ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

『悪童日記』に見る神話的構造(1)

2015年06月29日 | 読書ノート
ハンガリー出身の亡命作家、アゴサ・クリストフの『悪童日記』が映画化されていたことを最近知った。日本では昨年秋に公開されていた。映画はドイツ、ハンガリーの合作で、監督はハンガリーのヤーノシュ・サース。何人かの監督が映画化権を獲得しながらも実現せず、映像化不可能とまで言われていたという。   
原作を読んだのは20年以上も前、早川書房から翻訳が出て数年後のことだった。それでももう15版になっていた。評判を聞いて読んだものかどうか記憶にないが、ほぼ同時期に続編となる『ふたりの証拠』『第三の嘘』も読んでいる。『悪童日記』のラストが、さらにその先を期待させる終わり方だったからに他ならない。だが双子の主人公が「ぼくら」という複数の一人称で綴る日記体をとった『悪童日記』は、それぞれ別々の人生を送ることになる後の二作に比べ圧倒的に迫力があった。殺人さえも厭わない彼等なりの倫理、ナチスと、それに続くソ連による全体主義体制下での生き方などを、冷徹なまでの視線で、抒情を徹底的に排した平易で簡潔な文章で綴る。挑発的とも言える文体であった。戦争を背景にしながらいわゆる戦争文学とも言い切れない。どこか寓話的でもある。
再読したのは五,六年前だろうか。ちょうど、母語以外で書く作家が気になっていた時期であった。やはりすごい、いやとんでもない小説だと思った。改めてラストが圧巻だと思う。そしてその伏線となっているのが、神話的な構造というか、神話を借りた構成なのだと気づくことになった。それを確認したかったことや、この特異な小説がどのように映画化されたか興味があり、ビデオで見ることにした。ちなみに市内のレンタルショップにはなく、取り寄せとなった。そこまでして借りたのは初めてのことである。
フランス語で書かれた原作を、映画では作家の母語であるハンガリー語で撮っているが、全体には原作に忠実だし、祖母との軋轢や、グロテスクなシーンも抑制が効いてテンポ良く、短い章立てでブラックユーモアに満ちた寸劇を次々と繰り出すような、原作の雰囲気をよく伝えている。また原作では痩せて小柄となっている祖母が映画では巨漢だが、このピロシュカ・ギーマントという女優の、凄みを湛え、ふてぶてしいほどの演技はまさにはまり役だと思えた。しかし何といっても、実際の双子である主役の二人の少年がとてもいい。無表情、しかし目に宿る力が全てを表現する“恐るべき子供たち”だ。そして小説同様、最後までどちらがどちらなのか、どちらの台詞なのか全くわからないままだった。
室内のほの暗い光、母と幼い異父妹を襲う空爆の光―光と影のコントラストが効果的だ。また薄ぼんやりとした田園風景や、厳しく凍えるような冬の森といった自然描写が原作のもつどこかファンタジーめいた趣を増幅させている。(霜田文子)

基層の記憶に響き合い・・・ 阿部敏彦展

2015年06月20日 | 游文舎企画
レオナルド・ダ・ヴィンチは、その手記の中でしみや汚れた壁から、さまざまな情景を思い浮かべ、創作源とする方法を明かしている。確かにしみや汚斑は、私たちの基層の記憶を呼び起こし、想像力を駆り立ててやまない。


〈時〉
阿部敏彦さんの「時」シリーズもまた、「しみ」の中に見た幻視の像だ。ただし、レオナルドが列挙するような具体的な情景ではない。うすぼんやりとした不定形な像を、いかにそのままの形で描出するか、確かな物にするかという作業は、ことほどさように容易ではない。画材や技法を凝らして作り上げた深く豊かな色彩と、硬質な画面がそれを可能にした。こうして立ち現れた、茫洋として、どこかユーモラスで、いまだ異界に引き出されて戸惑っているような、原形動物にも似た形象が、既視感を伴って、見る人に語りかけるまでになった。


〈断片〉
一方「断片」シリーズは、岩肌や朽ちかけた壁そのもののような作品だ。阿部さんにとっては、抽象のきっかけとなったダンボールを使って、荒々しいまでの画面を作り出している。古い街並みや、月面や、廃墟や、焼け跡を思い浮かべてもよい。レオナルドが言うように、各種の風景や無限の物象を認めることが許される、見る人の想像力に働きかける作品なのだ。


〈庭〉
光や視線が絡み合い、縦横に駆け巡るような「庭」の連作と合わせて、三つのシリーズ約40点が並んだ。昨春の二人展で抽象の世界に踏み込んだ阿部さんが、いよいよ本格的に、伸びやかにその世界を展開している。今後が楽しみだ。(霜田文子)


「いまだ廃墟になれず・・・」―鈴木了二著『寝そべる建築』(2)

2015年06月04日 | 読書ノート
 さて、立原論を巻頭に置いた本書は、2011年に書かれた「「建屋」と瓦礫と」というエッセイで締めくくられている。東日本大震災による原発事故後の福島第一原発についてのエッセイである。かつて「テクノニヒリズム」―技術というものが生理的に有している、とどまるところを知らない前進運動―について書いたこともある著者にとって、これは“戦争よりもたちの悪い後日談”だった。建築家にとってどれだけ無念だっただろう。「「建築」の哀れと情けなさ」と、ため息の聞こえそうな文章を綴る。長いが、そのまま引用したい。
「いまだ廃墟になれず、かといってもはやもとにも戻れないという、どうにも行き場のない宙ぶらりんの情けなさを露呈しているからだ。
ふつうなら建築というものは、それがいかなるものであっても廃墟になると、ある風格をもつものである。なぜなら、それはルイス・カーンの指摘したように、廃墟になったときはじめて建築の建築性が純粋に立ち上がるからだ。」
「では福島第一原子力発電所はどうか。いうまでもなく、それは無残な崩壊を晒しつつ、しかしなお生きつづけるしかない建築だ。・・(略)・・建築の生からは追放されていながら、しかし死して廃墟になることは許されず、そのうえ建築にとっては予想外の、奇怪な生命を預かったとしか思えない不気味な発熱さえ帯びているのだ」
「しかもあきれたことにだれも「建築」と呼んでくれない。「建物」ですらない。そしてやっと呼ばれた名称がなんと「建屋」なのであった。」
 「廃墟」を論じ、「建つ/立つ」ことを換骨奪胎したような立原の考え方が改めて対置されよう。今につながってくる。ほとんど「屹立」ともいうべき現代建築の傲慢さを思う。



 写真は本書のカバー画。著者による原発石棺化のエスキースである。寝そべって見てほしい。  (この項終わり 霜田文子)