ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

九段理江「しをかくうま」

2024年01月23日 | 読書ノート

誰かいるのか?

ヒは問う。返事はない。ヒの問いがヒの体の中でこだまする。誰かいるのか? 誰かいるのか? 誰かいるのか? 誰かいるのか?

 

九段理江「しをかくうま」はこんな風に始まる。そのままぐいぐい引きこんでいく言葉の力があった。

 

初めに獣がいた。風景を断ち切るようにして広がる胴体があった。がっしりとした太い首の先に縦に間延びした顔があった。空に向か って突き立つ耳があった。聞くべき音はすべて天上からのみ降ってくるとでもいうかのように、体の頂点に取り付けられたその尖った耳の下に暗い眼がありそれは夜の全体を丸めてたまたま眼の形にしておいたみたいに果てしのない色をしていた。 胴から顔にかけての半身がたとえば森林の中の太い一本の樹木の幹なのだとしたら、木の立ちかたとは反対に枝に相当する細い四肢が幹を支えその枝を軽々としかし複雑な運びによって操り駆ける獣だった。ヒにはそのように見えたので、「夜を眼にして横に倒れて走る木の獣」と名付けた。

 

引用が長くなったが、ここにはホモ・サピエンスがものを認識し、名付ける行為が凝縮されている。そして「名付ける」ことそれ自体がいかに「詩的」なことであるかにも気づかされる。

第170回芥川賞が九段理江「東京都同情塔」に決まったとのこと、私は受賞作を読んでいないがたまたま「文学界」2023年6月号で氏の前作「しをかくうま」を読んでいて、その才能に瞠目していただけに、受賞作の高評価も想像に難くない。

「しをかくうま」はまず「詩を書く馬」と置き換えられるが、あるいは「死を欠く馬」とも読めることも文中で示唆される。そしてここでは「シヲカクウマ」という馬名でもある。物語は冒頭の、ヒというホモ・サピエンスとビという旧人との遭遇や、馬に乗ること、それが人類を大きく変化させたという「過去」と、競馬アナウンサーの「わたし」を取り巻く「現代」とが交互に語られ、終章で未来人「TRANSSNART」が出てくるのだが、一貫しているのは彼らが原初から立ち上がってくるような言葉を信じ、語り合おうとしているということだ。ちなみに「シヲカクウマ」は、「わたし」が愛してやまない牝馬である。

 競馬アナウンサー「わたし」が理想とするアナウンスとは馬の言葉をそのまま伝えるようなアナウンスのこと。彼はネアンデルタール人(旧人)の血を持つ馬主にその方法を学ぼうとする。馬主は直接言葉を教えるのではなく、現在から過去、未来へと馬と人の歴史を語りなおす。時間軸の概念だけでなく、馬と人との関係も根底から覆す。当然、人間のいわゆる近代的な知性というものも問い直されることになる。そもそもの前提を白紙化するのだ。そうして彼は暗い谷の底から響いてくる声と交信できるようになる。

 TRANSSNARTが生きる未来は、個人がそれぞれ、生まれつき持っているオールドブレインと、人工知能らしいニューブレインによって支えられているが、彼はあえてニューブレインをoffにして人間本来の思考や言葉だけで詩を書こうとして、生命の危機に瀕する。幸せとは何か。薄れゆく意識の中で、未来の原始人は考え、聞く。馬たちの「乗れ」という言葉を。そして彼もその言葉を発する。それを聞く者がいることを信じて。「えいえん」に繰り返されるであろうことを信じて。「ここにしはない」と信じて。

 物語は競馬アナウンサーの「わたし」とその時代が中心だが、本来語彙が最も乏しかったはずのヒとビの時代がとても想像力豊かに描かれていて読みごたえがある。進化しているヒに対してビは分節化された言語というものを持っていない。(そもそもヒの仲間は、ビの仲間たちを滅ぼした種族だ)。ヒはビと会話らしい会話が成り立たず、孤独感を抱いている。孤独などという概念さえ持たないビだが、それでもヒの言葉を覚えようと必死で復唱する。ビは、ヒが「夜を眼にして横に倒れて走る木の獣」と呼ぶ動物を「マ」と名付ける。「乗れ」というマの言葉を聞くヒは、ビとともにマに乗り、森を疾駆し、それが世界を大きく変えることになる。しかしヒは落馬して死ぬ。空白を埋めるようにビはおんなを通して獣の言葉と乗り方を伝えることになる。

 人が馬に乗るとは、実は「乗れ」という馬からの命令の声を聞いた者がそれに従ってのことなのだ。馬を語るこの上ない美しい一節を引用して締めくくることにする。

 

ビはまどろみながら大気と水をきらめかせる太陽の方向へ寝返りを打つ。すると、すっかり人類の傍らで寝起きすることになれた大き な獣が、四肢を折りたたみくつろいでいるのが見える。春の風が草原をやさしく撫ぜて緑を波立たせていくように、彼女の呼吸に合わせて体毛の上を光がなめらかに移動する。ビは理解する。色々の色の様々な様子の生命がある中で、なぜ木があのような形をして、なぜ自分はこのような体で、なぜマがそのような在り方で存在しているのかを。なぜマの背はこうも広く、また目にも留まらぬ速さで四つの足を動かすのに、まるで大事なものを載せているかのように平らかな背の形を保ったままでいるのかを。大きく艶やかな彼女の体の表面に、ビは凝縮された世界の姿を見る。ビを構成する諸々の器官を通して、すべての現象が立ち入ってくる。世界が首を傾ける。世界が耳を動かす。その運動の向こう側に、風景が出現する。夜のように果てしのない眼が彼方を見つめる。果てしのない時間が見つ め返してくる。そのように発生したある秩序に向かって四つの足が直立し、歩き出す。時が動き始める。それは生きているのだ。  (霜田文子)

 

 

                           


世界と柏崎を結びつけた人         ―石川眞理子さん遺稿集『音探しの旅』―

2023年01月11日 | 読書ノート


みんなこの街のどこかに住み、働きながら
音探しの旅を重ねている
自分が自分で在り続けるために
(石川眞理子「音市場の朝に」より)

昨年5月急逝された石川眞理子さんの遺稿集が刊行されました。本業の薬剤師はもとより、柏崎の音楽界のリーダーとして様々なイベントを開催し、さらには地域興しや、原発や憲法九条の市民運動に携わるなど、八面六臂の活躍ぶりは多くの人が知るところです。そんな多忙の中でもたくさんの文章を残してくれていました。まずは没後半年でそれらをまとめ上げた編集委員の方々に敬意を表したいと思います。
「ジャズ・ライヴを聴く会」を立ち上げた一九八六年以降、30年以上の年月にわたって書かれたもので、当時の私はその行動力をまぶしく眺めていたものでした。けれども今読み返しても決して古びてはいません。それは眞理子さんが単に先見性を持っていたからだけではなく、行動力を裏打ちする知識と洞察力を持っていたからに他なりません。巻末の年譜にあるようにまさに時代と切り結んでいた人ですが、決して流されることがなかったのも、ぶれることのない芯を持ち続けていたからだと思うのです。
 本書の多くを占める音楽関係の文章は卓抜です。これだけの音楽批評を柏崎で書ける人はかつていませんでした。批評とは、演奏者を励まし、鑑賞者の手引きとなるものです。批評なくしてその世界の進展はありません。その指針が残されていることの幸運を思わずにはいられません。秋吉敏子、山下洋輔、ベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラ・・・・・・そうしたビッグネームを招聘する一方で、アマチュアの一人一人にも場を提供し、鑑賞者にも居心地のよい空間を作り出してくれました。
 眞理子さんは游文舎にも足繁く通ってくださいました。家業の薬局奥の蔵には彼女の眼によって選び抜かれた作品が陳列されていました。掛けるピンの一つ一つにまでこだわって展示された蔵は忙中のひとときの安らぎでもあったでしょうか。同時に、若い作家たちへの目配りは音楽と通じるものでもありました。そこにはかつて柏崎の文化人が中央の作家たちを支えた「パトロン文化」がなお息づいていたように思います。
 実は私が好きなのは、「エンマ市今昔」と題された、商家の風習を綴ったエッセイ。そのヒトコマを活写した文章に思わず「上手い」とうなりました。そしてこれが眞理子さんを培った土壌でもあったと思ったのです。
 地方には類を見ない、世界規模で人脈を持ち、柏崎に招いていた眞理子さんですが、焔魔堂や柏盛座を庭のようにして育ち、えんま通りの賑わいの中で呼吸し、何よりもエンマ市を愛し続けた人でもあったのです。


定価1000円(+税) 市内書店で販売中

ブルーノ・シュルツ――揺らぐ国境の町で(2)

2022年04月09日 | 読書ノート
ところでナチス・ドイツによるホロコースト以前、ポーランドにはヨーロッパで最も多くのユダヤ人がいたことは案外知られていないかもしれない。その数三〇〇万人はアメリカに次いで多く、一割強という全人口比率は世界最大であった。ちなみにウクライナは一五〇万人、ドイツは五〇万人である。また二〇世紀に入ってアメリカが急増したのは、旧ロシア・旧ソ連での相次ぐポグロムで移民した人が多いからだ。
 なぜポーランドにユダヤ人が集まったのだろうか。野村真理著『ガリツィアのユダヤ人』(人文書院 二〇〇八年刊)によれば、ローマの圧政で紀元一世紀から始まっていたユダヤ人への迫害は、十字軍以降さらに激しくなり、その移動先もより遠方へ、東方へと拡がった。そんな中でユダヤ人に対して、ポーランド王たちが手厚い保護政策をとったのだという。そしてユダヤ人の間では「ポーランド」という地名は、「ここにとどまれ」を表わすヘブライ語「ポ・リン」に由来すると伝えられているという。以下、同書が紹介するハイコ・ハウマン著『東欧ユダヤ人の歴史』の一部を引用する。

 イスラエルの民は見た。苦難がたえず新たに繰り返され、悪しき定めがいや増し、迫害が増大されるさまを。(中略) かくして彼らはポーランドへ行き、王に黄金を丸ごと贈ると、王は礼をつくして彼らを受け入れた。(中略) この国の名もまた、聖なる源、すなわちイスラエルの民の言葉に由来すると信じる者がいる。というのもイスラエルの民がこの地にやって来たとき、彼らが「ポ・リン」と言ったからである。これは「ここにとどまれ」という意味で、彼らは、神が散り散りになってしまったイスラエルの民を再びお集めになるまで、われらはここに宿ることにしようと考えたのだ。

まさに今、ウクライナから難民を受け入れているポーランドの光景と重ねたくなる。もちろんポーランド王が厚遇した背景には利害の一致があったからであり、大国に挟まれ、不安定な政治に翻弄されていたポーランド人やウクライナ人にとって、ユダヤ人は必ずしも好ましい隣人でなかったのは事実だ。不完全ながらもユダヤ人の法的平等を謳っていたハプスブルク帝国時代から民族自決の時代に入ったとき、それは先鋭化する。ここからはポーランドにもウクライナにも耳の痛い話になる。それは翻って我々日本人にもそのまま当てはまるのだが。
ドロホビチの生家を第一次世界大戦時にロシア軍によって焼き払われたシュルツであるが、彼らガリツィアのユダヤ人を悩ませたのは、むしろその後独立ポーランドと、独立をはかるガリツィア=西ウクライナとの帰属を巡る闘争の渦中で、どちらからも敵視されたことだろう。それはちょうどシュルツの生きた時代のことだ。ポーランドによるポグロムや暴行や排斥が続き、一方ウクライナ民族主義者たちは次第にナチスに接近し、独ソ開戦後にはドイツ軍と共にポグロムを引き起こしている。シュルツは、一九三九年ソ連占領下で教職を続け、社会主義リアリズムの絵を描き(もともと美術教師であった)、一九四一年にドイツに占領されたドロホビチで、翌年、ゲシュタポによって路上で射殺された。
随分前置きが長くなってしまった。これらは背景状況でしかない。早く作品について語らなければならない。“悲劇的な運命”というバイアスをかけてはいけない。こうしたことはシュルツにとって決して本意ではないはずだ。シュルツの作品には、驚くほど時代性や政治性が見られない。私もまた、日常性からかけ離れたひたすら妄執的な世界にどっぷりと浸ってきたのではなかったか。それもこれもロシアのウクライナ侵攻というショッキングな事件のなせるところだと思いたい。ただ、それでは狂気の時代であっても作品に影響はなかったのか、といえばそれはあり得ないだろう。戦争の狂気を眼前にした今、ポグロムやホロコーストの恐怖に脅えながらなお「ポ・リン」――ここ・ドロホビチにとどまり続けたことが作品解釈に反映されてもよいと思っている。





ブルーノ・シュルツ――揺らぐ国境の町で(1)

2022年04月07日 | 読書ノート
(1)ポ・リン/ここにとどまれ

年明けからポーランド語の作家ブルーノ・シュルツを読み始めたのは、昨年末ヴァルター・ベンヤミンを読み込みながら、同じような境遇だと改めて思ったからだった。シュルツの小説についてはすべて再読、再々読になる。というのも残されているのは『肉桂色の店』『砂時計サナトリウム』という二冊の短編集と、未収録の四つの短篇があるだけだからだ。とはいえ、過剰なまでの比喩と修飾語に彩られた濃密でグロテスクな世界は、しばしば読者を幻惑し、迷宮に誘い込み、時間を見失わせるから相当の集中力を要する。「大鰐通り」という短篇は、ブラザーズ・クェイの映画「ストリート・オブ・クロコダイル」の原作である、と言えばご存じの方もいるだろうか。象徴に満ちたこの映画は、何度見ても非常にわかりにくいが、シュルツのイメージはよく捉えられている。
1892年に生れ、1940年に亡くなったベンヤミンも、やはり1892年に生れ、1942年に亡くなったシュルツも共にユダヤ人であり、戦争とファシズムの犠牲者である。しかしどうやらお互いについて言及していることはなく、それがこれまで特に意識してこなかった大きな理由だ。最近、書簡や評論なども収録した『ブルーノ・シュルツ全集』(工藤幸雄訳 新潮社 1998年刊)を入手したので、小説以外も読むつもりでいたのだった。
そうこうしているうちにウクライナとロシアの関係が悪化してきた。それでも世界中が注視しているこの時代に、そんなに大それたことができるはずはないと思っていた。だから半信半疑のまま、呆然と侵略の日の報道を見ていた。いったん侵攻が始まると、堰を切ったように暴力は歯止めがかからなくなった。早々に民間人の犠牲者が伝えられる。ベンヤミンやシュルツが巻き込まれた暴力が、急に身近に感じられるようになった。
「冬の日2022年2月24日、ロシアが攻めてきた。信じられないけれど、本当のことだった。」
10歳くらいの少年が日記を読み上げる。私もまた、この日を一生忘れることはないだろう。
「私は2回避難した。一回目はファシストから、2回目は同国の兄弟から」
85歳の女性が語る。市民の声は時に詩人の言葉になる。増え続ける避難者たち。4月4日の報道では国外避難者は424万人。その約6割、246万人がポーランドに避難しているという。先の言葉はいずれもポーランドにたどり着いた人たちの声だ。
ウクライナからの報道の多くが西部リヴィウから伝えられている。ハルィチナー地方リヴィウ州の州都である。ロシアからの攻撃が比較的少ないこの都市は、ポーランドへ向かう拠点ともなっている。ブルーノ・シュルツはリヴィウから80km程離れた同州ドロホビチに生れ、リヴィウ工科大学建築科に進んだが、生涯のほとんどをドロホビチから離れることなく、小説もまた連作のように繰り返しこの地と思われる町を舞台にしている。
 ところで冒頭でシュルツをポーランド語の作家と言った。シュルツの国籍を説明するのは簡単ではない。リヴィウやドロホビチを含むハルィチナー地方東部は、第一次世界大戦まではオーストリア・ハンガリー帝国領で、第一次大戦後は、独立したポーランドに編入され、1939年ドイツのポーランド侵攻後、ドイツとソ連のポーランド分割に伴い、ソ連のウクライナ共和国に併合され、さらに1941年には独ソ戦により、ナチス・ドイツの支配下となった。つまりシュルツは生れたときはオーストリア・ハンガリー帝国人で、次いでポーランド、ソ連、ナチス・ドイツということになるのである。ウクライナ語のリヴィウは、ポーランド語ではルヴフ、ドイツ語ではレンベルクと、全く違った響きを持つ。
 二つの戦間期、ハルィチナー地域東部ではユダヤ人が人口の十二%を占めていたということだが、ユダヤ人は都市部に集住していたこと、リヴィウでは三〇%を占めていたということから、ドロホビチでもかなりのユダヤ人がいたことと思われる。この地域のユダヤ人の多くがイディッシュ語やヘブライ語を日常語としていたが、シュルツ家ではポーランド語を使用し、ブルーノ・シュルツ自身はドイツ語も堪能だったが、イディッシュ語やヘブライ語は解しなかったという。本文では以降、シュルツに合わせてリヴィウをルヴフ、ハルィチナーをガリツィアと表記する。(霜田文子)


トニ・モリスン『ビラヴド』とその時代(9)

2022年03月27日 | 読書ノート
その後もなお苦闘を続けながら、ポールDはそれらの記憶を「刻みタバコの缶に封じ込め」ていく。ゆっくりと時間をかけて。だから再びこじ開けることなどほとんど不可能なのだ。そしてこじ開ける代わりに、セサに向けて「お前自身がお前のかけがえのない宝なんだ」と言う時、自身にも言い聞かせたことだろう。こうして自分を取り戻し、再生していこうとする二人を描ききっているのだが、作者はここで終わらせてはいない。この後、文庫本にして3頁あまりの、散文詩のような章がある。
 124番地で起きたことを思わせる、しかしおぼろな夢のような断片。誰かがいた、けれどすぐに消えてしまう足跡。そしてリフレインされる「これは人から人へ伝える物語ではなかった」――訳者の解説がなければ知らなかったのだが、「伝える」の原語は「pass on」であり、これは「忘れる」という意味ももつ。ならば「伝える物語ではない」はまた「忘れてはならない物語だ」と、正反対の意味になる。これは黒人たちが自分たちだけに伝わるように歌に込めたダブル・ミーニングを踏まえてのことだろうか。「伝えたいこと」がそのまま「忘れたいこと」でもある矛盾、葛藤を思い知らされる。黒人たちと共有する記憶を持たない私たちは、思い出すことは出来ないけれど、想像することはできる。
 本書は「124番地は悪意に満ちていた」という文章で始まる。セサたち家族の住むところだ。執拗に繰り返される124という数字――なぜ3がないのだろう。1,2とは長男と次男、そして4は末子のデンヴァーにあたるのではないか。そうなのだ。3とは殺された赤ん坊に違いない。
 
 「誰もが、彼女がなんと呼ばれていたかを知っていたのに、何処の誰も、彼女の名前を知らなかった。」

ほとんど登場することのない二人の男の子にさえ、ハワードとバグラーの名前が与えられていたのに、私たちは赤ん坊の本当の名前を知らされていなかった。「もうはいはいしてんの子ちゃん」という愛称は、無垢で可愛い盛りだったことを思わせはしても成長していくはずの彼女に呼びかける本当の名前を誰も知らないのだ。「ビラヴド」とは、セサが体と引き替えに石工に彫らせた「墓碑銘」である。だからビラヴドの存在はセサに子殺しの記憶を突きつけるが、その響きは屈辱と悔恨と、それでもやむを得なかったという思いと、さらには石工にもっと時間を与えれば「かけがえのない」まで彫ってもらえたかもしれないと思ったことまで蘇らせるのだ。

「自分の鎮魂の成就に気を取られ、彼女はもう一つの魂のことを忘れていた。赤ん坊だった娘の魂を。ほんの小さな赤ん坊がこれほど激しい怒りを抱くことが出来るなどと、誰が想像しただろう。」

これを責めることは誰にも出来ない。けれどもセサに、ビラヴドの際限のない欲求にひたすら答えることを強いる。何よりも「ビラヴド」という響きがセサの尊厳を奪っていく。人間としての誇りをとことん傷つけられたポールDだからこそ、それを救えるのだ。
『ジャッカ・ドフニ』のチカは、不在の相手に手紙を書き、呼びかけた。しかし名前のない赤ん坊に呼びかける術を誰も知らない。だからビラヴドの方から呼びかけてきたのだ。「不在」を訴えるのだ。それは一人ビラヴドだけではない、呼びかけられなかった人たち、忘れられた人たち全ての声として。私たちが黒人問題、奴隷問題などと言うとき、なお、個としての彼らに想像が及んでいないことを認めなければならない。しかしそれぞれの生があり、死があるはずなのだ。スタンプ・ペイドが聞いた、セサの家を取り巻く喧しいわけのわからない言語とは、確かに死者となった黒人たちの怒り呟く声だっただろう。生者だけではなく、死者もまた生きがたいのだ。ビラヴドとはそれらの声を呼び寄せ、伝える者でもあったのだろうか。依り代のように。
 私には「124番地」と出てくる度に、不在の存在がドアをノックしているように聞こえる。誰が? ビラヴドが。そして無数の死者たちが。(この項終り)