求にひたすら答えることを強いる。何よりも「ビラヴド」という響きがセサの尊厳を奪っていく。人間としての誇りをとことん傷つけられたポールDだからこそ、それを救えるのだ。
『ジャッカ・ドフニ』のチカは、不在の相手に手紙を書き、呼びかけた。しかし名前のない赤ん坊に呼びかける術を誰も知らない。だからビラヴドの方から呼びかけてきたのだ。「不在」を訴えるのだ。それは一人ビラヴドだけではない、呼びかけられなかった人たち、忘れられた人たち全ての声として。私たちが黒人問題、奴隷問題などと言うとき、なお、個としての彼らに想像が及んでいないことを認めなければならない。しかしそれぞれの生があり、死があるはずなのだ。スタンプ・ペイドが聞いた、セサの家を取り巻く喧しいわけのわからない言語とは、確かに死者となった黒人たちの怒り呟く声だっただろう。生者だけではなく、死者もまた生きがたいのだ。ビラヴドとはそれらの声を呼び寄せ、伝える者でもあったのだろうか。依り代のように。
 私には「124番地」と出てくる度に、不在の存在がドアをノックしているように聞こえる。誰が? ビラヴドが。そして無数の死者たちが。(この項終り)

トニ・モリスン『ビラヴド』とその時代(8)

2022年03月26日 | 読書ノート
対話や独白、内的対話を多用したドストエフスキーの文学を分析し、文学におけるポリフォニー論を打ち立てたミハイル・バフチンは次のように言う。

 「(ドストエフスキーにあっては)どんな意見も生きた存在となっており、具現化した人間の声から切りはなしえないものとなっている。そうした意見は、体系的・モノローグ的なコンテクストのなかに導入されると、本来の姿を失ってしまう。」 

 「(ドストエフスキーにおいては)〈真実〉はそもそも主人公自身の真実にしかなりえない」
(いずれも『ドストエフスキーの創作の問題』 桑野隆訳)

個人と共にある記憶は、しばしば時間が錯綜する。どんな過去も、語り手にとっては現在とつながっているものであり、そこからしか語り出せないものである以上、時間は均等に一元的に流れるはずはないからだ。さらにそれぞれが語る「真実らしいもの」が集まっても、決して「真実」かどうかはわからない。それでも個々の声には実存的な生が反映されている。モリスンもまた、作者の視点で体系的に語ることを丁寧に避けているのだ。
しかし、前述のように語りには記憶違いや、幻覚や幻聴だけでなく、虚偽だって混じり得る。それはもちろん楽しかったこと、よい記憶だけではない。辛い記憶は故意に意識の底に閉じ込めておこうともするし、歪めもするだろう。それらすべて、すなわち語り手にとっても〈真実〉でないことも含めて、切実な事実と言ってよいのではないかと私は思う。「文学」とは、記録や実証とは異なるところに存立し、個々の生、それぞれの現在に結びつける手段だといえるのではないだろうか。西は前掲『声の文学』で次のように述べている。

 「ひとつひとつの「語り」の信憑性という踏み絵にはそもそも立ち向かえないのが小説だが、逆に「真実の語り」らしきものが、いついかなる場所で、どのよう
 に「遂行」されるのかを語るのが、小説というものなのかもしれない。」

 さて、方法にばかり注目したが、モリスンの美しい表現についてもどうしても紹介したい。やはり文学を文学たらしめるのは、文体や表現力だと思うからだ。とはいえ、黒人の音楽を思わせる詞章は、意味はわからなくてもやはり原語で、できれば朗読で味わいたいと切に思う。翻訳者の努力を承知の上でそう思うのも、訳文だけでも実に生き生きとしたリズミカルな響きを想像させられるからだ。
 先に黒人たちの肌の微妙な色の違いについて紹介したが、その肌色に対比させるように、黄色い花、白いパン、白い階段やドレス、カブラの白と紫等の色が差し色のような効果を生む。それだけに「ルビーのような血のしずく」といった赤色が、禍々しい記憶へと直結する。
 そんな中でもとりわけ胸を打つのがポールDの北への逃避行の場面だ。最悪の記憶の場・ジョージア州アルフレッドから奇跡的に脱出し、これもまた迫害された民族チェロキー・インディアンの野営に留まった後、北部へと向かう道を尋ねた時のことだ。

 「「あっちだ」彼は指さして言った。「木の花についていくがいい」彼は言った。「木の花だけだ。木の花が進む方向に、あんたも進む。木の花がなくなったら、あんたは行きたい所に着いている」」

地図を持たないポールDは、彼らの知恵に従い、開花前線に沿って北上する。花ミズキから桃、桜、泰山木、ムクジロ、ペカン、クルミ、梨の花、リンゴの花へと季節の移動と共に旅は続く。

 「春はそぞろ歩きほどの速度で北上したのだが、この春を道連れにしておくために、彼は無我夢中で走らなければならなかった。二月から七月まで、花の咲きぐあいを注意深く見続けた。花の姿を見失い、道案内をしてくれる一枚の花びらもなくなると、立ち止まって、小山に生えている一本の木に登り、地平線をくまなく見渡して、一面の緑の世界の中に、ピンクか白の鮮やかな色の斑点を捜し求めた。」

こうして花の季節の終りに自由州デラウェアにたどり着いたのだった。 




 

トニ・モリスン『ビラヴド』とその時代(7)

2022年03月24日 | 読書ノート
津島とモリスンの影響関係についてはここでは問わないが、共に影響を受けていたと思われるのがウイリアム・フォークナー(1897~1962年)だ。
フォークナーの作品では、章ごとに語り手が変わったり、意識の流れ、無意識、深層心理なども含めて、意識の動きを流動するままに書いていったりして、複数の証言者の語りや意識を重ねていく。また過去と現在が交錯するという複雑な構成を取りながら、次第に物語の全体が明らかになっていく。そうした手法を確かに彼女たちは引き継いでいるのだ。手法だけではない。白人ながら生まれ育った南部社会の根底に流れるものを重要な舞台装置としていることから、モリスン作品の登場人物や因習と重なり合う描写も多く、一方『響きと怒り』の、知的障害を持つベンジーと姉のキャディの関係は、津島がモデルとして何度も書いている、自身とやはり知的障害者である兄との関係を思わせる。また同一人物(津島は名前を変えているが)を他の小説にも繰り返し登場させることにも共通性を見る。
それでもあの息詰まるほどに重苦しく、最後まで救いを得ることの出来ないフォークナー作品に比べて、二人の作品は重いテーマではあってもどこか救いを感じる。ひとつには、フォークナーがいくら土俗的・因習的な世界を描いても西欧的な手法で、それこそぎゅうぎゅうとその思念を詰め込むような書きぶりであるのに対して、モリスンが黒人の音楽を、津島がその血を引いているかもしれないアイヌの歌を、まるで身体の奥底に宿していたものが迸り出たように物語の中に紛れ込ませていることにもよるのではないか。それらは口から口へ「伝える」ために歌われたものであり、歌い継がれるということは、未来に開かれていく可能性を示しているからではないかと思うのである。そしてその発想は、差別された側からだこそではないかとも思う。
その上で、先ほど「産みの文学」と言ったことは、必ずしも女性にこだわることではない、と断っておかなければならない。西成彦は男たちの海の物語へのカウンターと言ったが、「産み」はもちろん「生み」でもあり、生命そのものであり、数多の生死と向き合うことでもある。もし女性に特権的だというならば、よりマイノリティーの立場からの声であることや、しばしば巫女の役割を担わされたという意味での女性性によるものであり、内容によってのことではないと思うからだ。事実、石牟礼の世界、漁村にあっては男も女も子供も誰もが海の民として全く平等だ。
余談になるが、フォークナー『アブサロム・アブサロム』では、広大なプランテーションを経営するトマス・サトペンの暴君ぶりや、その息子の、黒人の血が混じる異母兄への異常なほどのこだわりに、ずっと強い違和感を覚えていたのだが、『ビラヴド』を読むことによって、法的な背景まであってのことだったと納得がいったのだった。

トニ・モリスン『ビラヴドとその時代』(6)

2022年03月22日 | 読書ノート
ところで独白や黒人音楽などをそのままの形で取り入れた本書を読んでいて思い浮かんだのは、津島佑子の遺作『ジャッカ・ドフニ』(2016年)だった。始めからよい読者であったわけではないので、いつ頃からかは不明だが、津島は『ナラ・レポート』((2004年)や『黄金の夢の歌』(2010年)などの作品で、語り物やアイヌや中央アジアの歌、あるいは手紙などを取り込み、それも地の文にならしてしまうのではなくそのままの形で提示することで多数の声を響かせる手法を見せている。その最高傑作が『ジャッカ・ドフニ』ではないかと、私は思っている。ここでは、モリスンよりはなじみのある津島の作品についても考えてみることで、モリスンの理解に援用したい。もともと聞き書きや語り物というジャンルはあったが、それを意識的に小説化していることの共通性を強く感じるからである。
 石牟礼道子『苦海浄土』が、書かれた当時よりも、近年益々文学としての評価が高まっていることや、津島のような作家が出ていることを私は平成文学の一つの特徴ではないかと思っているのだが、それは日本だけのことではない。ベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエーヴィッチがノーベル文学賞を受賞したように、「聞き書き」のアレクシエーヴィッチと、「創作」の津島との距離は極めて近いところにある。「声=語り」はいかにして文学になるのだろうか。しかも女性作家が多いのはなぜか、という疑問もわいてくる。
 「ジャッカ・ドフニ」とは、網走に実在した、少数民族ウィルタ人のゲンダーヌが作った資料館である。作家自身と思われる私(あなた)が亡き息子と訪れた記憶と、十七世紀キリシタン弾圧時代に生れた日本とアイヌの混血・チカの生涯とが並行して語られる長編小説である。隠れキリシタンとして転々とし、さらにマカオからバタビアへと移るチカは、時折風のような途切れ途切れの歌を思い出し、母や出自を想像する。そして老いを迎えたチカは、かつて旅に同行したジュリアンに宛てて、代筆による手紙を書く。ジュリアンはどこにいるのか、生きているのかわからないままに、「不在」に宛てて書き綴るのである。時間は往還し、ユーカラや、手紙(それも代筆者の補筆も加わる)などで様々な声が響き合う。その根底にあるのは差別である。
 西成彦は『声の文学』(2021年)において、コンラッドやヘミングウェイ、さらには『オデュッセイア』まで遡る「西洋海洋文学」の古典に対して、「非主流海洋文学」としてカウンターを試みる台湾の作家を紹介した上で、石牟礼道子や津島佑子をその系譜として注目し、『ジャッカ・ドフニ』こそ、「(山崎朋子や森崎和江のような)「底辺女性」の「海の物語」を掘り起こし、再創造するという、「聞き書き」ならではの作業を、小説という形で引き受けようとした、女性作家の手になる現代文学の系譜に列なるもの」だと言う。
奇しくもモリスンはコンラッドやヘミングウェイ、さらにイサク・ディーネセン、ソール・ベローらを挙げて「文学にあらわれるアフリカは、旅人や外国人にとって、倦むことのない遊園地である。」「言われるがままに沈黙し、都合よく空白で、紛れもなく異国の地であるアフリカは、ヴァラエティに富んだ、文学的かつイデオロギー的、あるいはイデオロギー的必要条件を満たすべく仕向けられうるのである。」(『「他者」の起源』2017年)と述べている。「西洋海洋文学」同様、「西洋アフリカ文学」もまた西洋的視点が支配していたのである。
そのモリスンと、石牟礼、津島に通底するのが「海」であり、それは「産み」と読み代えることも出来ないだろうか。羊水と海水、それは作品の中でしばしば混じり合い、しかも物語を生み出す場となるのだ。

トニ・モリスン『ビラヴド』とその時代(5)

2022年03月20日 | 読書ノート
そういえばあの盛大なパーティーはスタンプ・ペイドの勇敢で無私の好意から始まったのだった。毒虫やイバラと格闘し採ってきたバケツ二杯分の木イチゴは、いくつものパイになり、あれよあれよという間に豪華なごちそうができあがり九〇人分の胃袋を満たした。まさに魔法のようで、しかしそれが町の人々の気持ちを離してしまうとは。饗宴に預かった人たちは逆に嫉妬と不信と嫌悪を抱くことになってしまったのだ。それは共同体が感知するや、すばやく連携し対処するはずの、外敵への防御を怠らせてしまう。鋭敏なはずのベビー・サッグスの嗅覚をも妨げてしまった。だからいきなりスウィートホームの「先生」がやって来るや、悲劇は起こった。彼らが目にしたのは血だらけの子供たちと、首をかききられた赤ん坊を抱え、乳飲み子の踵を掴んでいる女だった。とっさに乳飲み子をひったくって行ったのはスタンプ・ペイドだった。既に使い物にならない女と子供を前に奴隷主たちは立ち去ったのだった。
それにしても、このパーティー、あるいはサーカス、スケートと、楽しい記憶の後には必ずと言ってよいほど、不幸が呼び寄せられてくる。それらの楽しい出来事とは、本当にあったことなのだろうか。あんな大盤振る舞いなど出来るわけないではないか。セサたちのスケートには「三人がころぶのを見た者はいなかった」と繰り返し書かれているではないか。デンヴァーがセサから聞くのが大好きな、白人女エイミー・デンヴァーがセサを助けた話だって、セサの幻覚ではなかろうか。ほら話のようなエピソードこそ、「語り」の真骨頂かもしれない。楽しかった記憶は、膨らみ、人を饒舌にする。それはまた、記憶の揺らぎを増幅させもする。
一方、前述のように、ポールDの問いにセサは行きつ戻りつしながら過去を語り出す。それだけではない。デンヴァーの問いに答えるセサ。ポールDや、スタンプ・ペイドやデンヴァーの独白。さらにビラヴドの歌うような語り。「語られていなかったこと」とは「語ることが出来なかったこと」であり「忘れたいこと」でもある。その痛みと葛藤の中で語り出されたことが真実かどうかはわからない。ビラヴドのように、幻聴のような言葉もある。重層的に語られはしても、あくまでも個別の声として、多声的に響き合うだけだ。重なりの中に真実が見えるというわけでもないのだ。むしろ丹念に語りを引き出すことによって、駆り立てられるのは読者の想像力の方かもしれない。私たちは度々時間を逆行しては「思い出す」ことを強いられているのだ。それは単に、史実として伝えられている奴隷制度の過酷さや黒人たちへの差別といったものではないだろう。では何を思い出せばよいのか?何を想像すればよいのか?